第三十話 逃れえぬ渦 -4-
ハキムは尻もちをつき、四肢を広げて仰向けになった。傍らにはオヴェリウスの死体がある。ぼんやりと真上に目を遣ると、幾億の星や光の雲が、天球の外側をゆっくりと巡り続けている。
それはきっと、この世界が滅びたあとも同じように巡るだろう。だとすれば、自分のしたことに果たして意味はあるのだろうか。
「ハキム!」
エシカが近づいてくるのが分かった。先程掴まれた喉が酷く痛む。ハキムはもう一度大きく咳き込んでから、跪いた彼女に、トーヤの怪我を診てくれるよう頼んだ。疲労は激しいが、深手はない。仲間のおかげだ。ありがたい。
オヴェリウスの死体が、青白い光に分解されていく。それは半透明の帯となって垂直に昇り天球に吸い込まれた。彼もまた渦の一部になったのだろうか。あるいは完全に消滅したのか。
真上でパリン、という音がした。見れば天球に大きなヒビが入っていた。ヒビは枝分かれしながら全体に広がり、偽りの天球を崩壊させていった。剥がれた破片が重力に従って落ちてきたが、それらは地面に達することなく、空中で煙のように消えた。
差し込んできた強い光に、ハキムは目を細めた。外は昼になっているようだ。
やがて天球が完全に消え去った。オヴェリウスと戦う前に比べると、辺りはすっかり静かになっている。河畔に吹く暖かい風が、焦げた臭いを運んできていた。しかし周囲の地面はもはや燃えていなかった。どこかで戦死者を焼いているのかもしれない。
勝ったのか負けたのかは分からないが、少なくとも戦は終わったようだ。ならば、まだ寝ていてもいいだろう。オヴェリウスは倒したのだ。あとはどうとでもなる。
気持ちが落ち着いてきたので、ハキムは目を閉じた。もう少ししたら動いて、リズとトーヤを助けよう。
「やっぱりだ。本当に生きてやがった!」
そのとき、遠くから声が聞こえた。クーパーのものであるような気がした。
「誰か来てくれ! 怪我人だ!」
少しして、見覚えのある髭面がハキムを覗き込んだ。首筋には生々しい火傷痕がある。雷の魔術によるものだろう。
「オヴェリウスを倒した」
ハキムが咳き込みながら言うと、クーパーはふっと頬を緩めた。
「レザリアの時だって、俺は信じてたぜ」
「嘘つけ」
「俺なんかより、お偉いさんを納得させられるかどうか心配しろ」
それは問題ないと言いかけて、ハキムは地面に転がっていたはずの玻璃球の存在を思い出した。身体をひねってうつ伏せになり、地面を舐めるように見ていくと、へたりこんでいるリズの近くに、粉々に割れたガラスの破片が一掴み分落ちていた。
薄々そんな予感はしていたが、利用価値はありそうだっただけに、失われたのが惜しまれる。しかしもっと大きなものを失ったかもしれないと考えると、さほど悔やむ気持ちは起きなかった。
「どうした?」
クーパーが怪訝な顔で尋ねた。
「いや、大したことじゃない。気にするな」
それからハキムたちは最低限の応急手当を受け、荷車に載せられ、渡し舟に乗ってハートラッドへ戻ることになった。
リズは顔面蒼白で消耗しきっていたが、大きな怪我はなし。エシカも顔に痣ができただけだった。一番重傷だったのがトーヤで、剣による切り傷が三つ。殴られた勢いで首を痛めて、顔の左半分に酷い内出血。とはいえ、命に別状はなさそうだった。
「あのあとどうなった?」
カルネイルを渡る船の上で、ハキムはクーパーに尋ねた。驚いたことに、戦いが終わってから四日が経っていた。天球の内と外で、時間の流れが違ったのだろうか。
クーパーによると、オヴェリウスは突然戦場から姿を消したように見えたという。扱っていた魔術も効果を失い、河畔での戦いは徐々にハートラッド軍優位に進んでいった。土砂で作られた橋の敵は流水の鞭で一層され、防壁からはそれまで守勢に回っていた味方が打って出た。
指揮官を失った軍は大いに動揺し、最終的に戦列は崩壊していった。一部は降伏して捕虜となり、残りは撤退した。今は到着した援軍や、ポート内で再編成された軍による追撃戦が行われているだろう、とのことだった。
「俺も雷で気絶してたんだが」
クーパーは首筋の火傷をさすった。
「目が覚めたときにはうっかり囲まれそうになったからよ。河辺まで逃げて、なんとか命を拾った」
「お仲間は?」
「二人死んだ。でも、はじめから覚悟のことだったんだ。傭兵だし、戦場で死ぬのは仕方がない。それに、三百人いたうち戻ってきたのは五十人以下だったってんだから、四人生き残っただけでも上等だ」
「そうか」
奇襲部隊の被害は大きかったが、全軍で見れば死傷は一割以下だったというから、戦としてはまずまずの勝利と言えるだろう。
ハキムは河の中ほどから戦場となった場所を眺めた。ハートラッド側は思ったより被害が少なそうだった。土砂でできた橋は崩壊していたが、その残骸が両岸に残っていた。
ティンザー砦の周辺では、リズが引き起こした破壊のあとが見て取れた。所々から煙が上がっている。敵味方の死体を焼き、埋葬しているのだ。警備をしていると思しき兵もいた。
「戦争ってのは終わってからが大変なんだ」
クーパーが言った。
「けど、そういうのはお偉いさんが考えることだ。俺は生き残った。お前たちも生き残った。お疲れさん」
「……そうだな」
クーパーの硬い手で背中を叩かれながら、ハキムはぼんやりとした口調で答えた。
◇
それから半月ほどが経った。ハートラッドから撤退した勢力に対する追撃は続いている。カラマス西方の戦線でも、ポート公国軍が勝利を収めたようだ。オヴェリウスが率いていたキエス軍は敗走し、離散し、あるいは元々の領内に押し込められつつある。
「本当によいのですか、ハキム」
ハートラッド領主城館の一室で、ハキム、リズ、トーヤ、そしてエシカの四人は、数日ぶりに顔を合わせていた。
「ああ。身の丈に合わん待遇を受けても、あとが大変だからな」
奇襲部隊、もとい決死隊の面々は、この戦において英雄となった。ハートラッドのみならず、グランゾール西部全域をオヴェリウスの魔手から救った存在として、これ以上ないほどの名誉を得たのだ。
結局、オヴェリウスの死体は見つからなかった。しかし少なくとも、公式には死んだことになった。ハキムもおそらくそうだろう、と考えていた。
そこで話題として持ち上がるのは、誰が直接にオヴェリウスを討ったのか、ということだ。結果として、リズ、トーヤ、エシカの三人がその栄光に浴することになった。
筋書きはこうだ。亡国の姫が父王の仇を取るため、東方から流浪してきた凄腕の剣士、ハートラッドに秘術をもたらした炎の魔術師を従えて、決死隊に加わった。傷つきながらも敵陣の奥深くでオヴェリウスに挑み、見事に復讐を果たした。
あまりに出来過ぎた結果の真偽を問う者もいたが、九割方は事実であり、いくつか信憑性のある証言とも合致したので、口さがない人間もそのうち静かになった。
ハキムはというと、はじめからその復讐譚には参加していない、とすることに決めた。
もちろん、意図的に存在を消したのだ。有名になっても盗賊業には不利益しかない。もし盗賊を廃業して英雄の利権で生きていくとしても、過去の経歴が必ず足を引っ張る。
自分だけが引きずり落とされるならまだしも、仲間にまで迷惑がかかる可能性を考えると、いくら名誉に浴する機会があったとしても、辞退するのが得策だろうという判断だった。
とはいえ、それは謝礼も辞退するということを意味しない。
「分かりました。無理にとは言えませんから」
少し寂しげに呟いたあと、エシカはそれ以上食い下がることをしなかった。キエスの混乱はしばらく続きそうだが、彼女はこれから王族として生きるのだ。盗賊と付き合っていいことなど一つもないない。往来で会ったら挨拶ぐらいはしようと思うが、多分そんな機会はないだろう。
「リズは、結局学院に戻るのか」
彼女には数日前、メサ導師から書簡が届いていた。導師はカラマスでの戦いを生き延び、西方で学院の残党と合流していたのだ。その書簡には、混乱したキエスの学院を立て直すために力を貸してほしい、と記されていた。
元々禁忌を冒して学院を追われ、その後も血塗られた闘争を目にしたリズは、結論を出すのにかなり悩んだようだ。戦いが終わった直後は遠い目をして、ゼントヴェイロで薬問屋を開きたい、などと口走っていた。しかし最終的には、学院に戻る決断をしたようだ。
「うん。近くに来たら遊びにおいで。導師も喜ぶと思うから」
「そんときゃ宝物庫の鍵を貸してもらおう」
「石になる罠とかあるけど、それでもよければどうぞ」
恐ろしいことだ。盗賊の墓場と言われるだけのことはある。
「言っておくけど、王城の宝物庫も出入り禁止だよ」
そのやりとりに、トーヤが笑いながら口を挟んだ。彼はまさにオヴェリウス討伐の英雄となった。与えられたのはエシカの近習、つまり身辺を護衛する騎士の位だ。
「知り合いの家からは盗まねえよ」
トーヤは長く守るべき存在を見つけた。ハキムにはそれが大層良いことのように思えた。彼はこれから一つのところに腰を落ち着けて、その誠実さに見合った、真っ当な生活を送るだろう。色々なことが片付いたら、両親を呼び寄せるつもりのようだ。
「ハキム、リズ、エシカ。僕は君たちと旅ができてよかった。辛いことも多かったけど、なんとか、いい終わりを見つけられたんじゃないかと思う」
「大冒険って感じだったよね」
「割に合わなさすぎる。俺は二度とゴメンだ」
ハキムは冗談めかして言った。もちろん気のいい仲間たちと別れるのは寂しいし、辛い。しかしハキムの人生に別れはつきものなのだ。それに、別れるべきときに別れそびれると、往々にしてあまりいい結果に終わらない。
「ハキムはこれからどうするつもり?」
「決まってる。今回はあまりに実入りが少なかったからな」
リズの質問に、ハキムは片手の指をこすりあわせながら答える。
「またキラキラしたものを探しに行くよ」