6《私は何もしていない、と女は語った》
咲古は日下国の多くいる下級貴族の娘の一人だった。家は貧しく自分で畑を耕さなくてはならないほどで、父親はなく、母親が六年前に前に亡くなっていた。
畑仕事で肌を焼きながら、咲古はいつか一生遊んで暮らせるような身分の高い男の妻になることを夢見ていた。
その夢を祖父に話すと、祖父は馬鹿にして笑った。
「お前になれるのは農民の妻か、少しばかり金のある下級貴族の中年男の妾ぐらいじゃよ」
自分の美しさに自身のある咲古は、いつもその言葉にイライラしていた。
「冗談じゃないわ。この若くて美しい私が農民の妻なんて。お金を持っていたって、身分の低い中年男の妾になんかなるもんですか。私はその辺にいる美しくも品位の欠片もない、どうでもいい娘達とは違うのよ。私は絶対に、誰もが羨むような身分の高い立派な人の妻になって、この生活から抜け出すわ」
そんな咲古の話を聞くと、周囲の誰でも咲古を馬鹿にした。誰もその夢が叶うと信じなかったのである。
しかしいつものように畑に立つ咲古の元へ、馬に乗った王の使者がやってきた。
「我が王はあなたを妾にと望んでおられます」
断るはずがなかった。王の妾。咲古のような身分の女が得る地位としては最高である。
十六歳の咲古は自分を馬鹿にした者達をあざ笑って実家を出ていった。
かけ布団で胸を隠しながら寝台の上で体を起こした咲古は、うっとりと部屋を見回した。広く美しい部屋、豪華な家具、床の上に脱ぎ捨てられた色鮮やかな服。
それから部屋の中央に置かれた華奢な作りの円卓の上で、二つのガラスの杯に酒を注いでいる、上半身裸の建成王。
咲古は満ち足りた笑みを浮かべた。
建成王がふり向いて咲古に酒を注いだガラスの杯を渡した。
「飲むがいい」
咲古は渡されたガラスの杯の中の、酒独特の匂いが漂う、やや黄色がかった透明な液体を見つめた。
「お酒、ですの?」
「そうじゃ」
答えて建成王は自分用に注いだ酒を飲んだ。
「嬉しい。私、去年の収穫祭のときに一度飲んだきりですわ。それに……こんなきれいなガラスの杯で飲めるなんて」
咲古はまずガラスの杯を回して外側を眺めてから、酒に口をつけた。
「おいしい」
「それはよかったの」
円卓の横の椅子に腰を下ろした建成王は口もとだけで笑って、咲古の方を向いて円卓の上に頬杖をついた。
「わしの妾になれて嬉しいか?」
「はい、幸せです」
咲古は満面の笑顔を返す。
「そうか。ではその酒を飲みながらわしの昔話を聞くがよい」
建成王は楽しげに目を細めた。
「……わしの母上のは厳しい方で、わしの頭をお殴りなったり、杖などで腹や背中をお殴りなることがしょっちゅうじゃった。物心つく前のわしに、『悪いこと』をしたのだから『あなたのため』に『罰を』を与えるのじゃとおっしゃってな。中でも一番多い『罰』はわしの袖をめくって腕を爪の先でつねることじゃった」
反応に困る咲古。咲古には建成王がなぜ今こんな話を自分にするのかわからない。適当に相づちを打って酒に口をつけた。
「しかし父上も侍女達も、わしを側から離さず自らの手でわしに着替えをさせていた母上が、厳しい方だと云うことを知らなんだ。母上がわしに厳しくなられるのは、わしと二人きりになったときだけじゃったので無理もない……ところでわしには母親の違う最愛の姉上がおられたのだが」
咲古は酒をなめながら上目使いに建成王と目を合わせた。
「はあ……」
「ある日母上に殴られているわしを庇ったために母上の怒りを買って殺されてしまった」
「……は?」
驚いて顔を上げた咲古。建成王は心静かな様子で自分のガラスの杯に酒を注いでいる。
「わしは母上が嫌いになった。だから母上の大好きなわしの弟をわざと死なせ、母上にも確実に死刑となる罠にはまっていただいたのじゃが、まだ足りない」
咲古の動きが止まる。
「母上には兄がおられる。田水豊則と云う名のわしより権力のある大臣じゃ。さて、その田水豊則には若い頃に手を付けたものの、あとを放っておいた女がいる。女は実家に戻って父のない子を一人産んでいた。それが六年前に亡くなったそなたの母じゃ」
建成王は横目で咲古を見る。
咲古は眉をしかめて、口紅を塗って真っ赤な唇を動かした。
「まさか、そのようなことが……」
もうどうでもいい、とでも云いたげな横顔がそれに答える。
「不安になることはない。もう終わっている。そなたが飲んだその酒に毒が入っていた」
「!!」
ガラスの杯の底に浅く、黄色がかかった透明な液体が揺れている。滑らかな表面に咲古の真っ青な顔を映していた。
「効果がでるまで少々時間のかかるやつだが、苦しみは短いはずじゃ」
咲古はふいに顔を歪めて、腹を庇うように背を丸めた。額に脂汗が滲む。ガラスの杯を掴む両手が震えだした。丸い肩も、伏せた頭も。
「私……何もしていない……ただきれいな服を着て……誰にも馬鹿にされない……になりたかっただけなのに……」
ゆっくりと顔を上げていく。茫然とした表情を涙で濡らして拭いもせず、
「酷い……」
それだけつぶやくと口と鼻から血が一息に溢れ出て、咲古はガラスの杯を掴んだまま横に倒れた。
建成は痙攣を起こしている咲古の体が動かなくなるまで、頬杖をついたまま観察するようにただ見下ろし、動かなくなると部屋の扉を開けて自分の舎人である鳥末を呼んだ。
数日後、王宮にて日下国の大臣を集めての定例会議が平常通り田水豊則の独壇場で終わった。
何も知らずに上機嫌の田水豊則は、会議室を出る建成王を誘って王宮の庭へ散歩に出た。
「私はこれまで臣下としてだけでなく、王の伯父として、王には使用人や馬や宝飾品など色々なものを差し上げてきましたが、一つだけまだ差し上げていないものがありました」
難しい顔を作っていた田水豊則はそこまで云って、ニヤリとして建成王の目を捕らえた。
「王も今年で十七歳になられた。そろそろ正式な妃を持つべきでしょう。どうでしょう、十二歳になった私の一番上の娘を王に差し上げたいのですが」
建成王は珍しく笑って返事した。
「伯父上からはもう十分に頂いておりますゆえ」
その返事に田水豊則は頭をかいてあっけらかんと笑った。かわされたと思ったのだ。
「やはりまだ十二歳では早過ぎますか。仕方ないですな、上手くかわされてしまったことですし、この話はまた数年後にするといたしましょう」