4《幼い王子の肩を抱いてその母は》
鳥末が初めて王宮内へ入ったのは、尊敬する父親を亡くした十一の歳であった。
「そう。お前が末志与の息子なの」
鳥末が連れてこられた王宮の一室で、優雅に長椅子に斜め座りした行呼妃が艶やかに微笑んだ。
「末志与に似て賢くて丈夫そうね。いいわよ。末志与の生前の頼み通り、お前を私の大切な王子の舎人にしてあげるわ」
薬師を兼ねた舎人として長年大波和王に仕えていた鳥末の父親は、息子が自分と同じように薬草の知識のある役立つ舎人として、次代の王に仕えることを望んでいた。その希望は死ぬ間際に、大波和王の二人の王子を産んだ第一妃の行呼妃に伝えられていた。
行呼妃の産んだ二人の王子は建成王子と天弥王子と云い、今年十歳と八歳になる。生まれてすぐ病死した赤楽王子を除けば、大波和王に他に王子はいないので、正式に王太子は決まっていないものの、普通に考えれば次の王は建成王子である。
だから当然鳥末も、自分は建成王子に仕えることになるのだと思っていた。
しかし。
行呼妃は侍女の連れてきた幼い王子の肩を抱いてこう云ったのだ。
「あの者が新しいあなたの舎人よ。薬草の知識があるから、あなたが小さな怪我をしたときにも使いなさい。鳥末と云う名よ」
行呼妃の腕の中から、鳥末に向けられた無垢な黒い瞳。
行呼妃は鳥末に優しく微笑んだ。
「私の大切な天弥をよろしくね」
天弥王子は母である行呼妃といるときはそれなりにおとなしいのに、舎人や侍女達だけになると急に元気で我儘で癇癪持ちになる子供だったので、お付きの侍女二人と舎人の鳥末は毎日苦労していた。
勉強時間になると逃げ出し、また舎人や侍女と王宮の庭で遊んでいても、いつの間にか庭や城内のどこかに隠れて姿が見えなくなる。 そんなことが度々あったので、野苺の実る季節のその日、庭で遊んでいたはずの天弥王子の姿が見えなくなっても、天弥王子付きの侍女二人も鳥末も大したことだと思わなかった。
それなのにその日は、城内や庭をいつまで捜しても天弥王子が見つからなかった。夕暮れが近くなり、鳥末はそれまで捜したことのなかった王宮の外を捜し始めた。
天弥王子がそれまで王宮の外へ抜け出したことはなかった。しかし王宮内のどこにもいないのである。都方面の捜索は他の舎人達に任せて、鳥末と数十人の舎人は王宮の周囲の草原や山を捜索した。
腰の高さまで生い茂った草や茨を両手でかき分けて進み、草や石に足を取られては何度が転んだ。
「天弥王子ー!! お返事くださいー!! どこにいらっしゃいますかー!!」
やがて完全に太陽は沈み、松明の明かりを持っての捜索となった。草原に、山に、松明の明かりが並んで揺れた。
ようやく天弥王子が発見された。
天弥王子の発見された場所から離れた所を捜索していた鳥末は、それを伝え聞いて駆けつけた。
天弥王子を囲む舎人達の中で一番真っ青になって、鳥末は岩の上に横たわった天弥王子の遺体の側によった。
小さな頭の下が黒っぽく濡れていた。魂の抜けた目。鼻から血を流した青白い顔。潰れた野苺が横に落ちていた。
「……うあ、あああ!」
鳥末は自分の髪をかきむしってその場に崩れた。
節くれ立った指先から肘まで無数の細長いかさぶたと痣ができている。草の汁や埃で汚れた足の裏。鳥末は四角く狭い部屋の隅で膝を抱えていた。
左右の足の指を擦り合わせて、足の先や裏に付いた埃を払う。埃が乾いた土のようにコンクリートの床へ落ちると、その足の裏を床へ擦り付ける。くり返される二つの動作。それを始めた昼から半日ほど経過していた。
深いため息を付く。鳥末がもたれているのは湿っぽい石の壁。正面の壁も左の壁も同じである。しかし、左側だけは薄明かりのもれる鉄格子であった。
「目を離した隙に主人が事故死するなんて運が悪かったな。あの王子はやんちゃな方だったから、そうなったのも無理がないかもしれないが」
鉄格子の外から鳥末を覗いて髭面の看守がそう云った。
その声に反応して一度は上げた顔を、鳥末は腕の中へ沈めた。
「だが、まア、黄泉の国にはお前の先祖もいるだろうさ。それに会いに行くと思えばいい。今生きているお前の家族だって、何十年か経てばそっちへ行くから、そう気落ちすることもないさ」
足音と共に声が遠くなる。鳥末は自分の両腕に爪を立てた。
また足音が近づいた。鳥末は部屋の隅で顔を深く腕の中へ沈めている。
足音が鳥末のいる鉄格子の前で止まった。
「助けて……やろうか?」
感情の少ない子供の声で、ひどくゆっくりと尋ねられた。
鳥末は脅えた様子で顔を上げ、鉄格子の向こうに立つ者の姿を見た。
「建成王!!」
そこに立っていたのは鳥末よりも一つ若い年齢のこの国の王だった。鳥末は両手を床につき、頭も擦りつけんばかりに下げた。
「どうしてこのような所にいらっしゃるのですか!!」
建成王は答えず、名を呼んだ。
「鳥末」
「はい!」
はねるように上半身を起こした鳥末に、建成王はぼんやりした様子で言葉を重ねた。
「わしが……助けてやろうか? そなたがわしの舎人になるのなら……助けてやってもよい」
「は、はい! ありがたくお受けいたします」
鳥末は頭を床に付けた。
「しかし……なぜ王の弟君を、天弥王子をお守りできなかったこの私を助けて下さるのですか?」
訝しげに見上げる鳥末に、建成王はどこか遠い目をして答えた。
「そなたにはやってもらいたいことがあるのじゃ」




