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秋芳馨る  作者: 故
2/10

「猩々乱とは、西田殿も大きく出たもんだ」

 その話を聞いた時、七太夫宗能の内弟子として学ぶ梅中(うめなか)は、歯に衣着せぬ物言いで、そんな言葉を口にした。

 幼少の頃から長く通っている一清は、それなりには舞う。だが、お武家様のお習い事と、申楽師となるべく重ねる稽古とでは、課せられるものから違う。少々荷が勝ち過ぎてやしないかと、彼を心配したのだ。

 ついでだからお前達も見てやろうと師に言われ、梅中とアキも共に指導を受ける事になった。

 乱は囃子が特殊な演奏となり、中腰のまま独特な足運びで舞うのだが、腰を落として片足で均衡を保つ事から難しい。

「全然納得いかん!」

 乱の部分を初めて通した後、梅中はそう言って己の出来を悔しがった。

 シテ方として本格的に舞台に立ち始めている梅中がこうである。肩で息を切らして膝を着いた一清は、言葉さえも出て来ない様子だった。

「舞が変わるだけだろう」

 宗能は事も無げに言う。

 子供達をからかっているのか、あるいは本気でそう思っているのか、そもそもが常の人ではないので良くわからなかった。

 猩々ならば一番年下のアキも舞う。おめでたい曲なので、梅中の初シテは猩々だった。違いは中之舞である。それだけと言われれば、まあそうだろう。

 しかし、そこが難しい。猩々が水の上で遊び戯れる様を表す乱は、流れ足、乱れ足などと呼ばれる振りが、変化しながら繰り返される。緩急が大きく体力も必要で、鍛錬を積まねば熟せぬ曲である。

 それでも稽古を続けていれば、少しずつでも慣れて行き、脚もだいぶついて来るようになった。

「大変だけど、けっこうおもしろいな」

 アキも案外乱が気に入った様子で、梅中の言葉に頷き笑った。

「まあ、こんなものかね」

 稽古を重ねれば形は作り上げられる。師の声音に漂う評価は、まだまだ精進が必要だが見てくれは整った。そんなところだろうか。

 季節は進み、例の能会が間近となっていた。

「一清さん、少し痩せたね。大丈夫かな」

「これだけ乱を舞っていれば、痩せもするさ」

「でも、顔色もあまり良くないし……」

 日に日に沈んで行く一清の様子が、アキには気掛かりだった。

 梅中もふと気になって、一清へと視線を向ける。

「……親の期待ってヤツも、けっこう大変だよな」

 まあ、俺達には関係ないけどなと、梅中はアキに向って笑った。

 

 梅中は喜多の分家、権左衛門の次男として生まれた。

 流祖北七太夫長能はその祖父にあたり、二世当能は伯父という血筋である。

 間に女児が続き、一番上の兄とは十も離れていたこの末子は、甘えたい盛りに母を亡くした。

 幼子を思った権左衛門は後添えをもらい、やがて男の子を授かった。難しい年頃だった梅中が、ようやく新しい母親に懐いた矢先の事だった。

 彼は寂しかったのだろう。何かと波風を立てる言動に父親は手を焼き、相談を受けた宗能が内弟子として引き受ける事になったのだ。

 梅中は人一倍申楽好きな子供で、稽古にも熱心に取り組んでおり、たびたび教えを受けていた宗能を七太夫兄と慕っていた。彼の元に住み込む事も、ふたつ返事の承諾だった。

 自分が持て余されている事も、わかっていたのかもしれない。

 その梅中は、幼いアキを非常に可愛がった。

 まだアキが、水仕事に小さな手を荒らしていた頃である。

 見かねて薬を塗ってやると、アキは痛がってぽろぽろと泣いた。

「治らないとずっと痛いだろう」

 怒ったように言う梅中に頷くものの、アキの涙は止まらなかった。

「お勝は黙っていればいつまでもこき使うんだ。何か言いつけられたら俺の相手があると言ってやれ」

 梅中はそう言って、稽古だ手習いだとアキを引っぱり回した。

 怒ったのはお勝である。仕事が廻らない上に、子供ながらも自分が上だとわかっている、梅中のその態度が憎らしい。

「坊ちゃん、坊ちゃんと、みんなが甘やかすからつけ上がるんですよ。内弟子として入った以上、弟子は弟子じゃあございませんか」

 お勝の言うのももっともである。宗能は頷いた。


「さて」

 宗能はふたりを呼ぶと、お勝が仕事が片付かずに困っているようだと話をはじめた。

「だって、アキはこんなに小さいのに、可哀想じゃないか」

 梅中もアキが拾われ子なのは知っている。だが、一番小さいアキが年中手を荒らして働いているのは納得出来ないと宗能に言った。

「小秋はどうだい?」

 後ろで小さくなっているアキに、宗能は声を掛けた。

「あの……アキはここに置いてもらっているから……」

 消え入るように応えたアキを、梅中はあんぐりと口を開けて眺めた。

 それから、

「誰に言われた?」

と、アキの肩へと掴かみ掛かった。

「お勝にか?」

「お勝さんはご飯も食べさせてくれるし、夜もあったかくしてくれて、いろんな事を教えてくれるよ」

 お勝は口は悪いが面倒見の良い女である。まだ何かと手の掛かる年頃のアキの世話をして来たのも彼女だった。

 お勝とてアキが可愛い。憎くてこき使っているわけではないのだ。

 彼女も絵に描いたような貧乏長屋で育った。雑事を担う幼子など、ごく当たり前の暮らしである。遊んで暮らせる財でもないかぎり、稼ぎがなければ人は食べてはゆけない。それは世の道理だった。

 だが、梅中はそれを諭されても、

「なら俺の飯を分けてやる。それならいいだろう」

と聞き入れなかった。

 坊っちゃん育ちらしい、甘ったれたその思考にお勝は呆れた。

 半分食えと言われて、アキが食べられるはずもない。

 困ったアキは、しまいには泣き出したが、梅中は声を荒げて無理やりアキの口に飯を放り込んだ。

「もう、見ていられませんよ」

 お勝は宗能に訴えた。

 たとえ快くアキが膳を食べ、ふたりで仲良くそれを分けたとしても、育ち盛りの身でとうてい足りるはずがない。結局アキがひもじい思いをする事が、わからないのだろうかと。

 アキが梅中に振り回されて仕事をこなせなくても、お勝は食事を抜いたりしない。梅中が自分の膳を分けると意地を張っても、後でそっとやろうと飯を残して置いた。

 だが、アキはそれをせつながって、なかなか口にしなかった。

 幼い身でそうした分別をみせるのも、泣きながら何度も何度も謝る姿も、お勝は不憫でならないのだ。だからこそ梅中の奔放さが疎ましく思える。

 しかし、当のアキに梅中を避ける様子はなく、良く懐いてその後ろをちょろちょろとついて回った。梅中も梅中で、一心にアキを思って庇ってやろうとしているのは良くわかる。

 宗能は、その成り行きを注意深く見守っていた。

 

「とにかく、小秋を離しなさい」

 宗能に言われ、梅中は素直に腕を降ろした。

「アキの言うのももっとも。当家にただ飯を食わせる余裕がないのもまた確かだ」

 梅中が口を開き掛けるのを手で留め、宗能は続けた。

「それはそれとして、やらずに置けば仕事は残る。それはわかるな?」

 宗能は諭すように梅中を見つめた。

「お前が小秋を連れ回せば、その分誰かがやらねばならない。お勝も他の者も、何も遊んでいるわけではないのだよ」

 道理である。さすがの梅中も黙り込み、何やらじっと考える様子を見せた。

「なら、俺が水を汲む」

 ふいに顔を上げ、梅中が言った。

「掃除や洗濯も手伝う。稽古もしたいから全部は無理だが、それでもアキの仕事は減るはずだ」

 それなら文句はないだろうと、その瞳は宗能を見据えていた。

「それから、稽古場の掃除だってそうだ。弟子の仕事のはずなのに、みんなしてアキを使って。明日からは俺がやる」

 意外ときちんと周りを見ている様子に、宗能は小さく頷いた。

 当然彼も、弟子達の緩みには気がついていた。誰が言い出すか、その動静を眺めていたのである。

「その代わり、空いた時間にアキに稽古をつけてくれぬか」

「え?」

 アキの方は驚いて、少し年上の梅中を見上げた。

「アキはけっこう上手いんだ。一緒にやるとすぐに覚える。指導を受ければ弟子も同じだ。ここに居たって良いはずだ」

 宗能はまっすぐな梅中の視線を受け止め、それからふふと笑った。

「なるほど。下働きではなく、弟子としてアキを置けと」

「ダメか?」

「そうさな」

 是でも否でもない、のんびりとした物言いである。

「師として尊敬しているが、そういうのらりくらりとしたところは好かぬ」

 いらいらと梅中は、その心情を吐き出した。はっきりと物を言う子である。

 宗能は声を立てて笑い、まあ考えておこうと応えた。

「が、ふたり共きちんと飯は食えよ。でないと、いつまでも背丈(タケ)が伸びんぞ」

 にやにやと梅中を覗き込み、小さな頭を愛しげに叩く。

 子供扱いされた梅中は頬を膨らませ、七太夫兄は意地が悪いと叫んだ。

 どこか子供じみたところを残しているこの稀代の舞手は、さもおかしそうにげらげらと笑い、梅中はますます拗ねて地団太を踏むのだった。


 梅中は翌日から言葉通りに水を汲み、アキと並んでたらいの衣を洗い、稽古場も綺麗に磨き上げた。

 周りはおろおろとそんな梅中を止めたが、一番下の弟子なのだから、これくらい当然だと取り合わない。坊ちゃんと呼ばれるのも嫌って、ただの梅中でいいとアキにまで繰り返した。

 いかに末の弟子であっても、梅中は喜多の血を引く子供である。彼にだけやらせて知らぬ顔も出来ぬので、弟子達は従来の役割通り稽古場の掃除を再開した。

(これで良い)

 宗能は事の推移と梅中の成長をじっと眺め、頷いた。

 我が強く、こらえ性のない梅中だが、その心根はまっすぐで、揺るがぬ芯がそこにはあった。

 その強さが時に人とぶつかりもするが、彼には偽りというものがない。良くも悪くも潔い彼の質は、多くの人を魅了もした。

(梅中は案外、人の上に立つ器かもしれぬ)

 子供達の様子を見るにつけ、宗能は心の内に思うようになった。

「アキ、持ってごらん」

 梅中と連れだって舞うアキを眺めていた宗能は、その手に舞扇を握らせた。

 まだ小さなアキの手では上手く支えられず、ぐらぐらとそれは揺れ動いた。

「持ったまま、今のところをやってみなさい」

 言われてアキは舞い始めたが、たったそれだけの事が案外難しいのである。

「もう一度」

 繰り返す。

「また扇が倒れている。今一度」

 言われるままにアキは舞い続けた。

「明日から稽古を見てやろう。良く学びなさい」

 やがて宗能は下働きに通いの者をひとり増やし、アキをお勝の元から弟子部屋へと移した。

 アキが子方として舞台を踏んだのは、それから間もなくの事だった。

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