8《心の痛覚》
「素芹美姫?」
妃候補を見つけてきたと云う鳥末に、建成王は聞き返した。
「はい。葉希様と父母を同じくする妹君がお産みになられた方です。葉希様は先代の王の父方の従妹にあたる方でしたから、素芹美姫は三代前の王の曾孫にあたります。王と同じですね」
手元の王家の家系図に目を通しながら鳥末は報告する。
建成王は気楽に自室の寝台の上に転がっていた。
「わしとはどんな間柄になるのじゃ?」
「また従妹です」
「ほー。して間違いなく青い目に黒髪か?」
「はい。それに可愛らしい容姿の方です」
「姉上に似ておるか?」
間が開く。
「……多分」
鳥末は目をそらした。
「なんじゃ、その怪しい返事は」
起き上がって寝台の傍らの椅子に立つ鳥末に迫る。鳥末は困って笑った。
「素芹美姫はまだお若くて、十七歳で亡くなられた先代の二位巫女様と比べ難いのです」
「その姫はいくつなのじゃ?」
「……十歳です」
「そんな姫を妃に迎えられるか! 馬鹿者!」
建成は少々腹を立てたようで、片手で鳥末の顔に大きな枕を押しつけた。
枕が落ちると困っている鳥末の顔がある。
「とりあえず素芹美姫の父親に、姫をいずれ王に差し出すよう約束を取り付けますので、三年……四年ほどお待ち下さい」
「その間、わしの妃はおらぬのか?」
建成王の目が据わっている。
「その間に文をお出しになるなり、贈り物をするなりして、素芹美姫のお心を捕らえて下さい。結婚すれば必ずお互いを好きになると云うことはありま」
建成王の視線は次第に強烈になっていく。
「せん――が、わかりました。他の女性も捜して参ります」
鳥末は負けた。
十年後、後宮の中庭――
二歳になる公人王子とその姉の美鳥姫が、石蹴りに夢中になっている。側にひかえる侍女達が危うげな足取りにヒヤヒヤしているのだが、二人はそれに気がついていない。
そのあどけない様子を、生まれたばかりの赤子を抱く素芹美妃と、建成王が見守っている。
素芹美妃は腕の中の赤子の顔を覗いて微笑み、建成王に尋ねた。
「王、この姫の名前はお決まりになりましたか?」
建成王は背を丸めて青い目の赤子の頬をつつく。
「ああ、『コウセイ』と決めた」
「どんな字ですの?」
「字は『幸せに成る』じゃ」
美しい妃は楽しげに笑う。
「あら、わかりやすい名前ですわね」
「不満か?」
すねたような声で建成王は妃に問う。
「いいえ、愛されている感じがして素敵ですわ。きっと誰からも好かれる女性に成長できます」
建成王を見つめる素芹美妃の瞳が、真夏の空のように輝いている。その艶やかな黒髪をなでて、建成王は目を細めた。
そこへ鳥末が建成王と目を合わせながら近づいてくる。
鳥末が声をかける前に、建成王は妃と三人の子供から離れた。
王城へ戻る途中、鳥末から『和圭』と云う名の者が自分と内々に会って話をしたいと願い出ていると聞いても、建成王にはその名に覚えがなかった。
「地方の神殿の主でしかない上級巫女ごときが、わしになんの用がある? そなたもなぜ取り次いだのじゃ?」
「王の昔の知り合いだとおっしゃっていますので……」
「嘘ではないのか?」
疑わしげに鳥末を睨む。
「そういう感じはいたしませんが……上品でどことなく威厳があって、美しい方なのですが、本当に覚えがございませんか」
鳥末は「美しい方」に力込めて建成王の目をジッと見る。
建成王は嫌そうに顔を歪めた。
「いくらわしでも巫女に手は出さぬ」
鳥末は「そうですか」と引き下がった。
「では会うのはお止めになりますか?」
「……美人なのじゃな?」
廊下で立ち止まり見つめ合う主従。やがて『従』が重たげに口を動かした。
「……かなり」
「会う」
云うなり、一人でさっさと目的の部屋へ向かって歩いていく建成王の後ろ姿を、鳥末はつい見送ってしまった。
建成王が扉を開けると、そこにいたのは確かに、上品でどことなく威厳のある美しい昔の知り合いであった。
「そなたであったか」
相手は建成王に気がついて椅子から立ち上がり、見ていて気持ちがいいほど背筋を伸ばして礼をする。顔の横で束ねられた淡い金色の髪に、ブルーグレイの瞳。額には二十歳をもって退位を決められている天の一位巫女の、退位後を示すために赤色から紫色に変わった八枚花弁の花の入れ墨がある。建成王が即位した年の天の一位巫女であった。
「お久しぶりでございます」
変わらない張りのある澄んだ声が建成王の耳に届く。三十代半ばの年齢のはずだが、二十八歳の建成王と同じくらいに見える。
建成王はあるかなしかの笑みを浮かべて、元一位巫女に椅子に座ることを手で示し、自分は机を挟んでその向かいに座った。
「そう云えば名前を聞いたことがなかったのう。『和圭』か。わからなかったな」
「今はただの上級巫女ですから」
そう答えた元一位巫女の額に建成王の視線が注がれる。
「しかし鳥末も、その額の印を見れば元一位巫女だとわかりそうなものなのじゃが」
「ああ、それは我が最初に頭に布を被っていたせいでしょう」
そう云うと、椅子の横に置かれた四角い大きな布袋から、象牙色の布を取り出して見せる。建成王が納得するだけの厚みのある布であった。
「そなたが一位巫女を退位して以来じゃな。あれから……十五年ほど経つかの。そなたには縁を切られたと思っておったよ」
元一位巫女は机の上に置いた自分の両手に視線を落とした。
「そのようなこと、この我にできるはずがありません。退位して上級巫女となり、地方の神殿の主となりましたが、我はずっと王のことを案じておりました」
「どのように案じておったのじゃ?」
建成王のその言葉を皮肉だと感じたのか、元一位巫女は顔を隠すように深くうつむいた。
「……王が、もう誰からも傷つけられることなく、そしてもう誰も傷つけることのないようにと……」
冷めた黒い瞳が苦しげなその姿を映している。
「つまりそなたは、わしのしたことが間違っておると思うのじゃな」
建成王は聞いた方が凍りつくような声をだした。
「そのようなこと!」
反射的に元一位巫女は、机を叩くような勢いで立ち上がった。
「思うはずがありません!」
「だがそなたはわしに姉上の話をしたことを後悔しておる」
悲しげな元一位巫女の顔がゆっくりと横にふられた。癖なのか、両手は胸の前で祈るように握り合わせている。
「違います。わからないのです。あのときはあなたに二位巫女の想いをお伝えすることが、我の役目だと思っておりました。そしてそれが心を閉ざしておられたあなたを、お救いすることにもなるのだと信じておりました。しかし、しかし……あなたは心を閉ざしておられたわけではなかった。あなたの心が負われていた傷は、我が考えていたよりずっと、深かった……」
ブルーグレイの瞳の片方から涙が一筋こぼれた。二位巫女はふいに流れたそれを慌てて指で払い、こめかみを押さえて眉をしかめる。
「あなたの心はこじ開けられて全開していて、踏み込む者から与えられる痛みで狂わないように、痛覚を鈍くしておられた。我はそれに気づかずに……痛覚だけを正常に戻すような真似をしてしまいました。我のしたことは良い方法ではありませんでした」
建成王の表情がやわらいだ。
「和圭、先代王の崩御からすでに十七年も経つのじゃ。わしはもう無力の王ではないし、愛する妃も、可愛い三人の子供もおる。それが良くないことだとそなたは思うのか?」
元一位巫女は驚いて首を横にふった。
「お幸せなのですか……?」
「信じられぬか?」
「いえ、王がそうおっしゃるなら信じます。そうでございましたか。では、我はもう……」
長年の重荷から解放されたように、元一位巫女は涙を押さえて笑った。
それから思い出したように持参した布袋の中から、布に包んだ一枚の板のような物を取り出して、布を解いた。
「今日は王にこれを差し上げたくて参ったのですが、王がお幸せならあまり必要でもありませんでしたね」
布の中から現れたのは一人の少女の肖像画であった。艶やかな黒髪をきつく結上げた美しい少女が、青い目で挑むようにこちらを見ている。
それなりに美しい絵であるが、筆づかいなどが少々稚拙で、画家などが描いたものではないようである。
手にとって眺めるが、建成王にはなぜこれが自分への贈り物なのかわからない。
「我が描きました。一位巫女を退位してから練習を続けて、ようやく納得のいく物が描けましたので王に差し上げたいと思います。二位巫女の絵です」
「これが?」
似ていない、と建成王の顔が云っている。
「ええ。元三位巫女にも見てもらいました。絵としての技術はともかく、二位巫女の姿は描けているはずです」
それでも絵を凝視して顔をしかめている建成王に、元一位巫女は寂しげに云う。
「王の中の二位巫女はもう違う顔をしているのですね」
「あ」
建成王は少女の胸元に描かれた、三日月を形どった翡翠の小さな首飾りを指さした。
「この首飾りに見覚えがある。だがしていたのは……姉上ではない」
「先代の王の葬儀のときに付けていたのはこれではありませんが、二位巫女の遺品の一つです」
「同じ物を誰かがしていたのじゃ」
建成王は視線を遠くに投げて爪を噛む。
「誰だったか……侍女の誰かじゃ。かがんでわしに話かけたとき、白い胸元に緑色のこれが光っていた。ずいぶん昔のことじゃ」
元一位巫女は驚いて云う。
「それは二位巫女でしょう。侍女にこんな高価な首飾りは持てません」
建成王も驚いて口から爪を離し、元一位巫女を見上げ、次に絵をじっくりと見つめた。
「あのとき侍女と思ったのが姉上じゃったのか? そうか、白い胸元しか覚えておらぬが……わしが覚えておらぬと云うことは、姉上はそれほど美人でもなかったのじゃな」
「そんなことは……」
元一位巫女は頬を歪めた。
「だがわしの思った通りの優しい方じゃ。あれは、わがままな天弥に気に入っていた玩具の弓を取られて、取り返そうとしたら母上に叱られて……くやしくて王宮から抜け出したときじゃ。見つけたわしの頭をなでて下さったのじゃ」
そう云った建成王の顔がとても優しかったので、元一位巫女はすっかり安心して目を細めた。
豆粒ほどの大きさになって王宮の門を出ていく元一位巫女の姿を、部屋の窓から建成王が見つめていると鳥末が云った。
「あの方を後宮に妃として迎える手配をしましょうか?」
なぜ、と建成王は鳥末に目で問いかけた。
「お好きなのでしょう?」
「そう見えるか? このわしを気づかう者を側に置いておきたいだけじゃ。だがあの者は駄目じゃな」
軽くため息をついて、建成王は窓枠に頬杖をつく。
「どうしてですか」
「わしの暗い部分を知っておる。明るい部分しか知らない素芹美と違って、側に置けばわしがしていることに気づいてしまうじゃろう。そうなったらきっと、あの優しい者の心は壊れてしまう。だから明るい部分だけ見せて、暗い部分はもうないのだと騙して帰した」
鳥末は机の上に置かれた少女の肖像画を手に取る。
「王がそれほど気をつかわれるとは、よほど大事な方なのですね」
「姉上のことを教えてくれた恩人じゃからな。それに嫌いではない。わしが天弥と母上を殺したことを知っておるのに、それでもわしに同情しておる」
元一位巫女の姿が見えなくなったのか、建成王は体を室内へ反転させる。
「そうじゃ。鳥末、その絵の少女と素芹美、どちらの方が美人と思うか?」
鳥末は絵の少女を見つめた。
「素芹美妃の方がお美しいかと思いますが」
「やはりそうか。では似ておるか?」
鳥末は自分の顎をつかんで考え込む。
「髪の色と瞳の色は同じですが……こちらは少しきつい感じで、素芹美妃はお可愛らしい感じですし……似てませんね」
「やはりそうか」
建成王の目が据わる。
「それはわしの姉上のお姿じゃ」
鳥末の目が点になる。
「わしは姉上に似た妃がほしいと云ったはずじゃのう、鳥末」
腰に手を当て顎をそらし、鳥末に近よる建成王。鳥末は視線を外す。
「……よいではありませんか。王は素芹美妃を寵愛してらっしゃるのですから」
「それとこれとは違う」
「あのときは探せるだけ探したのです。今から素芹美妃以上の方を探せとおっしゃられても……」
「そのようなことは云っておらぬ。素直に詫びぬか!」
「はい?」
「わしに詫びろ!」
「ああ、はい……申しわけございませんでした」
拍子抜けした鳥末が間抜けな顔で頭を下げた。
建成王はそれで気が済んだようである。鳥末から肖像画を取り上げ、机の上に広げたままになった布で丁寧に包むと、両腕で抱くようにして机に腰かける。
「ところで鳥末、新しく後宮に入った子供達は何人じゃ?」
「二人です」
答える鳥末の顔から感情が消える。
「半年ぶりと云うのに少ないな」
「王宮に出入りする臣下から、これ以上子供を妾として差し出させるのは無理です。農民の子供ならなんとでもなりますが」
「農民の子供ならいらぬ。母上からわしも姉上も助けようとしなかった臣下の子供でなくてはならぬ」
「しかし無理に差し出させた子供が帰ってこないとなれば臣下は黙っていないでしょう」
「それならまた流れ矢にでも当たって死んでもらえばよいのじゃ」
建成王は肖像画を抱いて笑った。