第八章 臥花の野に赤光は満ちる 3
神域に入った市伊たちは霧にその身を隠して進み、あっという間に柚良と葛良がいる場所へとたどり着いた。神気で圧倒する柚良に葛良は指一本触れることすらできず、膝をついている。その光景に、融は葛良が殺されてしまうと思ったのか、すぐにでも霧から飛び出て二人の間に割って入ろうと動いた。だが彼の前に立ちふさがった大鹿は、霧から出るなと首を振った。柚良から二人で話したいから決して良いと言うまで出てこず見ていろ、と厳命されているのだという。
「そんな……あいつが死ぬかもしれないのに、黙って見ていろというのか!」
「口の聞き方に気をつけろ人間。本来ならここへ立ち入ることすら許されぬのだぞ」
「しかし……!!」
鼻息荒く吐き捨てる大鹿となおも食い下がる融の間に割って入ったのは市伊だった。まずは様子を見てからにしましょう、という市伊に渋々といった様子で二人の方へと顔を向ける。霧が姿を隠してくれているおかげで、葛良は市伊たちがここへ居ることに気づいてはいないようだった。
「お前さえいなければ……!!」
葛良の悲痛な声が響き渡る。柚良がいなければ自分たちの運命が狂うことはなかったのだと叫ぶ少女の姿を、融は唇を噛み締めながらじっと見つめていた。過去、市伊にこの二人のような相思相愛の恋人がいたことはない。だがもし立場が同じだったらいても立ってもいられないだろう、と想像することはできた。
静かに話を聞いていた市伊と融の顔色が変わったのは、柚良が村への侵攻を口にしたときだった。
「なんて卑怯な!!」
「すぐ村に知らせなければ……!」
「案ずるな。この話はすでに、紫金から現神主の渡へ伝えてある。万が一に備えて村を閉鎖し、戦に備えよ、とな」
ふん、と鼻を突きあげて涼しげに言った大に、市伊と融はほっと息を吐いた。柚良の守護と村の守り、渡の結界があれば、すぐに村を侵略されることはないだろう。戦が起こるかもしれないなんて渡は一度も言わなかったのに、と振り返って村の方角を見つめる。大天狗も村の守護に加わるとぶっきらぼうに言い添えた大鹿は、気遣うように市伊へ頭を摺り寄せた。
「大どの……俺と大天狗の関係を知ってるのか」
「先日、大天狗から話を聞いた。息子を頼む、と」
「そうか……」
だから自分のことを気にかけてくれるのか、とは聞かなかったが大の気遣いは嬉しかった。この戦いが終わったら鬼神の如きと謳われた大天狗どのの話をたくさんしてやる、と笑った大の言葉に頷いて、池の傍にいる二人へと視線を戻す。ほたほたと涙を流す少女に柚良がそっと手を伸ばした。ためらいがちに女神の手を取る葛良の顔からは迷いと憎しみが消え、未来を見据えるための光を取り戻していた。
「――そなたたち、もう出てきてよいぞ」
葛良の体を支えてやりながら、柚良が霧の中へ視線を投げかける。その声を待っていたかのようにまろび出たのは融だった。何度も恋人の名を呼び、腕の中へと葛良を引き寄せる。もう一度まみえることができるとは思っていなかったのだろう。彼女は大きく目を見開いて唇をわななかせたあと、言葉にならぬ涙を落としてそっと体を融へと預けた。
「柚良さま……よくぞ、ご無事で」
「市伊よ。わらわは大丈夫だと何度も言うたであろう? 人間ごときに後れを取るようなことはせぬ」
二人をまぶしそうに眺める柚良のほうへ、市伊がゆっくりと歩いて行く。無事で良かった。その想いを込めて、くふくふと笑う柚良の手をやわりと両手で包んで額につける。人間と違って血肉の通ったぬくもりはないが、彼女の名のごとく清涼でほんのりと甘い彼女の神気を感じて、市伊はようやく息をついた。
「心配性よの。わらわよりよっぽどそなたのほうが満身創痍に見えるぞ」
「俺もそんなにやわじゃありませんよ。父……大天狗どのも、大どのも、たくさん助けてくれましたから」
「そうか、大天狗殿と話ができたのじゃな。そなたの妹御にも大事無くてよかった。巻き込んでしまってすまなかったと、戦いが終わったあとで謝らねばならぬの」
柚良の優しい声がざわめく心をそっと鎮めていく。彼女がいれば大丈夫だと、そう思えた。村に迫る軍勢もきっと、柚良の力で蹴散らすことができるだろう。胸に凝る不安を吹き晴らして、市伊は顔を上げた。
そうして周りを取り囲む者たちの一点へ集まる視線に気づき、ようやく自分がどれだけ差し出がましい行為をしていたのかということに思い当たる。慌てて手を放すと柚良はほんの少しだけ残念そうに微笑み、神獣たちはあきれ顔でため息をついたのだった。
「さて、残る問題はあとふたつじゃ。一つは、葛良の身に巣くう悪鬼を取り除くこと。もう一つは、あの男――日下隼人を迎え撃ち、侵略を防ぐこと。すまぬが、ことは急を要するゆえまずは二つ目を優先してよいかの、葛良」
「はい、かまいません。その代わり、私もわが父を迎え撃つ軍勢へ加えてください。この手で引き起こしたことの幕引きをお手伝いしたいのです」
「ならぬ――といいたいところだが、恨み言の一つでも父に言うてやらねばそなたの気がすまぬだろう。だが決して油断するでないぞ。あの男は己の血族を犠牲にすることなど露ほども迷わずやってのける男じゃ」
首を垂れる葛良の肩にそっと触れてうなずく柚良は、険しい顔をしていた。八年前にも神木村は葛良の父に侵略をうけたことを思い出した市伊は、彼女の胸の内を推し量る。きっとその時も想像を絶する厳しい戦いだったのだろう。柚良が葛良に慈悲をかけるのは、その時連れ去られるのを阻止できなかった罪滅ぼしなのかもしれない。
「わが父の非道さは娘の私が一番よくわかっているつもりです。そしてまた、そのやり口も。おそばにいれば、何か助言できることもあるかもしれません」
「頼もしいのう。じゃが決して無理はするでないぞ。そなたの体はそなたが思うておる以上に負荷がかかっておる。生き延びたければこれ以上術を使ってはならぬ」
幼子に言い聞かせるように目線を合わせて念押しをする柚良を見つめて、葛良は素直に頷いた。女神は紫金に彼らの護衛を、大に市伊の傍について守るよう指示を出した後、一同を神域の奥へと導く。銀面の湖の奥にあったのは、馥郁と香る山梔子の木々に囲まれた鮮やかな丹塗りの鳥居だった。




