第二十九話 逃れえぬ渦 -3-
たとえ相手が一介の剣士だったとしても、リズが極度の消耗にある状況下で、十分に対抗しうるのはトーヤしかいなかった。彼はこれまでの旅で片時も手放すことのなかった長刀を構え、ゆっくりと進み出た。
「ハキム。リズとエシカを頼む」
「分かった」
あの様子からすると、一直線にリズを襲って来ることはないだろう。エシカを見つけて亡霊の指輪を回収し、再び背後を狙うしかない。ハキムが正面から挑みかかっていったところで、ばっさり両断されるのがおちだ。
トーヤの小さな呟きが聞こえた。彼はアヤメの名を、死んだ妹の名を呼び、自身と仲間を護ってくれるよう願いをかけているようだった。
ハキムは天球の内壁に、物質を遮る見えない力場に沿って空間を進む。無限の彼方から投射されているかのような光は、刻一刻とその位置を変えていった。
両者の睨み合いは長く続かなかった。二人とも既に、命を惜しんで間合いを測るような境地にはいなかった。ハキムの視界の端で、剣と刀とが激しくぶつかり合うのが見えた。その音は空間内で反響することなく、闇の中に吸い込まれて消えた。
エシカはどこにいる? ハキムは星明りに反射する鈍い光を探した。斬り結びの場をぐるりと迂回するように、側面へと移動する。
胸への刺突、首への横薙ぎ、大腿部への斬り下ろし、両者とも軽装であり、一撃でもまともに喰らえば、それが即ち致命傷となる。躱し、防御し、辛うじて皮一枚に抑えながらの激しいやりとりが、一呼吸の間に何度も何度も繰り返されていた。
普通の人間なら、不意を突かれて刺された時点でほとんど動けなくなるものだ。手傷を負ってなおトーヤと互角に戦うオヴェリウスは、やはり剣士としてのみの実力においても卓出している。
いや、互角ではない。早くもオヴェリウス側に形勢が傾きはじめていた。技量と速度はトーヤも遜色ないように思えるが、いかんせん体格と膂力の違いが顕著だ。
「エシカ。おいエシカ。どこにいる」
焦るハキムがさらに進んだとき、不意に柔らかいなにかを蹴飛ばした。
「うっ……」
いた。動揺していたからか、気絶していたのか、自分が透明になっていることを忘れたまま、その場にうずくまっていたのだ。
「よし、よし。大丈夫だ。落ち着いて、指輪を外せ」
空中で指輪が動き、エシカの姿が露わになる。その白い顔には痣ができていたが、その程度だ。彼女はトーヤに釘付けとなりながら、ハキムに指輪を手渡した。
「よくやった。あっちに行って、リズを守ってくれ。できるな?」
こちらからは腰に挿していた短剣を渡し、片手で肩を揺さぶる。ハキムが叱咤すると、エシカは小さく頷いた。
これでよし。ハキムは中指を指輪に挿し込み、姿を消す。しかしその瞬間、オヴェリウスがこちらをちらりと見た。
剣の攻防にばかり気を取られず、奇襲にも十分注意を払っている。剣士も狩人も盗賊も、一流と言われる人間は気配に敏感だ。どうせ見えないだろうと迂闊に近づけば、あっさりと返り討ちに遭うだろう。
だが、このままだと遅かれ早かれトーヤが敗ける。そうなれば残る三人で勝てる見込みはほとんどない。
ハキムは低い姿勢でオヴェリウスとの間合いを詰める。意図的かどうかは分からないが、二人はまるで踊っているように互いの位置を変えていた。投擲での援護には誤射の危険がある。至近まで迫ってから格闘戦に持ち込むしかない。
互いに振り抜いた武器が衝突し、ギン、と激しい音を立てた。次の瞬間、ハキムのすぐ横をなにかが回転しながら飛んでいった。
まずい。トーヤの武器が折れたのだ。ハキムは躊躇いを捨て、強く地面を蹴った。
しかしトーヤはまだ勝負を捨てていなかった。彼は折れた刀の柄を素早く手放すと、オヴェリウスの懐へと飛び込んだ。武器を持っている腕に跳びつき、肩に脚を絡ませるようにして関節の自由を奪った。
普通なら勢いで倒されるか、そのまま腕を折られてしまうことだろう。しかしオヴェリウスの身体は耐えた。それどころか、そのまま剣ごと腕を掲げトーヤの身体を地面に叩きつけたのだ。恐るべき筋力と、苦痛を物ともしない意志の力だった。
トーヤが思わず腕を離す。再び掲げられた長剣の切先は、彼の無防備な身体に向けられた。
「トーヤ!」
ハキムは叫んだ。姿を隠した意味がなくなると分かってもなお、叫ばずにはいられなかった。十歩の距離がこんなにも遠い。
そして無情にも刃は振り下ろされた。トーヤの身体がびくりと跳ねる。
「ハキム、折れ!」
彼は死んでいなかった。仰向けになったまま身体をひねって致命傷を避け、地面に突き刺された長剣の刃を抱え込んでいた。オヴェリウスの攻撃は、わずかに狙いを外していたのだ。腕に受けた技のダメージか、それともハキムの声によってかは分からないが、ともかく好機だ。
ハキムは不壊の短剣を構えながら最後の一歩を踏み切り、長剣の腹に短剣の切先を打ちつけた。
この長剣がどれだけの戦いをくぐってきたのかは知らないが、トーヤと打ち合って、トーヤの刀と打ち合って、まったくの無事であるはずがない。その目に見えない微細な損傷が、ハキムの一撃によって大きく広がった。
長剣が根本から折れる。
すかさず、トーヤが地面に突き刺さっていた刀身を引き抜き、半ばから失われたそれを、オヴェリウスの脛あたりに叩きつけた。
ごりっ、と嫌な音が響く。
「ぐっ」
オヴェリウスが苦痛に顔をしかめた。打たれた方の脚は身体を支えられなくなり、膝が折れて地面につく。不安定な姿勢からの一撃ながら、それは確かに有効な損傷を与えた。
だが、そこで終わりではなかった。オヴェリウスは折れた長剣の柄を離し、右拳を固めてトーヤの顔面を殴りつけたのだ。肉を叩く重い音がした。
まともに喰らった。トーヤは多分立ち上がれないだろう。しかし、ハキムはそれを見ていなかった。前のめりで首筋を晒したオヴェリウスに対して、致命の一撃を喰らわせてやるつもりだった。
逆手に持った不壊の短剣を、その首目がけて力の限り振り下ろす。
だが、それは太い上腕で防御された。その奥で、いまだ闘志に満ちた月光色の瞳がハキムを見据えた。
なぜ見えている? ここにきてはじめて、ハキムは自らの吐く息が白く煙っていることに気がついた。この空間の、ごく低い温度が仇になったのだ。そうでなくとも、ハキムは透明の身体が優位を失うほど、相手に近づきすぎていた。
ハキムが突き刺した鈍い刃は、その半ばまで埋まっていた。それは万力のような筋肉に挟まれ、引き抜くことができなかった。
オヴェリウスは素早く身を翻し、反対の手でハキムの首を掴んだ。喉と血管が潰れ、意識が急激に遠のく。骨がみしみしと音を立てているのが聞こえた。その手首を必死に掴んでみるが、どうあがいても外れそうにない。
苦しい。
白く霞んでいく視界の中、ハキムはオヴェリウスの顔半分に赤い水ぶくれができ、その眼球が濁るのを見た。肉の焼ける臭いが広がる。
オヴェリウスが再び苦悶の声を上げ、首を絞めていた手の力が緩んだ。血液と空気が再び供給され、ハキムの肉体に力が戻る。辛うじて拘束を脱することができた。
死闘を繰り広げている間に、リズの体力がほんの少しだけ回復したのだ。絞り出された魔術は、人ひとりを焼き尽くすのに足りなかったが、おかげでハキムは巻き込まれずに済んだ。
這いつくばって咳き込みたいところを必死にこらえ、ハキムはオヴェリウスに体当たりしていった。その腰に手を回し、刺さったままの短剣を引き抜く。
それはエシカが持っていた護身用のものだった。血塗れではあったが、柄に刻まれた上等な浮彫が滑り止めとなった。
顔を押さえ、二歩よろめき、そこでオヴェリウスは踏み止まった。
これが最後だ。ハキムは地面を蹴って再び肉薄した。
両手で握った短剣を、下から上へ。鋭い刃は肉を切り裂き、肋骨を破断し、柔らかい心臓に突き刺さった。それは命に届く、確かな手応えだった。
短剣の柄を放し、ハキムは猛烈に咳き込んだ。
もしかするとオヴェリウスは、力を失う前にハキムを道連れにできたかもしれない。しかし彼はそうしなかった。両膝をつき、ゆっくりと前に倒れた。それを避けたハキムも、追い討ちを加えることはしなかった。
オヴェリウスの瞳はもはや静かに揺れるのみで、戦いを終えた者特有の安らかさに満ちていた。
「天球の外に至ってなお、渦からは逃れられぬか」
身を横たえたオヴェリウスが、掠れた声で言った。白いローブが見る見る血に染まり、地面に血だまりを作った。その身体から急速に命が漏れ出しているのが分かった。
「ウェルテア……。我は、汝とともに、世界の……」
一度大きく呼吸をしたあと、オヴェリウスは動かなくなった。




