5《息子は少しはにかんで母へ》
二人の侍女を従えて王の部屋を訪れた行呼大妃に、建成王は不思議そうに尋ねた。
「母上、今日はまたどんな用がございましたのじゃ」
行呼大妃はぎこちなく笑みを浮かべて、侍女の一人に持たせたお盆の上から瓶を取って建成王に見せた。
瓶の中に赤い液体が揺れている。葡萄酒のようである。
「海に囲まれた我が日下国にとって、唯一の隣国サータ・ラーシ国の特産品よ。豊則お兄様が持ってきて下さったの。あなたと一緒にいただこうと思って」
「そうですか、田水大臣がこれを」
「あら、誰かいるの?」
行呼大妃は建成王の部屋の中に上物の神官服をまとった白髪の老人が立っているのに気がついた。白髪の老人は行呼大妃と目が合うと最敬礼をした。
建成王は一歩下がって体の向きを変え、行呼大妃の前を開けた。
「月の神殿の主、二位神官です」
「何をしていたの?」
「二位神官の手を借りてお祈りをしていました」
「あなたが? 一体何を?」
行呼大妃は眉をしかめた。
「天弥が黄泉の国で心安らかに暮らせるように」
目を見開く行呼大妃の後ろで二人の侍女が感動したように「まあ」と声をもらした。
行呼大妃は首元に手をあてて視線を泳がせた。
「そう、天弥のために……。そうね、あなたはあの子の兄だったのよね」
今の今まで忘れていたような、そんなつぶやきだった。
「お入り下さい、母上」
母の言葉を気にした様子もなく、建成王は行呼大妃と二人の侍女を招き入れた。
木机の上に灯っていた儀式用の灰色のロウソクの火を吹き消して、建成王が銀の燭台と一緒に奥の部屋へ運んで行く間に、行呼大妃の侍女がガラスの杯に葡萄酒を注いだ。
傍らに控えた二位神官が笑顔で、一人椅子に腰かけた行呼大妃に話しかけた。
「大妃様、王はお優しい方ですな。王は天弥様のために毎日長いこと熱心にお祈りされておられます。きっと黄泉の国を治める神にその祈りは届きましょう」
「そんなことまったく知らなかったわ……」
戸惑う行呼大妃に二位神官が優しく諭す。
「王は大妃様に残されたたった一人のお子様です。王にとっても大妃様はたった一人の母君です。どうか仲むつまじくされて下さい」
行呼大妃はうとましげに老神官を一瞥した。大波和王の葬儀のときのことを非難されているのだと感じたようである。
「何をお話じゃ? 母上、二位神官」
戻ってきた建成王が行呼大妃の向かいに座る。
二位神官が微笑んだ。
「私が親子が仲むつまじいのはよいことだと申し上げたのです」
「そうか」
「建成、さあ、お飲みなさい」
行呼大妃が差し出した葡萄酒の少し注がれた杯を、建成は手を滑らせて机の上に落とした。
「あっ」
葡萄酒は机の上を走って床の上に滴った。
「……申しわけありません、せっかく母上が下さったというに」
侍女が綿の布で机の上を拭く様子を横目に、建成王が恐縮する。
「いいわ。まだたくさん瓶に残っているのだし」
立て直した杯に侍女が新たに葡萄酒を注ごうとするのを建成王が手で制し、少しはにかんで杯を行呼大妃に差し向けた。
「母上に注いでもらいたいのですが、注いでいただけますか」
「え? ああ」
行呼大妃は自ら葡萄酒の瓶を取って、建成王の空の杯に注いだ。
注ぎ終わると建成王はそれを引きよせて微笑んだ。
「ありがとうございます、母上」
今度は行呼大妃の方が不思議そうに建成王を見つめた。
「今日は……いつもより元気なのね」
「母上と久しぶりにお会いできましたから」
やや間が開いた。
行呼大妃は眉をやや歪めたまま、微笑みを作る。
「……そう。これからはもっとあなたの元を訪れるようにするわ。天弥が逝ってしまって、私の子供はあなたしかいなくなってしまったのだもの。あなたには幸せになってもらいたいわ」
「本当ですか?」
「もちろんよ。あなたに寂しい思いはさせないわ」
「嬉しいです」
建成王は照れたようにうつむき、杯を両手で握り込んだ。
「わしも母上にはお幸せでいてもらいたいと思っております。――あ、葡萄酒をいただきましょう」
小さな両手で杯を持ち上げ、小さな王はコクコクと喉をならして葡萄酒を飲み込んだ。
そして母に向かって何かを云いかけた笑顔は、突然驚愕の顔に変わった。建成王は自分の首を絞めるように両手をあて、倒れるように椅子から落ち、床の上を転がった。
「王!!」
二位神官が駆けよる。
侍女達が悲鳴を上げた。
「建成!!」
行呼大妃はとっさに動けない。
呼吸を乱した建成王は胸元を左手でむしり、右手で体を支えて床に吐いている。一度吐き終わると体を床に投げるようにして転がる。
「うえ・え・げっ! げぼ・う! ……ハアハア……ハッハッハッハッハッ」
「王、一体どうし――」
二位神官はハッとして、行呼大妃に突き刺すような視線を向けた。
行呼大妃はその視線の意味をすぐに理解し、机から飛び退いた。
「毒などいれていないわ!!」
侍女達は部屋を飛び出し、大声で人を呼んでいる。
「誰か来て! 王が、王が大変です! 医者を呼んで!」
すぐに数人の舎人が駆けつけたが、医者を呼びに引き返した者以外、二位神官に背をさすられ嘔吐をくり返す王のために、何をしたらよいのかわからない。
二位神官は厳しい表情で行呼大妃に疑惑の目を向け、押し黙っている。
口からヨダレを垂らし、建成王が涙を浮かべながら行呼大妃を見上げた。
「……ハッハッ、ハア、うえ……母、上……どうして……?」
二位神官が舎人達に向かって怒鳴った。
「大妃様を捕らえよ!! 王に毒を盛られたのだ!! 侍女達も連れて行け!!」
騒ぐ侍女達と共に行呼大妃が捕らえられ、引き摺られるようにして外へ連れ出される。
「私は何もしていないわ、どうして私が子供を殺すの!! 離しなさい!!」
高い声が遠くなって消えた。
葡萄酒と吐瀉物の匂いが充満する中、建成王は苦しげに吐き続けている。
「王! 王!! ええい、医者はまだか!!」
建成王の側にいた二位神官も部屋から飛び出して行くと、その部屋には建成王が途切れ途切れに物を吐き出す音だけが残った。
すると奥の部屋から飛び出して来た者がいる。建成王の側に駆けより、二位神官のしていたように背中をさすり、さらに懐から何かの液体の入った小さなガラス瓶を出して差し出した。
「無茶をなさいましたな、王。酒と一緒に飲んでは毒が強まると申し上げましたのに……さあ早くこれをお飲み下さい」
心配げに建成王の顔を覗き込んだのは鳥末である。
しかし脂汗を浮かべた建成王は、鳥末の差し出した小瓶を押し戻し、その拍子に体のバランスを崩して床に仰向けに倒れた。胸に爪を立て、腹も押さえている。
「王! お飲み下さい」
建成王は力なく首をふる。
「医者に……症状、見せ……」
汚れた口で必死に言葉を繋ぐ。鳥末は少ない単語から主人の云いたいことを理解したようであるが、はっきりと反抗した。
「このままでは王のお命が危険かもしれません! 本当に毒でお亡くなりになってしまったら元も子もないではありませんか!」
鳥末は蓋を抜いた小瓶を建成王の口にあてるが、横を向かれてしまった。
「症状……軽いと……疑われるやも……」
そう云われた鳥末は二呼吸の間考え込むと、少年のものとは思えない責任感のある厳しい顔になった。
「王のお命の方を優先させていただきます」
鳥末は自分の口に小瓶の液体を注ぎ、目で小瓶の中身が半分になったことを確認すると、建成王の顎を掴んでその口へ液体を移した。そして飲み下したのがわかると建成王から離れ、汚れた自分の唇を指で拭った。
「御意志に逆らったこと申しわけございません。しかしこれから先も、王のお命を奪いかねない御命令には死を賜ることになろうとも従えません。それから、勝手にお体に触れて失礼いたしました」
しかし鳥末に向けられた建成王の眼差しは、呼吸困難による酸欠のせいか虚ろになっており、耳にその言葉が入ったのかどうかあやしかった。
部屋の外から複数の慌ただしい足音が聞こえる。二位神官や呼ばれた医者が戻ってきたのだろう。
鳥末は小瓶に蓋を戻し懐に隠す。
建成王は目を閉じつぶやいた。
「姉上……」
聞き取った鳥末は首をかしげていた。
数時間後の天の神殿内。
第一三八代目一位巫女は王宮からの使者によって、行呼大妃が建成王の毒殺未遂で捕らえたれたことを知った。
王への殺害未遂。それは誰であろうとも死刑を免れない、この国で一番重い罪である。
神剣を手に天の神への祈りの最中だった一位巫女は、祭壇の前で総銀製で柄に空豆ほどの紅玉がはめ込まれた国宝を床に落とした。
その国宝は側にいた三位巫女によって慌てて拾われたのだが、一位巫女はそれどころではない。全身を震わせ、今にも倒れそうな顔色となった。
「まさか……そんなことになるなんて」
歯がカチカチ鳴っている。
「あのときのあれがそんな選択を意味していたなんて……では我が、我が……」
一位巫女は自分を抱くようにして泣いていた。