キミに捧ぐメメントモリ
久しぶりに書いてみた。
ピリオド.0
手を伸ばした。
声は出なかった、パクパクと口が動くばかりで、すり切れた音が、いくつか転がっただけだった。
出来たのは、手を伸ばすことだけだった。
とどけ、とどけ、とどいて!
地を蹴って、ただ、手を伸ばす。
君に届けるために、手を伸ばす。
ツバ広のキャスケットに、ぶすっとした顔を隠した君。
サイズの合わないダッフルコートにまるで着られている君。
僕は手を伸ばしたんだ。
君がどこにも行ったりしないように。
君が振り向く、その目が満月よりもまん丸に開く。
君には凶刃が迫っていた。
君には理不尽な死の潮騒が近づいていた。
連れて行かれないように、僕は手を伸ばす。
君を失いたくなくて、僕は、手を伸ばしたんだ。
〝 それは、生まれた瞬間から傍らに横たわる 〟
〝 骨の腕を肩に置いて、振り向いた者を連れて行こうとする 〟
〝 嗚呼、なんて理不尽、不幸、私たちは残酷を強いられて生きている 〟
〝 だからこそ、享楽せよ、酒を呑み、肉を喰らえ 〟
〝 生に耽るのだ。永遠の鏡像を妄信するのだ 〟
メメントモリ! メメントモリ!
〝 どうか、生ける絶頂の美が、褪せることのないように…… 〟
―― 月曜日の悪夢 ――
埃まみれの部屋だった。
壁の長棚はその中身をほとんど取り上げられてあっちこっちに撒かれていて、まるで収納の役目を果たしていない。
中央の応接デスクさえ書簡やらペンやら、細々としたものが占領して、コーヒーの一杯さえ置けそうに無い。
部屋の奥、高く積まれた紙とインクの山にまるで捨てられた粗大ゴミのように、その少女は顔を埋めていた。
引かれたカーテンの隙間から伸びた斜光に頭頂を照らされた彼女は、「ううん」と唸り、まるで光に反応する植物のようにもぞりもぞりと身動ぎした後、心地良い闇を見つけて、また小さな寝息を立て始めたのだ。
その部屋は、まるで少女のためにあつらえた棺桶のようだった。
生命と営みとは隔絶した、独自の静謐と時間が漂う場所。
何人も侵しがたいと思われたその場所に、ぎちり、ぎちり、耳障りな軋みが転がった。
「うわ、ひっどいもんだ」
溜め息を一つ。
その後埃を吸い込んで、こほんこほんと噎せ返るものだから情けない。
腹いせとばかり、ぱたぱたと走り出した彼は、ギチギチリと悲鳴を上げる扉の螺旋を解いて開け放ったのである。
キラキラと、まるで解放を待ち望んでいたかのように埃が陽光注ぐ空へと逃げていく。
「う、うむむ」
さっさと追い立ててやろう。
部屋の隅に転がる羽根はたきを拾って部屋中をたたいて回る、そのたびにキラキラが舞う。
追い出されているくせに健気じゃないか。
ぱたぱた、ぱたぱた。
ぱさり
少女の頭にはたきが乗っかる。
「おきてよ、クララ」
ふらふら揺れた力無い手が、はたきを退けた。
「……じゃない」
「えっ? なんて?」
耳を寄せた瞬間だった。
まるで獲物を捕らえる猛獣のような勢いで、少年の耳が引っ張られた。
「クララじゃ無い! ク・ラ・イ! わたしの名はクライだ!」
「だだ、だって、『クララ』の方が女の子らしくてかわいいじゃん!」
「子供じゃあるまいし。名前にかわいいもかまぼこも無いんだよ」
「子供じゃんか! それに名前っていくつになったって大事だよ?」
「執着の比率が減るんだよ大人は。視点が高くなると魅力的に見える物が増えるからね」
「わかった、わかったから耳はなしてよ! 痛いったら」
寝起きの胡乱げだった少女の目がぴたりと定まる。
「そうか」
紫色の瞳が一瞬、長い黒髪に隠れる。
「なるほど、タチの悪い悪夢だ」
「クララ?」
「……クライ、だ」
みちり
捻り上げられた耳を押さえたラフが「いったい、いたい!」と悲鳴を上げた。
極めて不自然が、この世界では摂理だった。
理由も不明だし、原理も不明、ある人は神の慈悲というが、むしろ、神のうっかりと言った方が、よっぽどしっくりくる。そういう現象が、この世界にはあった。
『死んだ人間が生き返る』
そんな奇跡がこの世界ではありふれていた。
だけど、それを放置していたら村も畑も野も森も、人だらけで窮屈になってしまう。
だから、死んだ人間を終わらせる職業が生まれた。
時代の流れとともにその呼称は移ろって来たが、いまはこう呼ばれている。
『ハンデッドマン』
死者の手をとる者。
手を取って、送ってあげることを繰り返すお仕事。
永遠に、いつまでも、いつか送ってもらえるその日までーー。
―― MONDAY ――
『登録ナンバー ××ー○○○○ アローン葬儀会 代表者 クライ・アローン様』
依頼書 廃工場の労働者
取り壊し予定の工場地主から規定事項の抵触懸念を動機にした申請を受理。
立ち入り禁止区域で生前行動を繰り返す元従業員の亡霊をクリアして下さい。報償・対象の詳細は別途記載。
対象のリターン期間:一週間
リセット日:SUNDAY
石畳の敷き詰められた整理された路を、少年少女の一組が歩いていた。
「待ってったら! ねぇえ、クララ、クララったら!」
「うるさい、クライだ」
そんなやりとりをもう三度は繰り返している。
少年の方はテトテト一生懸命歩いているが、なかなかどうして、早足の少女には追いつけない。
ことの始まりを説明するには今朝まで巻き戻る必要がある。
若くして祖父の『葬儀社』を継ぎ、『ハンデッドマン』となったクライ・アローン少女の元に依頼の手紙が届いた。
『どうか悪夢を終わらせてくれ』
怒りに震えながら書いたのだろう。書き殴るような乱暴な筆跡から始まったその手紙の七割は自身の迎えた境遇への恨み辛み嘆きが綴られていた。
便箋には『協会』の捺印があったから、これがいたずらでは無くて、死者からの手紙であることは間違いない。
この国は死者を弔うことに対して協力的だ。
『死者』の情報が入ると『葬儀社組合』はエージェントを送り込み、詳細を調べあげる。その結果、弔うべき者と判断したなら所属する『葬儀社』に依頼を出し、ハンデッドマンを派遣するのだ。
国が依頼を出すわけだから、食いっぱぐれが無い。
『葬儀社』が『組合』に参加しない理由が無い。クライも協会に所属するハンデッドマンの一人だから、こうして仕事を引き受け、依頼者の元へ向かっているという訳である。
「待ってよ、ねえ。ボクを置いてくつもり?」
「従いてくるならわたしに迷惑をかけるんじゃないよキミ」
「ボクはお爺さんにクララのことを頼まれたんだから! 無茶する子だから助けてやってくれって」
「余計なお世話なんだ。自分のことは自分でやる。失敗の責任だって自分で始末をつけるさ」
ひくりと、鼻を鳴らして、クライはブスリと言うのだ。
「クララってほんとボクの話聞かないよね。そんなにカチコチにムキになること無いじゃん。ボイルエッグだって半熟じゃないと癇癪起こすくせに」
「エゴを抱きしめていないと大人になれないんだよ。あと話を聞かないのはキミこそだ。クライだと何度も、……はあ、もういい」
キャスケットのツバを撫でたクライがはたりと立ち止まると、ラフはつんのめって転びそうになった。
手がかかると言わんばかりに、伸びたクライの手がラフのシャツの襟布を引っ張って止める。
悲鳴を上げようとしていた首がきゅっと締まったものだから、ラフは「ぐえ」と不細工な鳴き声を上げた。
「えっほ、えほ、ひどいやクララ、死んじゃうとこだった」
「笑えないよ。依頼人の前で葬儀社が死んでちゃ世話無い。ああ、まったくだとも」
冷たい一瞥をくれたクライは視線を前に戻す。
依頼人はそこにいた。
「こんにちはムッシュ」
キャスケットを取ってコートをつまみ、淑女のように腰を落として。
「だれだい、アンタ?」
どこにでも居るような男だった。
油で汚れたオーバーオールに揃わない髭。疲労の滲んだ隈がうっすら浮かぶ顔は、街を歩けばすれ違っても気にならない労働者だ。
椅子に座ったまま視線を返した彼に、クライはコートから取り出した便箋を、捺印を見せつける。
「灰は灰に、塵は塵に、死者には与えられるべき安らぎを。……貴方を導きに来ましたハンデッドマンのクライです」
「ハンデッドマン……、俺にか?」
途方に暮れた顔だった。
「ははは、俺が、か?」
「……ええ」
クライは頷いたのだ。
「はは、そうか、うん、そうか、うん、うんなるほど、そうか……」
自分を納得させるように男は力なく繰り返した。
死者はどうして残留するのか。
それは、死者が自分の死を忘れるからだと言われている。
実際、死者のほとんどは自分のことを死者であると自覚していない。
この正しい生の路を忘れてしまった彼らの手を引いてやる、つまり、死を思い出させてやることが、ハンデッドマンのやるべきことだ。
だが、それは容易いことでは無い。
人間はみんな、本質で利己的だ。
人に言われたからって、都合の悪いことをすんなりとは受け入れられない。それが自分にとって重大なことなら尚のこと。
言葉を他人の心に本当の意味で落とすということは、屈服させると言うことだ。
それほどの言霊を編み出すには入念な努力と才覚が必要になる。だからこそハンデッドマンという職業は成立する。
「それで、俺はどうやって本当の死を迎えたら良いんだ?」
いっそ投げやりに男はそう言った。
「はい、ではご用意したプランをご説明します」
ぱちん。
指パッチン。
「……おい、何を突っ立っているんだ? さっさとプランをご提示しろ」
「へ、えっ? ボク?」
「バッグ!」
「はいっ!」
直立敬礼。
そそくさ、そそくさ。
焦って取り出したのは、使い古されたファイルだ。
「では、こちらからご説明させていただきます」
『プランA豪遊コース!』
毎日の労働!
明日の生活、将来の不安、生者は常にそれらを秤の皿に置いて生活をしなくてはなりません。でも、今だったら? 昨日我慢したあの誘惑。……やっちゃいません?
なあに、もう抑圧することなんて無いんです。
心が満たされれば、心地よい眠りへ誘われることでしょう。
こちらのプランではお客様のご要望に合わせた望みに最適なプランを設定し、ご案内いたします。
「……いかがでしょうか?」
身振り手振り交えて説明するクライ。体は表現豊かなくせに、つらつら文句を並べる口調は淡々としているものだから、ちょっぴり不気味だった。
「どう、と言われてもな」
男は困った顔で後ろ頭を掻いた。
「好きなことをやれなんて、そんなこと突然言われたって」
「ふむ、どうやらずいぶんと、……ご謙虚な方みたいですね」
含んだ言い方だ。
「ねえねえクララ、いま小心者とか思って――」
「ラァフッ! お客様に失礼の無いように!」
「ひゃいっ!」
再び直立敬礼。
男も苦笑いである。
「おっほん。贅沢は好まれないようですね、ではこんなプランはいかがでしょう?」
『プランB旅人コース』
同じ景色の往復からふと外れたくなることもあるでしょう。
しかし住まうと言うことは根付くということ。鎖は時間を経るほどに錆び付き、より重く外れなくなります。
だけど、既に貴方は自由なのです。
憧れた塀の向こうへ足を向けるなら、今しかありません!
観たこと無い景色に感動するとき、きっと、貴方は安らぎを迎えるはず!
こちらのプランではお客様のご要望に合わせて目的地を設定し、お客様の旅路のサポートをいたします。
「支持率の高いおすすめのプランですが、どうでしょう?」
「いや、旅なんて、考えたこともないが」
「なんとまあ、……地元愛あふれる博愛な性格をしていらっしゃる」
「クララ、多分いま、臆病者とか考え――」
「ラァフッ! お客様は次のプランをお望みだ、準備!」
キリリと横目で睨め付けられ、少年が再びバッグをがさごそやる。
『プランCドリームコース』
あんな人生もあったかもな妄想、叶えちゃいます!
『プランD社会貢献コース』
誰かのために奉仕することは、自身に安らぎを与えます。
『プランE悔悟コース』
今までだれにも打ち明けられなかった悩みを、その道のスペシャリストが相談に乗ります。すっきりした気持ちで最期の時を迎えましょう。
『プラン……――
「まさかZまで用意したプランニング全てに興味を示されないとは……お客様、さてはメンドクサイですね?」
「言った! ついに言った! 顔にはとっくに出ていたけどついに言っちゃった!」
「ラフ、ラァフ! お客様に失礼の無いようにと何度言わせる!」
「失礼なのはクララだってば!」
犬の喧嘩のように言い争う二人組を前に、男がため息を一つ吐いた。
「もう良いかい?」
癖だろうか、それとも昔になにかやったのだろうか。腰の後ろを押さえながら椅子から立ち上がると、男は首を振った。
「分からんよ、別にやりたいことなんて無い。目的も無い、生きてきただけだ、俺にはやりたいことなんて一つも無い」
ああ、もう生きてすらいないんだったな、と。
途方に暮れた様子で。
「……」
瞬きを一回二回、三回目でクライはラフに横目をくれて戻した。
「ご心配なさらず、わたしもプロフェッショナルです。導きますよ、あなたの忘れた結末へ」
「……まあ、好きにやってくれ」
いっそ投げやりに、男はそう言ったのだった。
死者に未来は与えられない。
死者は過去の者でしか無く、未来を紡ぐ資格を持たないから。
死者はただ永遠に過去を彷徨うだけ。
人生の重荷を背負わなければ、旅人は虚しいだけだというのに。
ただ、ただ、
ただ、その空虚を知らずに留まることは幸福なことかもしれない。
―― TUESDAY → SATURDAY ――
男はよく働いた。
朝は日も昇らない内に起き出して、仕事を終えるのは月が天辺を通って傾くよりも遅い。
人生の楽しみなんてなんにも知らないとでも言うように、仕事に没頭していた。
「ただひたすらな就労への依存、か。亡霊になった故か、生前からそういう人間だったのか」
カップを啜りながら数日分の観察記録をテーブルに広げ、クライはずずっとはしたなく、コーヒーを啜った。
「怠け者のクララはちょっとは見習ったら?」
向かいへ座ったラフがちびりちびりと舐めるようにカップを傾ける。中身はホットミルクだ。
「わたしは自立しているんだ。自分を中心に行動を決める。何かに執心なんてしない」
「なにそれ、ワガママなだけじゃん」
「オ・ト・ナ、だ。風見鶏みたいに周囲に流されてあっちこ向くような無様は晒さないんだよ」
気取ってコーヒーの香りにヒクヒクと鼻腔を鳴らす、
「豚みたい」
「ラ~フ」
どうなったか語るべくも無く……。
「それで、どうするつもりぃ?」
赤くなったホッペを擦りながらラフが問いかけた。
「どうするも何も無い、待てば良い。彼が死者で手紙を出したのならば、その結末は必ず繰り返す」
必ず、と。
因みに「あんなに強く引っ張ること無いのに」なんてグチグチには当然無視であった。
空になったカップを人差し指で引っ掛けて、クライは小さく言う。
「せめて終着くらいは幸福を望んでも良いのにね……」
残念ながら、ほとんどの亡霊はソレを選べない。
亡霊は、あくまで過去の中にしか存在し得ないものだから。
だから、その結末は、必ず訪れる。
生きる意味が幸福を求めることにあると言うのなら、きっと、とっくに死んでいたんだ。
変哲の無い人生だったと思う。
いや、普通の人より少しだけ、閉鎖的だったかもしれない。
それでも、人生という道のりが購買できるものならば、マーケットで一山いくらで売られているような薄利多売の人生だと思う。
きっと、こんな人生はどこかの誰かも送っている。自分である必要はない。
この劣等感ですらもありふれたもので、だからこそ諦念に気づかないままで、毎日は色づかない。
はたして、はたしてこんな自分が死者になったからと言って、それを嘆くほどに、自分は人生に価値を見い出せているのだろうか。
答えは、ノー。
死者はみんな、生に執着があるという。
しかし、そんな情熱がこんな自分のどこにあると言うのだろう。
分かっている。
うっかり死んだけれど、その死さえどうでも良い些細なことでしか無かったのだ。
自分の死にさえ、価値が感じられなかったのだろう。
だから残ってしまった。
そして、どんな結末を迎えたら良いかさえ分からなくなってしまった。
間抜けな話だ。
こんなことに他者様まで巻き込んで、一体何様だという話だ。
ほんとうに、
「俺の人生って、なんなのか」
ただ毎日を繰り返す、仕事をこなす、仕事はやらなければならない。やらないと、同僚や工場主様に迷惑がかかる。
ラフの奮闘により、すっかり片づいた部屋で、チェアーに深く沈んだクライはちょうど読み終わった資料から顔を上げた。
死者を結末へ導くのなら、その死者のことを知っておくに越したことは無い。
彼の何が神の憐憫に触れ、死から遠ざけられたのか。
その筋の情報屋とは先代から懇意にしているが基本的には足で探す。理由は単純で、場末の個人経営事務所の葬儀社の家計は、常に火の車だからだ。
奴らは組合の補助金のことを知っているから、いつも足下を見た値段設定をしてくる。今回のような、たかだか三枚に収まる男のことを調べるのに、金なんて使ってられない。
その衝動はふとしたものだった。
隣人にふと肩を叩かれたかのような、気付き。
夜遅くまで働いて戸締まりの確認をして帰ろうとした時に、自分の立っていた場所がいつもチーフが立っている場所で、工場内を全て見渡せる場所であることに気づいた。
自分が生活の大半を依存する仕事場はこんなにもちっぽけだっただろうか。
そう考えたときに胸の内にすーっと隙間風が吹いたかのように、空虚を自覚した。
お世辞にも新しい工場ではない、粉塵が油でこびりついた手すりはざらざらしているし、錆だって目立つ。とても安心して体を預けられるものでは無い。
だから、ぐぅっと。
ぎしりと、軋みがやたら大きく響いて、驚いて後ずさった。
ああ、何をやっているのだ。
こんな、こんなくだらないこと!
その日はどうかしてると頭を掻いて、帰った。
次の日は、前のめりに体を預けた。
心臓がどくりどくりと、高鳴っている。脂汗が浮かぶ。
「ふっ……」
息を殺して、ツバを飲み込んだ。
ぎぃ
弾かれたように、後ろに戻った。
もうこんなことは止めるべきだ。そう思いながらも、男は毎日一人で残って、このくだらないスリリング体験を繰り返した。次第に大胆にもなっていった。
調子に乗った。
「ああ死にたい」なんて嘯いたりもした。
どこかで、
きっと、
死ぬわけが無いなんて思っていたくせに。
―― SUNDAY ――
妙なのに絡まれたと、辟易した。
俺が死んでいるだと?
よくよく考えれば、その言葉さえ疑わしい。
貧乏人はすぐに騙される。教養が無く、障りの良い言葉を聞きたがるからだ。すぐに誰かに救われたがる。
金を集めたがる奴らはソレをよく知っている。
ああ、むしゃくしゃする。
みんな、俺のことを取るに足らない、くだらないヤツだと思っている。
違う違う、違う! 俺だって!
「……チッ」
工場を見下ろす。
いつも他人に見下ろされている、ちっぽけな、生活の全て。
手すりに手を掛ける。
ぐい。
始めはあんなに怯えた軋みが、物足り無い。
もっと、もっと、もっと!
「くっ」
どうとでもなれ!
背中を預ける。
ぎぎぎぃ
「――ッ、は、ははは」
ほら、死なない。
背中の弾力は不安定さを訴えている。
あと、一押し、もう一押し。
冷たい汗が伝う、項から尾てい骨までを痺れのような寒気が伝う。
でも、墜ちない、死んでいない。
騙されないぞ、俺はほかの奴らとは違う、きっと。そう、いつか、きっと……。
『おい、お前!』
「えっ?」
振り返る。
恰幅のある髭面の男。
いつも唇を尖らせて、尖った目線で睥睨するその視線。
動揺で、加減を誤る。
がこん
浮遊。
下半身の心許なさ。
「あっ!」
つ・い・ら・く。
落ちている、墜ちている、おちていく。
なんにも、無かった。
ただの一つも、誰の顔さえも、浮かんでこない。
これが、俺の、死 。
そんな、程度の識れた、結末。
「うぉおおおおおおお!」
「うわぁああああああああ」
「あ、ああああああああああああっっっっ!!」
慟哭する男を見下ろし、少女を白い息を空へ吐いた。
「そぉら、やっぱりそうなる」
その呟きは残酷な響きで、しかし、痛々しかった。
「ね、ねえ、クララ、クララ!」
隠れていたラフが袖を引っ張る。
「だまれ! キミが慌てて何も解決するものか。こうなると解っていた。こうなることを覚悟してやった。こうなることを想定して、待っていたんだ」
歯を食いしばって、クライは吠えた。
キャスケットのツバを引っ張り上げ、階下へと声を落とす。
「おい、聞こえているか、憐れな死人! 後悔の残影!」
這いつくばった、既に死んだ男は応えない。
「この、こっちを向け!」
投げつけたキャスケットのツバが縦回転で男の後頭部を捉えた。
「……へっ?」
正気に戻った男が仰ぐ。
「わたしが、工場の管理に見えたか? お前の記憶はそうやってわたしを映したか?」
腕を組み、不遜な態度でクライは問う。
死者は過去を繰り返す。
既に死んでいる者に未来は与えられない。
終わった現実の中で、過去の幻想を繰り返す。
見えているリアルさえも偽造して、塗りつぶして、過去の世界の中で生き続ける。
もう自力で死ぬ権利さえも持ち合わせていないというのに。
それは、まるで、どうしようも無い、悪夢で――。
「いつまでも、その夢に耽溺するわけにはいかないんだよ」
残酷にクライは死者の嘘を詰問する。
「周りを見ろ可哀想な死人! お前の記憶の場所はこんなにも埃被っていたか! こんなにも物が少なかったか! こんなにも、月明かりが眩しかったか?」
天井を指す。
穴だらけのベニヤから差した月光は死人の頭上から降り注いだ。
「お前の真実は、……既に終わったんだよ」
照らされた顔は唇を引き結び、その瞳は憂いを帯びる。
でも、と。
「でも、でもぉ、でも俺は!」
何も変えられていない!
「それがどうした」
「なんだって?」
ぶら下がった手すりの名残を蹴っ飛ばす。
「クララ!」
制止の声を振り切って、少女は月光の中へ身を躍らせたのだ。
がらりがらりと埃が舞い、既に閉鎖された工場のみっともなさが払拭される。
やがて、咳き込みながら塵煙の中から現れたクララは男の胸ぐらを掴み上げた。
「お前が死んだんだ、自分勝手に死んだんだ! 変えたいだと? 世の中が間違っているだと!」
そうだよな、そう思うよな。
だけど、
「逃げたのはお前だ」
そして、まだ逃げ続けている。
それが腹持ちならないから終わらせにきたのだ。
「あの後も工場は運営したぞ。この工場が閉鎖したのだって、耐用年数の経過による移転のためだ。お前が死んだこの場所で、お前の同僚はお前が死ぬ前の昨日を繰り返した!」
「あ、あああ」
いい男が滂沱を流す。
「でも泣く人は居た。悔やむ人は居た。気づいてやれていればって悔悟する人間が居た」
お前がそうさせたのだ、と。
「つまらなかったかもしれない、ありふれていたかもしれない、だけど、お前だって誰かの人生の一部だったんだよ」
泣いて、泣いて、亡き喚く男をひっぱたき、クライは正面から見据えた。
「それは、何かを変えることに等しいことだと、そうは思わないか?」
まるで、言い聞かせるかのようで、しかし、祈りにも似ていた。
「俺は、おれはあ」
男は泣いた。泣き喚き、嘆き続けた。
後悔を洗い流し、男が泣き止んでから、クライはそっと告げる。
「死はあなたの傍らに、『労働者』に安息を」
膝を突き、拾い上げたキャスケットを胸に、黙祷を捧げたのだ。
差した月に暴かれて塵が光る。
静寂は涅槃を誘い、拐かされたかのように、次の瞬間、うずくまる労働者は消えていた。
塵は塵に、灰は灰に、死者には眠りを。
「どうぞ、安らかに」
キャスケットを被り直し、見送る者はコートを翻した。
―― 夢の終わり ――
「飛び降りるなんて無茶しちゃって」
夜の街、唇を尖らせたラフが埃塗れの背中へ不満を投げ掛ける。
「大した怪我は無い。おまけに銭も使っていない。報酬はまるまる袖の内。上々だよ」
吐息が宵闇に溶ける。
男の死因は事故、と言うよりもほとんど自業自得だ。
危険行為に快感を覚えて繰り返す内に、手すりの耐久性が低下。ある日、いつも一人で残業をする男を不審に思ったチーフの登場に驚いた男はそのまま転落。
笑い話にもならない最期。
そんな男にさえ、誰かが涙を流す。
世界はこんなにも優しく、反面で薄汚い。
男が死を迎えたのは何年も前のことだった。
だが、工場主はその死も、男の亡霊も隠蔽した。
無銭で動く労働力として、工場の運営が終了するまで利用し続けていた。
吐き気さえ覚える。
眇めた目で月を睨んだ。
月の神秘性は古来より人を魅了してきた。
一夜ごとに満ち欠けする様を瞳に例え、神の眼とさえ呼んだ。
今夜は満月。
開ききった眼は全てを見通し、嘘を暴き、理を正すと言われている。
はた迷惑な話だ。
死者が蘇ることだってそうだが、この世界は神とやらの好き勝手し放題じゃないか。
だから、クライは神を信じない。
人の行いを人の行いのままに。
決して眼を反らさないために。
人が犯した間違いだからこそ、人が導く価値がある。
きっとそうで無くてはならない。
神だか知らないが、好きに残して勝手に暴くなんて解せない話だ。
「だから、死者は、死へと導かなければならない」
そうとも、それは間違いなのない、真理だ。
「くぅ~ら~らぁー! 歩くの早い。おっかしいなあ、昔はボクが手を握って引っ張っていたのに……って、うわあ!」
「また躓いたのか、まったく、お前はいつまでも、まったくだな」
ふっと、笑みが零れる。
幼少から寄り添った彼。
先代の助手を二人で務めた。
先代がどちらに継がせるつもりだったかは、遺言にも書いてないからとうとう判らずじまいだったが、どっちがなっても相棒として助け合うと約束していた。
本当に、大切な相棒だった。
「そら、起こしてやる、手を伸ばせ」
「う~、ありがと、クララ」
涙目のラフが手を伸ばす。
やれやれと、クライはその手を掴もうとする。
「キミは手間がかかるな、ちゃんと感謝し、ろ……」
キミの手は、わたしの手をすり抜ける。
「あっ……」
悲鳴。
短音に込められた哀切。
「そっか……」
月光が照らす。
嘘を暴いて残酷な真実を晒す。
「そう、か……」
死者は、ただ、あるべきへと。
一人になった少女はキャスケットを深くかぶり直し、ふらりと、おぼつかない足取りで歩み出した。
「なあラフ。時間が過ぎたんだ」
問いかける先には誰も居ない。
「ほら、あれだけダボついていたコートの袖も、もうちょっとでピッタリだ」
在るのは生者のために残される死者の名残、墓石。
「キミが居なくなってからも、時間は流れ続けたんだ。キミが現れるたびにそれを想い識る」
生者は時を刻む。
死者は過去に留まる。
それは、当然の理屈だ。
生者がどれだけ今の自分を認めさせようとしても、死者は過去の幻影を観るばかり。
現れる彼は過去の中の少女の姿でしか観てくれない。
だから死者と生者は供には歩めない。
それでも、だとしても、
大切な彼を、どうして消せるだろう?
「ねえラフ、どうしてキミは現れる? わたしはまだ、オトナに成れていないかな?」
大人になったら、何でも出来る。
だから、早く大人になろう。
「わたし一人でも死者を導ける。それでもダメかな?」
受けた依頼は全て解決しているから、組合の評価もそう悪くは無いだろう。
「わたしは生きている。たったの一人でも、ちゃんと生きているんだよ」
だから、
ねえ、だから、
「おねがいだから、ラフ。もう……」
口を噤んだ。
言えるわけが無い。
もう出てこないでなんて、二度と会いたくないなんて、ましてや幻影だったとしても彼と二度と出会えなくするなんて……。
だから、少女は涙を流すのだ。
身勝手に、最低の救いに、現実に。
そして、待ち焦がれる。
次の悪夢の始まりを――。
おしまい