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秋芳馨る  作者: 故
4/10

(どうしよう……)

 そのお屋敷の所在から、江戸の民が桜田様ともお呼びするお方の御前で、アキはひとり途方に暮れていた。

 頼みの西田久右衛門は、アキの願いもむなしく、部屋を出て行ってしまった。彼を飲み込み目の前で閉ざされた襖障子が、外界から遠くアキを隔てたような気さえした。

「そこな者」

 言われ、アキははっと手をついた。

 先程から殿様に対しては、手をついているので精一杯だった。何ひとつ口に出来ず、貌を上げる事さえ恐れ多くてままならない。

「そう硬くならずと、近う参れ」

 アキは貌を伏せたまま僅かに膝で居ざり寄ると、再びじっと手をついた。

 微かな吐息がこぼれ、白い指が思い迷うように酒器へと向けられた。

(あ、お酌……)

 傍に付いていたお小姓も、人払いと下がらせてしまった。アキしかいなので、貌を伏せたままにじり寄り、銚子を差し出す。

 ああ。と呟き、向けられた杯へとアキは酒を注いだ。

 しかし思わず手が震え、その縁に注ぎ口を小さくぶつけてしまった。

「申し訳ございませぬ。とんだ粗相を……」

 慌てて手をつき、詫びる。

 アキはもう、泣きたいほどの心境だった。

「これしきの事、気にせずと良い」

 柔らかな言葉を残し、彼は一口酒を含んだ。

「そなた幾つだ」

「え?」

「歳じゃ」

 はっと胸を突かれ、思わず貌を上げてしまった。

 儀礼を忘れて大名たる人の貌を間近で見上げる。

 穏やかな瞳がアキを見つめていた。

(やはり、ご存知なのだ……)

 アキは悟った。何より、この清らかな瞳に嘘はつけぬと思った。

「申し訳ございません。わたくしは西田様の子にはございませぬ」

 アキは額を伏して謝った。

「うん?」

「一清さんは急な病で、どうしても舞う事が叶いませず、代わりを……」

「病か。それは致し方ないの」

「あの、わたくしが勝手を致しました。西田様も喜多の者も悪うはございません」

 アキは必死だった。事情はどうであれ、偽り事には違いない。お咎めがあるかもしれないと思った。

 目の前にいるのが西田の者ではない事は見破っている様子だが、どこまで事情を知っているのか、アキには検討がつかなかったのである。

「そちの一存と申すか」

「はい。お手討ちになさるならどうか私を……」

 杯を置く微かな音に、吐息のような笑みが混じっていた。

 子供独りの勝手で舞台に立てるはずもない。アキの言い立てに無理があるのは確かだった。

「そうか。ならば、褒美はそちにやらねばな」

 思いも掛けない言葉に驚き、アキは貌を上げた。

「良くぞ舞ってくれたな。まさに眼福であったぞ」

 アキの頬に優しく触れ、瞳を覗き込むと、にこりと彼は笑った。

「名は何と申す」

「アキ……。あ、いえ、秋に拾われましたので、そのまま呼び名に。寛文十年の事で、当時乳飲み子と聞いておりますので、おそらく十五にございます」

 まだ年若いお殿様は少し驚いたようにアキを見つめ、それからそっと腕を廻すと胸へと抱き寄せた。

「親を、恨むでないぞ……」

 声が少し、震えていた。

「皆様に良くしていただいております」

「そうか……」

 今一度そっとアキを抱きしめると、ひとつ吐息を零してその人は躰を離した。

「アキとやら」

 見つめる瞳が少し赤かった。

「そなた、兄はあるか?」

「どうでございましょう? 身元の証になるような物は、何もなかったと聞いておりますが……」

「いや、そうではなく……」

 ふと彼は視線を外した。どう言おうか考えているようである。

 その様子に、アキはあっと思った。お訊ねなのが、アキの身内の話ではなく、念者の事だと気がついたのだ。

「……そのような方はおりませぬ」

「まことか?」

 俯いたまま顎を引く。

 年少の者が年上の者と契りを交わし、兄弟として堅い絆を持つ風習は、特に武家では盛んであり、念者を持たぬ若衆は心が卑しいと世間に見られるほど一般的なものだった。

 生まれも判らぬ身では、望むことさえおこがましいと自戒しているが、頼る者を持てぬ己を恥じて、アキはたださし俯いていた。

「なれば、この綱豊では叶わぬか?」

「え……?」

 問われた言葉の不思議さに、アキは視線を上げた。

「ひとたび念友とならば、その絆は血より濃い。肉親の(えにし)薄くとも、その分までそなたを(まも)れよう」

「私のような者に、そのような」

 アキは驚いて首を振った。

「兄と頼るには不足か?」

「不足だなどと。恐れ多い事にございます」

 慌てて手をつく。御大名を兄に持つなど、とんでもない話である。

「アキ。他に想う者があるなら諦める。そうでないのなら、どうか頷いてくれぬか」

 手を取って貌を上げさせたそのまなざしは、心の内を映すようにまっすぐアキを見つめていた。

(なんて澄んだ瞳をしているのだろう……)

 幕府の重要地である甲府を預かるこの青年は、細面の白い肌に鼻筋の通ったなかなかの美男である。上背もある。高貴な血筋らしい気品にあふれ、話し振りからもその穏やかな気質が垣間見られた。

 こんな立派な人が自分を望んでくれるなど、にわかには信じられないような相手である。

 ましてや我が身を省みれば、アキには夢としか思えぬ出来事だった。

(ああ、そうか……)

 もしかしたら高貴な御方は、一夜の夢でもそう言って誘うのかもしれない。

 お優しい方だから、きっとそうなのだ。

 念者がいるかと訊ねたのも、想い人があるのに伽をさせるのは忍びないと気遣って下さったに違いない。

「私のような者でも、お気に召しましたのなら、どうぞかわゆがってくださいませ」

 アキは、すっと綱豊の胸に頬を寄せた。

 ただ一夜でもかまわない。弟と思って抱いて下さるのなら、それで満足だとアキは思った。


(なんだろう。すごく暖かい……)

 その心地良さに頬を寄せ、アキは再び眠りの中へと戻ろうとした。

 が、ふと思う。ここはどこなのだろう……

 途端、全てを思い出し、はっとアキは我に返った。

「起こしてしまったか?」

「申し訳ございませぬ。眠って……」

 なんという失態だろう。客と閨を共にして、勝手に眠ってしまったのだ。

 それも、殿様と仰がれる身分のお方とひとつ布団で熟睡するなど、我ながら呆れるほどの非礼である。

 慌てふためいて身を起こそうとするアキを、彼は引き留めた。

「今しがたまで共に眠っておったのだ」

 気にするなと優しい腕がアキを抱き寄せ、その背を撫でた。

「躰は辛うないか?」

 囁くように言う。

「このように大切にしてただいたのは、初めてにございます」

 涙ぐみそうになって、慌ててその胸に貌を押しつける。

 綱豊は、まるで壊れ物を扱うようにアキに触れた。

 そっと、慈しむように優しく、どこかぎこちなさを感じるほどていねいに、時折アキを気遣う言葉を掛けながら、大切に、大切に……。

 初めて味わう幸福感にアキは震えた。

 もう、夢でも(うつつ)でもかまわない……

 包み込むようなぬくもりに腕を絡めながらアキは思った。

「名残惜しいが、そろそろ行かねばならぬ」

 しばし胸にアキを抱きしめた後、彼は言った。

「お支度を……」

 アキは共に起き上がると、身支度を手伝いながら、その姿をそっと瞳に焼きつけた。 

「アキはこのまま休んでおれ。もう少ししたら送らせよう」

 言うと、綱豊はアキをうなじから抱き寄せ、そのまま見つめた。

 アキがそっと頬に触れると、覆いかぶさるようにして彼は唇を重ねた。

「恙無く参れよ」

「はい」

 これが別れだと思った。この接吻けが最後なのだと。

 その背を見送ったアキは、急に寂しくなって夜具へとぬくもりを捜した。

 彼のいた辺りに頬を寄せる。

(あったかい……)

 こうしていると、その腕に包まれているように思えた。

 もう少しだけこのままで……

 薄れ行く名残を惜しむように、アキはそっと瞳を閉じた。

 

「……おい……おい……」

 小さく呼ぶ声に揺り起こされ、アキは眠い目をこすった。

 辺りはまだ暗い。

 燭台の灯りに、ぼんやりと人影が浮かび上がっていた。

「無理に起こしてすまぬが、そろそろ送って行こう」

 ああ、そうだったと、アキは躰を起こした。いつの間にかまた眠ってしまっていたようだ。

 男は立ち上がるアキに手を貸すと、(まと)っていた単衣をすらりと抜いて、用意してあった湯でてぬぐいをすすいでは、アキの肌を丹念に拭き始めた。

「あの、自分でやります……」

「これしきの灯りでそうは見えん。心配するな」

 さすがに羞恥を覚えて身を引こうとしたが、男は取り合う様子もない。淡々と作業を続け、衣まで綺麗に着付けてくれた。

「さて、行くか。……と、その前にこいつだった」

 彼は傍らの包みから何やら取り出すと、アキへと差し出した。

「お前さんにと(ことづか)った」

「え?」

「お殿からだ。下さると言うのだからもらっとけ」

 促されて受け取る。

 一尺余りの小さ刀である。美しい装飾が炎の揺らめきに煌めいていた。

「こんな立派なものを……」

「あの方の御心だろう。道中は俺が持って行こう」

 男は再びそれを風呂敷に包み込むと、しっかりと背に括りつけた。

 灯りを取り上げ、アキを促す。

 その後をついて長い廊下を抜け、屋敷を出ると、ふたりは通用門をくぐった。外は、夜明け前の一番暗い時間帯である。

「ぬかるんでるから気をつけろ」

 一雨あったらしい。提灯の光が時折水たまりを掠めた。

 アキの足元を照らしながら、男はもくもくと歩いた。

 アキも何も言わず、ただ灯りを見つめてついて行った。

 ふと、男が立ち止まる。

 なんだろうと思って足を止めると、彼は片手でひょいとアキを抱え上げた。

 大きな水たまりがあったと知ったのは、それを越えてからである。さほど大きな男ではなかったので、がっしりと太い腕とその力強さが意外なほどだった。

「そろそろ夜が明けるな。もう少し早く歩けるか?」

「はい。ついて参ります」

 足を速めた男の背を懸命に追って行くと、やがて夜目にも見慣れた町並みが辺りに広がりはじめた。

「あの、お屋敷のお方」

「早過ぎるか?」

 提灯が止まり、男が振り返った。

「いいえ。あの、もうここから直でございます。この辺りで大丈夫にございます」

「家まで送り届ける約束だ。直というなら造作もない。気にするな」

「でも、お急ぎなのではございませぬか?」

 夜明けまでにアキを送り届け、急ぎ戻らねばならぬのではと、アキは気掛かりだった。

「ああ。別に用があるってわけじゃないのさ。その、人が出るようになってから戻るんじゃ、うまくねえかと思ってな」

 夜が明ければ早い者は働き始める。人目のない内に送り届けようと思ったらしい。

「お心遣いありがとうございます。なれば、駆けて参ります」

「無茶を言うな。転んで怪我でもさせちゃあ、お殿に顔向け出来ねえ」

 はじめて男は軽口を叩き、

「名を言ってなかったな。オレは亀助(きすけ)ってんだ」

と、薄闇でアキに笑みを見せた。

 亀助と名乗った男は促すように先を照らし、ふたりはまた道を歩き始めた。

「アキか?」

 少し行くと、進む先から小さな声が聞こえた。すぐそこが喜多邸である。白んで来た空が、微かな影を浮かび上がらせていた。

「梅中?」

 声で察し、返すと、飛びつくようにそれは駆け寄って来た。

「アキ、無事か? 大事ないか?」

 両の腕をしっかと掴み、梅中はアキを覗き込むように尋ねた。

「うん。大丈夫だよ。わざわざ迎えに来てくれたの?」

「早く目が覚めたんだ」

 何でもないように言うが、彼がアキを案じて様子を見に来たのは明らかだった。もしかしたら、ろくに眠らず心配してくれていたのかもしれない。

「喜多の者か?」

「内弟子の梅中さん」

「そうか。ならば……」

 ちょっと持ってろと提灯を梅中に持たせ、亀助は背負っていた荷を降ろした。

「それ」

 アキへ引き渡す。

「ありがとうございました」

 両手でそれを受け取ったアキは、亀助に向かって深々と頭を下げた。

「坊、確かに送り届けたぞ」

 亀助は、提灯を引き取りながら梅中に言った。

「坊だと?」

 気色ばむ梅中に笑い、

「またな、アキ」

と、肩をひとつ叩いて、男は今しがた来た道を引き返して行った。

「またってなんだよ」

 梅中はそう呟き、頭を下げて亀助を見送るアキの肩を手で払った。

「なに?」

「なんでもない。行こう」

 アキを促す。

 空は、刻一刻とその明るさを取り戻して行き、ふたりが通用口をくぐる頃には鳥がせわしなく鳴き始めていた。

「待ってろ、今水を」

 たらいを出してくれた梅中にひとつ頷き、アキは上がり口へと腰を降ろした。

 傍らへそっと荷を置き、ぬかるんだ道に汚れてしまった足を差し入る。

 そこへすすぎを注いだ梅中は、そのままかがんで水の中へと手を入れた。

「梅中、自分で……」

「いいから」

 手を伸ばすアキを止め、梅中はそのままアキの足を洗ってくれた。

「けっこう降ったからな。すべらなかったか?」

「うん。亀助さんが歩きやすい所を選んでくれたみたい」

「そっか。ほら、足上げろよ」

 きれいに泥を落とした梅中は、続けて足の水滴を拭いはじめた。 

「小秋かい?」

 呼ぶ声にアキが振り返ると、物音を聞きつけたのだろう。囲炉裏端脇の部屋からこちらを覗いている顔があった。

「お勝さん」

「アキ、もう少しだから」

 梅中は動くアキの足を掴み、もう片方も同じように拭いてくれた。

「あれ、坊ちゃん……」

 傍まで近づいたお勝は、その様子に少し驚いたらしい。目を丸くして土間の梅中を見つめた。

「お勝、あとは頼む。先に知らせて来る」

 梅中はついでに自分の足も簡単に拭うと、板間へと飛び上がり、大股で廊下へと歩いて行った。

「小秋、大変だったね」

 アキの目線まで腰をかがめ、気遣うお勝に、

「ううん」

と、アキは笑った。

 確かに大変な思いもしたが、心配されるほどの大事は何もなかった。

「どれ、火を起こそうかね」

 ひとつ頷いたお勝は、乱れた髷に手をやりながら、その腰を浮かせた。

「そこはそのままでいいから、挨拶しといで」

「はい」

 立ち上がったところへ、足音が近づいて来た。知らせを受けた宗能が、梅中と共にわざわざやって来たのだ。

 まだ着替えも済ませていない。

 早朝に皆を起こしてしまったようで、アキは申し訳なかった。

「アキ、帰ったか」

「はい。ただいま戻りました」

 袴を整えて膝を折ると、きちんと手を揃えてアキは頭を下げた。

「無事ならいい。とにかく部屋へ来なさい」

「はい」

 頷き、傍らの荷を抱えてアキは立ち上がった。

「湯漬けくらいならあるから、話が済んだらおいで」

「ありがとう」

 声を掛けてくれたお勝ににこりと笑うと、アキは喜多邸の奥へとふたりを追って歩みを進めた。

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