三
遠方から轟く雷鳴を聞いた気がして、宗能は空へと視線を流した。
季節柄、それは澄むように高くはなかったが、さほど悪い様子もない。一雨来るにせよ、まだもつだろう。
宗能はひとつ息を吐くと、楽屋門をくぐった。
「どうやら、間に合ったようにございますな」
漏れ伝わる音曲に耳をそばだてながら、お供の弟子はようございましたと頷いた。
甲府上屋敷で催されているこの能会は、ごく内々の略式な物であり、饗応やら祝賀やらと取り行われるそれと比べれば規模も小さい。
それでもひとたび御能となれば、何かと力添えも必要であるから、流派の宗家に挨拶があるのは常の事だった。
どのみち人を出すのだからと、一清がシテを務める猩々乱の仕切りは、全て門下で引き受けた。一清にとっては乱の披きであり、西田家にとっても晴れの舞台となるこの日のために、出来るだけの事はしてやりたかったのだ。
本来であれば自ら足を運ぶ必要もないのだが、少々気掛かりな思いもあり、所用を済ませたその足で、様子を見にやって来たのである。
喜多の当主である以上、こうして顔を出せば知らぬふりも出来ぬので、まずは最低限の挨拶回りを済ませた宗能は、あとは一清とばかりに楽屋を目指した。
「一清はどうだ」
「それが……」
駆け寄って来た弟子は、言葉を濁し、浮かぬ顔を奥へと流した。
「とにかく、こちらでございます」
導かれた先には、紅の装束に身を包んだシテ役が坐していた。
「師わざわざ……」
「ああ、そのまま。良う拵えたな」
恐縮して礼を尽くそうとする一清を押し止め、宗能は小さく笑みを造った。
(ひどい顔色だ)
一目見て思う。
舞台を前に、緊張から蒼ざめる演者は珍しくない。しかし、ここ数日の一清の様子は何やら病めいており、宗能は秘かに案じていたのだ。それが、こうして訪ねて来た理由のひとつだった。
飯もあまり進まぬようでして……
申し合わせを見に来た父親も、これまでの指導の礼を深々と述べた後、沈んだ表情で小さく言った。
一清はまじめで大人しい子供だった。父に言われるままに宗能の元へ通い、教えられた事をもくもくと練習していた。あまり丈夫でなかった事もあるが、他と競う様子もなく、いつも控え目だった。
教養のひとつとして申楽を学びに来ている武家の子であるから、宗能もそう細かい事は言わなかったが、およそ、舞台に立って人の目を集める質ではない。本人も書を読み学ぶほうが好きな様子だった。
(これが終わったら、久右衛門殿に相談しよう)
西田清貞は、二番目の男児には自ら申楽の手ほどきをしたが、やはり人に任せるべきだったとその仕上がりを悔いていた。末の息子をどこぞに通わせたいが、やんちゃ盛りで手を焼いていると、暗に相談されたばかりである。一清を父親の元に戻し、代わりに末子を引き受けるのも良いかもしれぬと、宗能は思い始めていた。
心配そうに傍らに付き添っていたアキが、そっと一清の額を懐紙で押さえた。暑いという顔色ではないのに、その額には汗が滲んでいるのである。
「装束がキツイか?」
一清は、ただ首を振った。
「そう思って少し緩めてはみましたが……」
後見役が宗能へ向ける視線も、不安に揺れて救いを求めていた。
「あ……」
小さくアキが声を上げ、一清を支えた。苦しげに呻いて上体を屈めた一清の腕は、庇うように胃の腑辺りを押さえていた。
「お医者様を……」
蒼ざめた貌でアキが宗能を見上げた。自分が呼びに走ろうかと訊ねているのである。
「大事ございませぬ……」
健気にも一清は声を振り絞ったが、汗が流れ落ちるその顔は蒼白だった。
(これは無理だ)
宗能は覚った。
「今、舞台は?」
「すでに前の曲が始まっております」
「時がないな」
宗能は迷った。このまま舞台を中止にすべきか、あるいは代役を立てるかである。
通常の場合、演者に何かあれば代役を立てる。それが舞台の途中であれば後見が舞う。あくまでも舞台を遂行するのが申楽師の使命だった。
ただ今日は、甲府様ご家中の子供達で構成された会である。それでなくても急場でシテを代えるのは至難であるのに、その条件まで満たすとなると、ほぼ不可能に近い。
それが宗能の悩む理由であり、弟子達もまた、一清が回復するのを信じて見守る以外になかったのだ。
とにかく一清を舞台に出し、何かあれば自分が舞うしかないと、主後見は腹を括っていただろう。代役の条件が厳しい中で、彼に取れる選択は他にない。
しかし、ここまで容態の悪い一清を、舞台に立たせる事は難しかった。たとえ本人が出ると言い張っても、ろくに舞えぬ状態なのは明らかである。一清自身のためにも止める決断を宗能は下した。
あとは代役か中止かであるが、申楽師にとって舞台の中止とは、命を失う覚悟の選択である。玄人ではない一清にそこまで求める事はないと思うが、万座の中で面目を失うというのもまた、武士にとっては大きな恥となる。親子共々腹を斬るだの言い出さないとも限らなかった。
(なれば……)
宗能は一度目を閉じた。
「すぐに支度を。小秋を出す」
「え?」
アキは驚き、顔色を失くして小さく首を振った。
無理もなかった。
だが、四の五の言っている時間はない。
「舞台に穴を開ける気か。早ういたせ」
アキの腕を掴んで立ち上がらせると、宗能は門下の者を叱り飛ばした。
喜多の舞台であれば、自分が代わりに舞えば済む。しかし、こうした趣向の会である。せめて歳若い演者を立てるのが筋だろう。
この時、屋敷に入っていた門下生で最も年少だったのが、楽屋働きのアキだった。
昨日までの稽古を共にしていたアキならば舞える。幸い申楽は面を掛ける。上手く行けばごまかせる可能性も皆無ではなかった。
「誰ぞ、西田殿に急ぎ連絡を」
言われて一人が小走りに部屋を抜けた。
一か八かの選択である。西田久右衛門がそれを伝えるも良し、黙っているのも彼次第だ。
とにかく今はやり遂げるしかない。
宗能は自ら先頭に立ち、代役による舞台の準備を整えて行った。
「大丈夫でしょうか?」
拵えを終えて鏡の間へと控えを移したアキは、そのままじっと瞳を閉じて坐していた。その様子を少し離れて見守りながら、古参の弟子は心配そうに宗能の耳元へと囁いた。
(アキならばやる)
口に出しては言わなかったが、宗能はそう信じていた。
アキは小さい頃から舞台度胸のある子供だった。
取り立てて緊張している様子もないので、そういう質なのだろうと思っていたが、一舞台終えたアキの肌着は、ぐっしょりと冷たい汗を吸っていた。表面上は変わらぬが、その背に大量の冷や汗をかいていたのである。
ただの怖いもの知らずではなく、舞台の恐ろしさも充分理解している証だった。
それでもアキは、ただ静かに揚げ幕を抜けて行く。
生ものである舞台では、予期せぬ事も時には起こるが、たとえ巻き込まれてもアキは冷静で、大きく崩れる事はなかった。
豪胆とはまた違う強さが、この子にはあるのだ。
今はそれに賭けるしかない。宗能は思った。
「そろそろ面を」
差し出された面を両手で受け取ったアキは、じっと視線をそそぎ、それから一礼して静かにそれを掛けた。
もうその表情を伺い知る事は出来ない。
しかし、すくりと立ち上がり、揚げ幕を出て行った足取りは、脅えてもおらず、力が入り過ぎている様子もなかった。
(これなら大丈夫だ)
下り端で橋掛かりを進む姿に宗能は頷いたが、それでもその場を離れる事は出来ず、物見窓からアキを見守り続けた。
若葉の会と呼ばれるこの初々しい催しは、文字通り歳若い演者達で構成されており、御重役家の子供達の披露を兼ねた、子方がずらずらと出るような御愛嬌の幕もあれば、狂言で観衆を沸かせる者や、囃子や地謡で鍛錬を披露する曲ありと、趣向を凝らした番組立てとなっていた。
その分構成はおおらかで、軍記物が続いたり、この猩々にしても秋の演目なのだが、そう言った細かい事は抜きなのだろう。
もっとも申楽師は、これが観たいと所望され、季節がどうなと野暮は云わぬ。真冬に花盛りも、真夏に雪景色も、舞い描いてこそのお役目である。
舞台に立つ子供達や身内にしてみれば、一世一代の大舞台と力の入る事であろうが、見守る空気はむしろ柔らかい。奉公人達の慰労も兼ねてか、自由に出入りが許されているようで、白洲にも多くの人影が坐していた。
猩々が酒売りの高風を祝福し、酌めども尽きぬ酒壺を与える。それだけの物語である。
水中に住み酒を好むとされる猩々が、楽し気に酔って遊び戯れる。その舞が見どころの曲だった。
見所に微かなどよめきが満ちた。背格好も年若な舞手が、想像以上に達者に映ったのだろう。
アキの舞は良く囃子に乗っている。囃子方も舞手を支え、導きながら、相乗効果で舞も音も伸びる。そんな印象の舞台だった。
よも尽きじ
まだ声の不安定な年頃であるが、上手く乗り切ったようだ。
よも尽きじ 萬代までの竹の葉の酒
地謡が続く。
泉はそのまま 盡きせぬ宿こそ めでたけれ
最後の足拍子が入った。
初めて務めたにしては緊張や硬さを感じさせる事もなく、祝賀物らしい華やかな幕切れである。
満足そうな見所の様子に、宗能は大きく息をつき、舞台から戻る演者達を迎えた。
面を外すと、はじめてアキはガタガタと震えた。
「いまごろ足が震えて……」
困ったように笑う。
「良うやった」
これだけ急な代役である。どれだけの戸惑いと恐怖であっただろう。
「見事な舞だった」
師の称賛に、控えめではあるが安堵の表情を浮かべ、アキは小さな頷きを返した。
「一清さんは?」
「ああ、少し落ち着いたので、人をつけて帰したところだ」
「良かった」
ようやくほっと息をついた少年の頬には、いつものやわらかな表情が戻っていた。
「小秋、素晴らしかったぞ」
地謡や囃子方もアキを取り囲み、急場を乗り切った少年を口々に褒め称えた。
「皆様のお力添えあっての事にございます」
アキは丁寧に礼を言い、周囲に頭を下げた。
代役を知らされた時、幕に携わる全ての者が、少なからず戸惑いや驚きを覚えたことだろう。
それでも幾たびも舞台を踏んで来た本職である。
「どうか、小秋を支えてやってくだされ」
宗能の言葉にただ頷き、彼らは心持ち頬を引き締め舞台へと出て行った。
この幕が会心の出来となったのは、代役を務めたアキの力量もあるが、皆が一丸となってそれを援け、舞台を支えたからである。
アキはその生い立ちのせいか、何事にも遠慮があり、自ら進んで前に出ようとするところがない。シテ向きではないかもしれぬと宗能は眺めていたが、周りが援けてやりたいと思うのもまた、舞手にとっての天資であろうか。
舞台とは、演者ひとりで成り立つものではないからである。
たとえば梅中のように、自ら光を放ち、その力で周囲を引っ張る者もいる。
こうして周りに支えられる華もまた美しかろう。
アキがどんな舞手となるのか、実のところ宗能にも良くわからなかった。
ただ、その成長を今しばらくは眺めていたい。
まだあどけなさの残る横貌に、宗能は思った。
「キリを務められた皆様方、殿よりお言葉がございます。揃い出でられませ」
無事に舞台を終えた安堵に一同が息をついた所へ、表からの使いが膝をついた。
「皆とは我々もか」
「はい。舞台を務められた皆様にございます」
人々はなんとなく顔を見合わせ、それからアキを見た。他はともかく、シテを務めたアキは当然出なければなるまい。
「面は……」
「それは却って怪しい。そのまま行きなさい」
不安そうなアキに小声で囁き、宗能は皆を送り出した。
見所の前に並ぶ様子を、嵐窓からそっと見守る。
「良き舞台であった。特にシテの小冠者、見事である」
ずらりと並んで手を突く一同に向い、見所の奥から年若い声が響いた。
「西田久右衛門が長子であったな」
「は」
片隅に恐縮して伏している姿が見える。どうやら、代役の事は秘されている様子だった。
「小冠者、杯取らそう」
その言葉を受け、三方がアキの前へと運ばれた。
アキは少しためらいを見せたものの、控え目な仕草で、だが作法通りにそれを受けた。
「ありがたき幸せにございます」
清貞が礼を延べ、アキもまた深々と頭を下げた。
「皆にも御酒を下される。下がってゆるりと寛ぐが良い」
家来衆の言葉に一同は礼を述べ、またぞろぞろと御前を下がって行った。
その様子にやれやれと宗能は息を吐いた。一列に連なって戻って来る一行を迎え、何事もなく済んだ安堵を小さな頷きで伝え合う。
「さあさあ、疾く片づけて御酒をいただこうではないか」
「さすがは甲府様。ありがたい事じゃ」
その場の空気を変えるようにひとりがおどけて言うと、同調するように何人かが応じ、一同は舞台後の始末へと取り掛かった。
「私も手伝おう」
宗能も支度部屋に下がるとアキの装束を解きはじめた。一清を送って行くのに人も割いた。楽屋の雑事をこなしていたアキは舞手として舞台に立った。この状況である。とても座っている気にはなれなかったのだ。
「ご家中のお役者衆がご挨拶に」
頃合いを見計らって来たのだろう。甲府家は喜多流の支援者であり、お抱えの申楽師はほぼ喜多の弟子筋である。宗能に礼のひとつも言わねばならぬ立場だった。
「ここはお任せください」
宗能のお供で楽屋入りした古参の弟子は、当然のように後始末を手伝いながら、そう促した。
「なれば、ついでに御酒のお礼もして来よう。待たずと良いから、皆でやってくれ」
下され物の酒である。
心得ましたとうなずく彼に全てを託し、宗能は一度そこを離れた。
が、諸事を片付け戻って見るとアキの姿がない。
「小秋はどうした?」
「湯の用意があると聞いて、高風とふたり飛んで参りました」
「酒より風呂が馳走とは、とんだ猩々にございますな」
舞台終の和やかな雰囲気に緩むのだろう。みな軽口をたたいてはおかしそうに笑った。
「湯をふるまってくださったか。それはありがたい」
年中あちらこちらで舞台を務める申楽師だが、食事の世話さえないのが普通だから、重箱に好物を詰め込んで、楽屋の楽しみとしている者も少なくない。
ところが、この屋敷の心配りはとにかく行き届いており、隅々まで清められた楽屋には、湯やら炭やら細々としたものまで整えられ、菓子だ酒だとお見舞い下さる。申楽好きの主の意向なのだろう。
「先に頂戴しましたぞ」
機嫌よく声をかけて来たのは、囃子方の重鎮である。まだまだ心もとない舞台を支える為に、囃子方には人を揃えた。年若い宗能にとっては身の引き締まるような大先輩である。
「本日はご尽力頂き、かたじけのうござった」
「なに。甲府様のお舞台なら、いつでも大歓迎じゃ」
他家ではめったにない振る舞いに、みな上機嫌である。
「それに、今日は良いものが見れた。先が楽しみにございますな」
目を細める。アキの事だった。
「まだまだ精進させますゆえ、何卒お頼み申します」
「これは、なかなかに厳しいの」
むしろ気持ちを引き締めるように頭を下げる宗能に笑い、彼らは楽屋を辞した。
「小秋が気を遣いましょうから、荷を先に返そうと思いますが」
「ああ、そうだな。良う気がついてくれた」
本来であればアキの役割であった仕事も、総出で片づけてくれたのだろう。荷造りされ、運び出されるのを待つだけのそれに、宗能は頷いた。
「お前達も上がりなさい。小秋も直に戻ろう」
手をついて挨拶を述べる彼らを見送ると、入れ替わるように、楽し気に言葉を交わし合う気配が近づいて来た。
「ふたりとも、しっかり温まって来たか」
尋ねる宗能に、はいと揃って肯く。ほんのりと上気した頬が愛らしかった。
「なれば、湯冷めせぬ内に引き上げるとしようか」
「本日はありがとうございました。また良しなにお頼み申します」
着いた指を丁寧に揃え、礼を尽くす。
この日、ワキの高風を務めたのは、まだ歳若い演者である。経験は浅いが、急に父を亡くし、周囲に頭を下げながら何とか芸を継承しようと精進している姿に、宗能も気にかけお役を回していた。
申楽は、囃子方と狂言方、そしてこのワキ方とに分業されており、シテ方同様それぞれに流派があるのだ。
労う宗能に今一度頭を下げた彼は、互いに知った仲のアキとは気安く挨拶を交わし、楽屋を引き払って行った。
「お待たせしてしまったでしょうか」
「なに。ほんの今し方皆が出たところだ。我々も連れだって戻ろうではないか」
宗能自らが残っていた事に、やや恐縮した様子のアキに、のんびりとした物言いで支度を促す。
そこへ、息せき切って訪れた者があった。久右衛門清貞である。
「七太夫殿、こちらにござったか」
言うなり彼はすとんと腰を下ろし、深々と頭を垂れた。
「真っ先にお詫びに参上せねばならぬのに、かように遅うなり、面目次第もござらぬ」
息子の事で迷惑をかけた上に、挨拶が遅れた事を切々と詫びる清貞に、宗能はまあまあと声を上げ、それを止めた。
「お立場上いろいろありましょう。そのように詫びてもらう謂れもございませぬ」
上役への挨拶回りも必要であろうし、舞台の祝いを伝えに来る者も多かろう。息子の容態も気に掛かっているであろうその胸中で、晴れの舞台を務め上げた演者の親としての振る舞いを今少し続けねばならぬのだ。礼を欠いているとも、そもそも恩に着せるつもりも宗能にはなかった。
清貞はアキにも丁寧な礼と労いの言葉を述べると、恐縮しきった額に汗を滲ませ、続けた。
「この上の無心で心苦しいばかりだが、今一度、お力添えをいただけますぬか」
アキの事である。
上役より、演者と共に主君への御礼に上がるよう指示があったのだ。
「とは言え、お傍近くに参るほどの身分ではござませぬゆえ」
さすがに身代わりで殿様の御前に上がれとは、アキも顔色失う。それを和らげようと、清貞は多少おどけた物言いをした。
武家社会は厳格な身分制度を元に成り立っているから、御目見得以上であっても直接主君と言葉を交わせる立場の者は極限られる。
上役や小姓が口上し、だだ広い部屋の片隅か、お廊下の障子越しにお言葉を賜るのがせいぜいで、ましてや無役の子など父親の隣でひたすら平伏していれば用が足りる。
それを聞けば、さほどの無理難題とも思えない。アキは幾分ほっとした表情を浮かべた。
大名家にも頻繁に出入りする宗能であるから、そうした武家の風習は先刻承知なのだが、気がかりは家紋である。果たして衣の紋も揃えずに罷り出て良いものであろか。
「久右衛門殿、確認したいのだが、乱が代役であった事は伝えておらぬのだな?」
「いや、さすがにそれは出来かねるゆえ、上には申し上げた。ただ、殿のお耳に届いているのかどうか……」
首を振り、それでも
「我が殿はお優しい方なので、庇うてくだされたのやもしれぬ」
と言った。代役を承知で、西田の子のまま通したのではないかと。
「なるほど」
そう思えば、西田の長子と、わざわざ念を押すような物言いであった気もする。
主がそう口にした以上、乱を舞ったのは、あくまでも西田の子でなくてはならない。たとえ事情を知っていたとしても、誰もが口をつぐみ、清貞を褒めそやすだろう。寄せられた讃辞や称賛の真意を計り兼ねて、彼は汗を拭き拭きひたすら恐縮していたはずだ。
そこに御前参上の指示である。清貞は困窮しきっていた。
それでも、偽る事無く事情を話し、強いる素振りひとつない誠実さに、手を貸してやりたい思いも沸いて来る。
「小秋はどうだい?」
無論、アキが懸念を示すなら、行かせるつもりはない。それは清貞も同じだろう。
アキは少し考えるそぶりを見せたが、
「本当に、このままで大事ございませぬか?」
と、身に着けている衣の紋の辺りへ視線を流した。
申楽師にとって舞台は公務であり、こうして大名家に出入りする以上、アキのような楽屋働きに至るまで肩衣に袴の正装である。御前に上がるのに失礼はない。
拾われ子のアキは家紋もわからぬので、広義で喜多の者との解釈で、喜多霞を着せている。梅中のおさがりがそのまま使えるから、好都合なのだ。
当然、西田家の紋とは異なるから、それで御前に上がるのは、西田の者ではないと公言しているも同然である。
それでも問題にならないのなら――ご家中がすでに代役を承知している。あるいは、家紋の違いなど判らぬ遠目の謁見か、とにかく、誰もそれを問わぬ状況ならば、行こうかとアキは尋ねているのだ。
「お廊下の隅で手を着いているだけなら、わたくしでも叶いましょう」
恐縮しながら礼を繰り返す清貞に、アキはそう笑った。
確かにこうして屋敷内にありながら、その主からの呼び出しを断る術など、そもそもないようにも思える。宗能はひとつ頷くと
「ここで待っていよう。行っておいで」
とアキを送り出した。
しかし、結局それは叶わなかった。すっかり日の暮れた室に引き返して来たのは、重い足取りの清貞ひとりだった。
「申し訳もござらん……」
清貞は手をつき、深々と宗能に詫びた。
彼の話によれば、予想に反して通された部屋はこじんまりとしており、お小姓はいるものの、上役の姿もない。これは妙だと辺りを見回せば、アキもまた不安そうな瞳を向けていた。
考える間もなく御成りが告げられ、慌てて平伏すると、座した気配は仰天するほど間近い。
主君は再び舞台の功を褒め称え、いくつか御下問があった。
直答を許す旨小姓に促されても、咄嗟に気の利いた返答が出て来るものではない。清貞はアキを庇い立てながら、ただただ恐れ入っていた。
ふたりをねんごろに労った後、演者と話がしたいと、主は清貞のみを下がらせた。
下がれと言われれば下がるしかない。
小姓に促され、縋るような瞳で引き留めるアキを残して清貞はそこを出た。
「なれば、今しばらく」
待とうと宗能は言ったが、清貞はその表情に疲れを滲ませながら首を振った。
室から長い廊下の果てまで連れ出されても、先導役の小姓が離れるや清貞は取って返し、その片隅でアキを待ち続けた。主君に付き従って来た小姓が、これまた室から出された様子で、襖障子の前に控えているのが辛うじて見えるほどの遠目である。
その彼が、室内から何やら告げられた様子で立ち上がった。
清貞に近づき、話が弾んでいる旨を告げる。
「当家にて送らせるゆえ心配するなと……」
このまま泊まらせると言うのである。
「では、小秋は……」
共にアキを待っていた古参の弟子も、そう呟いたきり口をつぐんだ。
(色子として召されたか……)
宗能も口には出さず、ただ小さく吐息を吐いた。
芸事には金を出す庇護者が要る。
申楽とても例外ではなく、そもそもが世阿弥への足利義満公の寵愛なくしては、ここまで大成する事はなかった。
今でも酒色の相手はその任務のひとつであり、子方にはそれなりの作法を教え込む。酌の仕方、杯の持ち方まで細部に渡り、厳しく躾けられて育つのだ。
アキとて例外ではない。ただでさえ際立つ容貌の上に聞き分けの良いアキは、どうしても客に好まれる。その求めに応じて行かせた事は、一度や二度ではなかった。
「そういう事なら、こうしていても仕方あるまい」
宗能は静かに立ち上がった。帰るつもりである。
「したが、大丈夫であろうか……」
清貞はそれでも心配そうに、屋敷の奥にひとり残して来たアキを思って視線を流した。
「いや、大事ありますまい」
おそらくは、甲府様も乱が代役であった事はご存知なのだ。一役者としてお気に召したと言うのなら、それはそれで致し方ない。とにかく、西田の子でないと露見して、お咎めを受けるような事だけはなさそうだった。
(それに……)
もしこのまま、この屋敷の主がアキを気に入り、その庇護者となれば、後ろ盾のないアキにとっては大きな力となる。
ここはただの大名家ではない。
その官職から甲府宰相と呼ばれる年若き主は、三代将軍家光公の孫であり、時の将軍綱吉公にとっては甥にあたる血筋の人だった。