第三話 森の人狼 -3-
「どうだい、ハキム」
「とりあえずは大丈夫そうだ」
ハキムは偶然見つけた小さな洞窟の入口から外を窺い、先程の人狼やアンデッドがいないかどうか確かめた。激しい雨は逃走に有利だったが、この場所に辿り着くまで、ハキムたちは嫌というほど濡れ、大いに身体を冷やす羽目になった。
奥行き二十歩に満たない洞窟の中。全員ほとんど下着だけの姿になって、濡れた木切れをリズの魔術で燃やし、小さな火を焚いて服や身体を乾かした。遠くから火が見つかってしまう危険はあったが、暗い洞窟の中、震えながら体力を消耗していくよりはましだろう。
既に日暮れを過ぎていた。雨はまだ止みそうにない。
「オヴェリウスの手がカラマスの近くまで伸びてた、ってことか」
ハキムはパチパチと爆ぜる小さな火で手を炙りながら言った。夏とはいえ冷涼なポートの地。野営用の毛布を回収できなかったのが悔やまれる。
「間違いないでしょうね。それから、あの人狼みたいなのはアンデッドじゃない。そういう魔術なんだと思う」
リズは白い脚についた泥を丹念に拭っている。
「魔術? 変身したってことか」
あぐらをかいたトーヤが聞き返した。その身体には今までの冒険でついた、比較的新しい傷跡があった。改めて、彼が戦士であることを意識する。今も抜き身の長刀と、辛うじて回収できた弓矢を傍らに置き、いつ襲われても対処できるような用意をしていた。
「うん。学院の、多分若手の魔術師なんじゃないかな。アンデッドにも一応知能らしきものはあるけど、アンデッドだけで見つからずに敵国深くに侵入して、待ち伏せするのは無理だと思う。それを操る術師が必要になる」
ハキムたちが秘儀書を持ってネウェルの麓まで逃げたということ、カラマスに伝統派の魔術師がいるということが分かれば、移動経路を予測するのは難しくない。
しかし実際に潜入する要員を送り、待ち伏せを実行する手間もまた小さくはない。それを敢えておこなうだけの価値が、秘儀書にはあるということだ。
「やっぱ狙いは秘儀書か。で、具体的になにが書いてあったんだ?」
先程のどさくさでも、秘儀書と玻璃球はしっかり回収してあった。敵の狙いが秘儀書ならば、あの人狼とはまた対決することになるだろう。
ハキムの問いに対しては、リズが浮かない顔で答える。
「どういうようなことが書いてあるかは把握できた。でも具体的な部分の理解は、今一つできなかった。私の頭が悪いんじゃなくて、古代の魔術理論を理解してる前提で書かれてるから。メサ導師ならもっと読めたかもしれないけど……」
「カラマスにいる伝統派の魔術師たちなら、解読できるかな?」
「……多分」
どの道、ここから一番近い都市はカラマスだ。そこを目指すというのは変わらない。距離は馬車で一日。徒歩なら二日。襲撃を警戒するならば、道のある場所を行くわけにはいかない。野営の道具や食料はすべて逸失している。
少々面倒な行程になりそうだが、ここ一、二か月の旅路に比べればそれほど厳しいものではない。最も大きな懸念は、例の人狼に変化する魔術師か。
奴は必ず追ってくる。ならば、なるべく有利な状況で迎え撃ちたい。
「トーヤ。木の枝をもっと集めよう」
ハキムは言った。
「寒いのかい」
「いや。案山子を作る」
◇
四半刻かけて準備を整えたあと、ハキムは洞窟から少し離れた茂みの中で雨に濡れていた。亡霊の指輪で姿を消し、手にはトーヤから借りた長刀を握っている。
トーヤも遠くない場所で隠れているはずだった。彼は弓で武装して、ハキムと同様、襲ってくるはずの人狼を待っている。
リズは洞窟の中にいて、秘儀書と玻璃球を守っている。あえて遠くからでも分かるよう、火は大きくした。組み立てた木の枝を組み合わせてそこに衣服をかけ、一見、洞窟の中に三人ともいるように見せている。
寒い。強い雨を防ぐのに、針葉樹の葉は細すぎた。今のハキムは、水の中にいるのとそう変わらない状態だった。
早く来い。早く来い。苛々しながらそう念じていると、洞窟から三十歩ほど離れた場所から、のっそりと黒い影が姿を現した。
雨の中でも、血と毛皮の嫌な臭いが漂ってくる。ハキムは相手に気づかれないよう、ゆっくりと茂みから出て、泥の地面を忍び足で進んだ。天から降る大量の雨粒が頭に当たっては身体を伝い、地面に落ちる。
キエスからわざわざ自分たちを追ってくるなんて、ご苦労なことだ。オヴェリウスに対する妄信か、組織への忠誠がなせる業か、あるいは単純に、力ある者に逆らえないという、哀しい立場ゆえなのか。
ハキムが近づいていくと気配を感じたのか、人狼が背後に目をやる。ハキムは思わず動きを止めるが、幸い感づかれてはいないようだ。本物の獣より感覚は鈍いらしい。人狼が洞窟の方に向き直った瞬間、ハキムは素早い踏み込みから、敵の膝裏を狙って重い刀身を叩きつけた。
ギャッ、と叫び声が上がる。次いで別の茂みから放たれた矢が、風切り音とともに人狼の首に突き刺さった。痛みと混乱で滅茶苦茶に振り回された太い腕を掻い潜り、ハキムは人狼の胸に刀を突き刺す。鋭い刃は肋骨をすり抜けて内蔵を突き破り、相手に致命傷を与えた。
巨躯がぐらりと揺らいで膝をつき、ハキムに倒れかかる。押しつぶされないよう横に避けると、その身体は刀を支えにした奇妙な姿勢のまま力を失い、動きを止めた。
ハキムは大きく息を吐き、毛むくじゃらの身体を蹴倒す。刀に手をかけて引き抜くと、人狼は酷い臭いのする紫色の煙を上げて、人間の身体に戻った。焦げ茶のローブを着た醜い小男。リズの言う通り、人間が魔術で変身していたのだ。
ハキムは亡霊の指輪を外し、ポケットにしまう。顔を上げると、リズが洞窟の入口で手を振っていた。
「疲れたな……」
ハキムは再び死体を一瞥すると、冷えた身体をさすりながら、火にあたるべく洞窟に戻った。
その後、激しかった雨は夜半までに上がり、やがて空には星が輝き始めた。ハキムたちはアンデッドの残党を警戒しながらも、身を寄せ合って洞窟で夜を明かした。
◇
翌朝、木々の間からは白い陽光が差し込み、葉擦れと鳥の声が晴天の到来を告げていた。ハキムたちは冷えて強張った身体をほぐし、火の始末をしてから洞窟を出た。
泥濘を転げまわったせいで汚れた衣服を身に着け、念のために武器を確認し、まだぐちゃぐちゃと柔らかい地面を踏みながら、記憶を頼りに馬車のある場所まで戻る。
道に馬車を見つけて近寄れば、その周りには兵たちの死体があった。アンデッドの武器に貫かれた者もいれば、人狼の爪牙に引き裂かれたり、その膂力で叩き潰されたりした者もいた。ハキムたちが近づくと、死肉を啄んでいたカラスが、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら飛び立っていった。
騎兵の馬は全てが逃げ、馬車を引いていた二頭は殺されていた。昨晩の豪雨で人馬の血はほとんど洗い流されていた。そのせいで、切り裂かれた身体の脂肪や筋肉や臓物が、やけにはっきりと見えた。
ハキムたちは護衛に対するせめてもの礼として、彼らの姿勢を整え、装備とともに道の脇に並べておいた。死体が動物に喰われるのは避けられないだろうが、深い穴を掘って埋めてやるほどの余裕はない。
馬車は破壊されて走行不能。ハキムたちの持ち物もかなり荒らされ、周囲に散乱してずぶ濡れになっていた。しかし調べてみれば使用可能なものが随分あり、食料も多少は無事だった。ひとまず、カラマスへ辿り着くのにそれほど苦労はなさそうだ。
「今日中には、森を抜けられるといいね」
リズが言った。
さすがにこれ以上、魔術師やアンデッドの襲撃はないだろうが、野盗や獣の危険を考えれば、開けた街道沿いで野営したいところだ。
ハキムたちはまとめた荷物を背負い、再びカラマスを目指して歩き出した。