第四話 交易都市カラマス -1-
時刻は正午近く。それまで一行の視界を遮っていた針葉樹の森は、少しずつ木々の間隔を広げていった。段々と暖かくなる空気の中さらに進むと、ハキムたちの目の前に、乾いた風が吹き抜ける平原が広がった。森林地帯を抜けたのだ。
遠く真っ直ぐな地平線を見つめれば、半刻ほどの距離に農村がある。あのあたりで早めに野営し、カラマスに使いを出すのがいいかもしれない。
ふと、ハキムは遥か前方に一つの影を認め、目を凝らした。
「ん?」
村から騎馬がやってくる。兵士ではなさそうだ。旅人にしても軽装すぎる。
ハキムたちと騎馬は互いに歩み寄るような形で近づいていった。その内、騎馬に乗っているのが、紺色のローブを身に着けた男性だということが分かった。
やがて男が馬上からこちらに手を振った。ハキムとトーヤは顔を見合わせる。
「……クィンズ?」
リズはそう呟いて、男に手を振り返した。
「知り合いか?」
「うん。学院の同期」
どうやら追手の類ではなさそうだ。ハキムはやや警戒を解き、脚を速めた騎馬の接近を見守った。
「無事だったか、リズ。それに連れの二人も」
目鼻が見える距離まで近づいたとき、馬上の男が声をかけてきた。結っていない金色の髪は風に揺れ、ローブから覗く四肢は細長い。世間知らずな若き文官、というのがハキムの抱いた第一印象だった。
クィンズはハキムたちの目の前で馬を停め、少々危なっかしい足取りで地面に降り立った。彼の澄んだ青い瞳には、疲労と安堵が浮かんでいた。
「馬車が迎えに行ったはずだけど、君たちだけ?」
「アンデッドの襲撃に遭ったの。魔術師もいた」
リズが答えると、クィンズはその端正な顔をしかめた。
「もう敵が領内に入り込んでるってことか……。でも、無事でなによりだ。さすがは、〝灰燼〟のエリザベス」
「今回は、この二人のおかげ」
ここではじめて、ハキムとトーヤはクィンズに紹介される形となった。しかし彼は既に、ハキムたち全員の素性を把握しているようだった。
「メサ導師から聞いてるよ。ハキム、トーヤ、会えて光栄だ。僕はクィンズ。〝遠窓〟のクィンズ」
「トーマド?」
ハキムは聞き返した。変わった二つ名だ。
「地味な魔術さ、多分お見せする機会はないだろうな」
「あんたも伝統派か?」
「メサ導師と同じ派閥、っていう意味ならばそうだ。君たちの味方だよ」
それからハキムたちはクィンズを伴って、先程から見えていた農村に向かった。
疲労したリズをクィンズの尻馬に乗せ、風に揺れる草原の街道を行く。その道中で、ハキムは襲撃の詳細をクィンズに話した。狼に変化する魔術師、待ち伏せのアンデッド。ポート公国領内で活動しているかもしれないアンデッドの存在に、クィンズは強い懸念を示した。
「現地でアンデッドを増やせるなら、部隊を侵攻させる必要はない、か。街という街の墓地を見張らなきゃあ」
「それだけじゃない」
トーヤは、ネウェルの地で見たアンデッド山羊の存在に言及した。
「家畜もアンデッドになる。もしかしたら鳥もなるかもしれない」
「……それはなんとも、気味が悪いね」
クィンズは前方を見据えたまま、低い声で呟いた。
◇
森から出たところにある農村は、とりたてて見るべきところもない小さな集落だった。そこで馬を借りたハキムたちは、道中さしたる障害にも出遭わず、二刻半ほどかけて日没前にはカラマスへと入った。
カラマス。ポート公国中央部にあるこの交易都市は、城壁に囲まれた古くからある旧市街と、ここ数十年ほどで急速に拡大したという新市街から成っていた。都市の規模はゼントヴェイロに遠く及ばないが、街の通りを行き交う人々は活気に溢れ、あちこちの露店で様々な品物が商われていた。
「で、俺たちはどこに連れてかれるんだ?」
ハキムたちは馬に乗ったまま、夕日に照らされる石畳の大通りを行く。
「代官の城館だ。そこにベルカ導師がいる。これから会って、話をしてもらうよ」
「ふうん」
まどろっこしくないのはいいが、いきなり本拠地に連れ込まれると、そのままうまく丸め込まれるのではないかと心配になる。学院の魔術師たちは、秘儀書を持ってきた自分たちがただの荷物運びではないと理解し、しかるべき分け前を寄越すだろうか?
騎馬はやがて城門をくぐり、旧市街の入り組んだ道を進む。ときおり見る兵士たちの表情は心なしか硬く、そう遠くないキエスとの前線を意識しているようにも見えた。
やがて建物が途切れた先に、白く端正な尖塔を持つ城館が見えた。門からの距離を考えると、旧市街の面積はさほど広くないようだ。ハキムたちは敷地の入口で馬を降り、兵士に預ける。
「おい君たち、武器も預けていきなさい」
兵士が言った。
「彼らは学院の客人たちだ。心配ない」
クィンズが有無を言わさぬ口調で答えると、兵士は居住まいを正して引き下がった。放逐された一派でさえ、それなりの影響力を保持している。ハキムは北方における学院の権威を垣間見たような気がした。
ハキムたちは武器を帯びたまま門をくぐり、よく刈り込まれた芝草の中庭を横切る。それなりに広い空間だったが、花や植木はなかった。普段は大人数での宴や、武芸の訓練に使うのだろう。
「ねえ、クィンズ。上の人たち、私についてなにか言ってた?」
「君の立場については心配いらないよ、リズ。今のところは」
クィンズの言う通りなら、追手の魔術師を返り討ちにした件で、リズが断罪される心配はなさそうだ。とはいえ、ハキムはまだ彼を完全に信用できてはいない。いわずもがな、これから会うであろう魔術師たちも。
守衛を横目に、一行は玄関をくぐって屋内へと入る。そこは広い吹き抜けのホールになっていて、正面の壁には歴代領主のものと思しき肖像画がいくつも掛けられていた。このとき日は地平線に沈みつつあり、ちょうど壁のくぼみに置かれたいくつかの燭台に、小さな灯がつけられるところだった。
ハキムたちは連れられるまま冷たい石でできた廊下を歩き、やがてホールからそれほど離れていない城館の北側にある一室へと通された。
扉を開けると、部屋の内装が燭台の灯でぼんやりと浮かび上がる。この場所は普段、兵士や役人が会議をする場所なのだろう。長机と十数人分の椅子が、空間の中央に鎮座していた。
ハキムは威圧的な学院の魔術師たちがずらりと並んでいるさまを予想していたが、室内には白髪の老婆が一人、ぽつんと座っているだけだった。
「ベルカ導師。お連れしました」
「よくぞ来ました。さあ座りなさい」
ハキムはこれから話し合いの相手となる老婆の姿をじっくりと観察した。頭のうしろで束ねられた白髪。落ちくぼんだ目とこけた頬。肌に刻まれた深い皺。それらは老婆の無感情を示すかのように、生気なく弛緩して見えた。
彼女もまた学院において高位の魔術師だったのだろうが、若々しいメサ導師とは対照的だ。ただこちらの方が、ハキムのイメージする魔術師の姿に近かった。
ハキムたちは互いに顔を見合わせて、思い思いの場所に座った。トーヤは刀を腰から外し、長机に立てかける。クィンズは退出せず、部屋の入口に立ったままだった。
そして導師が口を開く。
「エリザベス、ハキム、トーヤ。あなたたちのことは、メサ導師から聞いています。リコ王が残した秘儀書を手に入れたと」
「ええ。守り人たちの協力を得て、なんとか敵方に奪われることなく、持ち帰ることができました」
リズがやや硬い口調で答え、荷物から秘儀書を取り出して机上に置いた。
「命がけで」
ハキムが茶化すつもりで言い添えたが、ベルカ導師はにこりともしなかった。
「なにはともあれ、ご苦労でした。過去の違反は全て水に流しましょう。それを持って、学院に復帰しなさい」
「おい。無視は困るぜ」
ハキムがあえて尊大な態度で口を挟むと、導師は不快そうに眉をひそめた。
「今言っただろ。命がけで手に入れたって。リズと、俺と、このトーヤとでだ。だから秘儀書は俺たちのものでもある。分かるか? その辺をなあなあにして持ってくつもりなら、こっちにも考えがあるぜ」
にわかに場が緊張の度合いを強めた。導師とクィンズの気配が不穏に膨らむが、今更その程度で憶するハキムではない。
「あなたは秘儀書がどれほど重要なものか、理解しているのですか?」
「してるさ。重要なものだからこそ、リコ王の子孫たちは、竜の守り人としてそれを千年間守り続けた。オヴェリウスの禍が再び訪れた時のために」
ハキムたちはレザリアでの探索行をメサ導師に話したが、目の前の老婆はそれも知っているのだろうか。知ってなおこの態度だというのならば、よほど自分たちの力を恃んでいるのか、単純に戦略眼を欠いているのか。
「それに、あんまり功を焦り過ぎると、あの若々しい賢者さまに怒られるんじゃないか」
メサ導師の存在をほのめかすと、ベルカ導師の表情が変わった。それはハキムが予想した通りの反応だった。たとえ両者の仲が悪くなくとも、組織の幹部として、同格の相手に気を遣うのは当然のことだ。
「……なにが望みです?」
ベルカ導師が言った。
「冒険を終わらせられるだけのカネ。そうだな……、金貨一万枚ももらえれば十分だ」
ハキムは言いながら、また導師の顔色を窺った。伝統派の財力はどれぐらいか、交渉に応じるつもりはあるのか。秘儀書を復活派に引き渡すぞと脅してもいいが、メサ導師を敵に回す事態は避けたい。
導師の眉間に刻まれた皺の影が濃くなった。金貨が足りないということはないが、簡単に払える額ではなさそうだ。五千枚ぐらいなら手を打ってくれるかもしれない。
「今すぐには答えかねます」
「まあ、そうだろうな。こっちだって、交渉がまとまるまで待たせるほど意地悪じゃない。前金で金貨五十枚。解読作業にはリズを同席させる。それならどうだ?」
しばらくは、蝋燭の火だけが揺らめいていた。導師は一度クィンズに目をやり、またハキムに戻して答えた。
「いいでしょう」
「さすが導師様」
しかしハキムは導師の瞳に、わずかな不信の色を見た。しかし扱う品が扱う品だ。お互い、慎重になるのは致し方なしか。
「感謝します。ハキム。これはオヴェリウスに対する大きな力となるはずです」
導師は穏やかに言った。彼女はリズに金貨を持たせて帰ると約束した。
ハキムは小さく息を吐き、椅子の上で尻を滑らせた。ひとまず、交渉は無事に済んだが、予想通り、秘儀書を引き渡してはい終わり、というわけにはいかないようだ。
その日の話はそれで終わった。結局、ハキムたち退出する最後の瞬間まで、部屋の緊張が弛むことはなかった。