2《一位巫女は泣き出しそうな顔で首を横にふった》
天の神殿へと続く白い石畳の上で、一人の凛々しい美少女が背筋を伸ばして、即位したばかりの建成王を迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、建成様。あなたが王となられ、お一人でこの天の神殿来られる日を、我はもう半年も待っておりました」
張りのある澄んだ声がそう告げたが、建成王はこのブルーグレイの瞳と波打つ淡い金の髪を持つ美少女を知らなかった。
「そなたは誰じゃ」と建成王が問う。
「我は日下国第一三八代目一位巫女にございます」
「そなたと会ったことがあるか?」
「半年前の先代の王の葬儀のときにお見かけいたしました」
「ああ……一位巫女なら王の葬儀を行うは当然じゃの。しかし悪いが、わしはそなたを覚えておらぬ」
先代の王の葬儀のときとなんら変わりのない、無表情な顔と虚ろ目で建成王は答えたが、一位巫女に特に気落ちした様子はない。
「我があの場にいたと理解していただければ、特に不都合はございません」
「何かあるのか?」
「お話がございます」
「天の神殿の中で聞こう」
一位巫女の横を建成王が抜けた。
「お待ち下さい! 建成様」
建成王は足を止めてふり向いた。
「神殿の中では駄目なのか?」
「はい。本来一位巫女が王にしてはならない話なのです。他の者に聞かれるわけにはまいりません。だから我はここでこうして待っておりました」
一位巫女の胸の前で握り合わせた両手がかすかに震えている。建成王は数歩戻って一位巫女と向き合った。十一歳の建成王は一位巫女よりも体が小さいので、少し見上げる格好となる。
「して、話とはなんじゃ」
「亡くなった二位巫女のことです」
一位巫女の瞼が悲しげに伏せられる。
「覚えていらっしゃいますか。半年前、あなたを庇ったために行呼様の怒りを買って殺された黒髪の巫女です」
「わしの横で死んだ巫女のことじゃな。あの母上に逆らうなど無茶だったのう」
建成王は記憶をたどるように遠い目をするが、その声に抑揚はなく顔にも表情はない。
一位巫女は目を細めて下唇を噛んだ。
「そのようにおっしゃらないで下さい。二位巫女は命をかけて建成様を庇ったのです。その気持ちを汲み取ってやって下さい」
「あれは成り行きじゃ」
感情のない返事に、一位巫女は泣き出しそうな顔で首を横にふった。
「いいえ。あの場に居合わせた者の中で、二位巫女だけが飛び出して行呼様の頬を打ったのは、彼女だけが建成様を一番に愛していたからです」
建成王の目の動きがわずかな間止まった。
「なぜわしが見知らぬ巫女に一番に愛されているのじゃ?」
「見知らぬなどと……建成様は二位巫女と言葉を交わされたことがあるはずです。二位巫女が我にそう云っていたのですから。生前彼女は建成様に会えることを願って、たびたびこの天の神殿から歩き出ていました。天の神殿内から出ることを許されない我ら天の三巫女に、かろうじて許されている隣の王宮へ続く道の半ばまで……彼女は建成様の実の姉上でいらっしゃいました」
ブルーグレイの瞳が正面から建成王を見据えた。
しかし返るのは虚ろな答え。
「わしに姉上などいない」
「いいえ。建成様が二歳になられるまで確かに同じ後宮にいらっしゃったのです。その頃、行呼様はまだ先代の王の第二妃で、第一妃は別の方であったことを覚えていらっしゃいますか? ……第一妃は葉希とおっしゃる方でした。葉希様は方比楽姫と赤楽王子をお産みになられましたが、お生まれになって間もない赤楽王子が病死されると、後を追うように病死されました。そして残された当時八歳の方比楽姫が、母のいない姫として育つよりはと、巫女となるよう日の神殿へ渡されたのです。……亡くなった二位巫女は方比楽姫です」
「母の違う姉上? あの巫女が?」
一位巫女との会話の中で、初めて建成王の顔が動いた。いぶかしげに眉をよせている。
「巫女となる者は……俗世間にふり回されることなく神にお仕えできるように、神殿に入るときにすべての肉親から縁を切られます。大抵は幼いうちに神殿へ入れられるので、自分が誰の子供であったかなど忘れてしまいます。知っている者が本人や肉親に教えることも禁じられています。そして一度切られた縁は、後になって巫女の資格を失っても戻りません。だから巫女にとってかつての肉親への情など意味のないものなのですが……二位巫女は忘れられなかったようなのです。自分には父親がいて、弟がいると云うことを」
「だがわしに姉上の記憶はない」
「想いは一方的であったかもしれませんが、二位巫女は行呼様の側で虚ろな目をしている建成様のためにできることを、いつも捜していました。ですから二位巫女が亡くなったのは、決して成り行きではないのです」
生気の戻った目で建成王はうつむいた。
「だが……それを知ったところでわしには二位巫女を弔うことも、母上を責めることもできぬよ。わしは母上に逆らえぬ。臣下である伯父上にも逆らえぬ。数年後には母上のお気に入りの弟がわしに代わって王となる。わしに権力はないのじゃ」
一位巫女は金の髪を柔らかく揺らして首をふる。
「承知しております。ただ我はあなたの横で息絶えた者が見知らぬ巫女などではなく、あなたを愛した姉上であったと理解して頂きたかったのです」
建成王は遠いものを見る眼差しで空と地を交互に眺め、幼い子供がするように自分の右手の親指を前歯に当て、なんども同じ言葉をつぶやいた。
「姉上……? あれがわしの……? わしの姉上……」
背筋を伸ばし両手を体の前で重ね合わせた一位巫女は、身動き一つせずに建成王の靴の先を見つめている。その手に自分の爪が深く食い込んでいた。
「残念じゃ、姉上のお顔もろくに思い出せぬ」
ゆっくりと一位巫女が顔を上げた。
「……夏の空のように青い目をしていました。建成様と同じ艶やかな黒髪でした」
建成王は口から指を離し、あどけない黒い瞳で一位巫女を見上げた。
「もっと姉上のことを聞かせてくれ」
「はい」
一位巫女は微笑み、二位巫女の好きだった歌や花や神話や布の柄や、昔の出来事などを話しだした。
『天を走る船』の歌が好きだったこと。橘の小さな花が好きだったこと。『日下国神書』に記されている『アマテラス神とスサノオ神の誓い』の神話が好きだったこと。羽根を広げた鳥の模様の布が好きだったこと。神に捧げる舞が上手だったので二位巫女に選ばれたこと。天の神殿から王宮へ続く道で幼い頃の建成王子に出会い、言葉を交わせたと喜んでいたこと。
ふとその話が途切れた。
「どうしたのじゃ」
「建成様にぜひお聞かせしたい良い話を思い出してございます」
「ほう?」
一位巫女はそろえた指を口もとに当て、目を細める。
「他の方には聞かせられない話なのですが、二位巫女が毎朝の祈りの前につぶやいたことがあるのです。『あなたのためだけに祈ってあげる。国のことも民のことも考えないで、あなたの幸せだけを祈ってあげる。わたくしの大切な弟』と。三巫女は国と民のものですから、個人的な祈りは許されません。我と三位巫女が驚いて注意したので、聞いたのはそれ一度きりでございましたが、はっきり覚えて……」
一位巫女の嬉しげな笑みが、こわ張った建成王の顔を見て消える。
「建成様?」
「聞きたく……なかったのう……それは」
一位巫女の美しい眉がよせられる。
「失敗じゃ、一位巫女。それはわしにしてはならぬ話じゃった。力無き王に聞かせてはならぬ話じゃった……」
「たけ……いえ、王?」
建成王は天を仰いで涙を流していた。