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第二十八話 逃れえぬ渦 -2-

 突如として極大の熱に襲われた敵は、当然のことながら激しく動揺していた。即死した者以外にも多くが致命的な火傷を負ったに違いなく、その悲鳴や苦痛の声が混乱を増幅させていた。もはや統制を維持することは不可能で、騎兵を押し包むどころではなかった。


「やるな、お嬢ちゃん!」


 興奮した傭兵の一人が近くで歓声を上げた。しかしそれに対するリズの反応は鈍かった。彼女はほとんど身体を馬の上に伏せ、落ちないようにするのが精一杯といった様子だった。


 魔術の行使には精神の消耗が伴う。それが広範囲を焼き尽くす強力なものなら、たとえ周到な準備があったとしても支払う対価は大きかったのだ。


 とはいえ、リズにばかり注意を向けるわけにはいかなかった。ハキムが前方に目を戻すと、先程まで立ちふさがっていた大勢の人影も燃え落ち、離れた場所まで見通せる状態になっていた。もはや半径百歩の範囲に、生きている敵も、動いているアンデッドもいない。


 炎の中悠然と立つ、ただ一人の男を除いては。


 彼は異貌だった。遠くからでも見えるのは、浅黒い肌と長い白銀の髪だった。焦げ跡一つない純白のローブを纏い、精緻な彫像のような佇まいでそこに在った。迫りくる百の騎兵にいささかも動じることなく、鷹揚とさえ言える所作でこちらを指さした。


「やばい」


 ハキムがエシカを引きずり降ろすような形で馬を飛び降りるのとほぼ同じタイミングで、オヴェリウスの指先から迸った閃光が味方を襲った。


 光は不規則な軌跡を描いて幾本にも分岐し、人馬に衝突して乾いた轟音を立てた。残ったのは紫の残像と、一撃で倒された複数の騎兵。放たれたのは強力な雷の魔術だった。


「リズ! トーヤ! いるか!」


 ハキムは叫んだ。十歩ほど先で、ローブの人影が地面に倒れている。駆け寄って様子を確かめるが、雷撃を喰らってはいないようだ。身体に力が入らず、着地に失敗して転んだのだろう。


「頭痛い……。辛い……」


 リズが泣きそうな声で弱音を吐く。鼻血を出しているものの、大きな怪我はしていないようだ。ここが戦場のど真ん中でなければしばらく寝かせておくところだが、残念ながらそうもいかない。腕に巻かれていた布は完全に焦げ落ちていた。


 エシカと一緒にリズを助け起こすと、前方からトーヤが戻ってきた。


「このままじゃ、とても近づけない。ハキム、力を使うときなんじゃないか」


「こんだけ頭数がいてもダメなんて情けねえな」


「何千からの兵を突破してきたんだ。最良の戦果だよ」


 しかし先程の雷で、残った戦力がさらに半減してしまった。それもほとんどが馬を失い、中には辛うじて動けるものの、深手を負っている者もいる。


 オヴェリウスまであと数十歩の距離であるにも関わらず、剣の間合いに近づくのは至難だった。果敢に挑みかかっていった者は、次々と雷撃の餌食になっていた。


 しかしこのまま手をこまねいていたところで、事態が良くなる見込みはない。リズの魔術が敵の多くを焼いたとはいえ、キエスの兵はまだ残っているのだ。それらが体勢を立て直し本陣に再集結してきたら、これまでの全てが水泡に帰してしまう。


 決心というものは、何度固めてもいつのまにか緩んでいるものだ。ハキムはもう一度腹を括り直し、懐に入れていた玻璃球を確かめる。それは持ち主の意志に呼応して、不可視の力を漏れ出させているように思えた。


「ウェルテア、いけるか」


『まだ遠い。できるだけ近づけ』


「無茶言いやがる」


 味方は次々倒され、戦闘不能に陥っていく。遠くから矢を放とうとも、透明な力場に阻まれる。やはりあの強烈な魔術を封じなければ、到底勝ち目はなさそうだ。


 行くしかない。ハキムは不壊の短剣を抜き放った。その刃は鈍いが、おそらく雷にも耐えるだろう。短剣と玻璃球の力を恃みに、黒く焦げた地面を蹴る。


 あと三十歩。オヴェリウスの瞳が月光色に輝き、ハキムを真っ直ぐに見つめた。その指先から激しい雷が放たれる。


 直撃、かと思われた瞬間、ハキムの目前で光が拡散した。逸れた雷は、地面に転がった、あるいは突き刺された武器の刃に吸い込まれていった。それは倒れたハートラッドの兵や傭兵たちの意地だった。


 一発は凌いだ。しかしオヴェリウスはまだ遠い。その顔にはわずかな笑みさえ見て取れる。強い光を見過ぎたせいで、眼の奥が酷く痛む。耳もほとんど聞こえない。


 再びの雷撃。それもまた一部は逸れたが、一部はハキムの短剣を襲った。腕が押し潰されるような感覚が襲ってくる。短剣を握っていた手の筋肉が、意思とは無関係に激しく収縮した。


 雷の余波が伝播し、全身に麻痺が広がる。ハキムは思わず膝をついた。ウェルテアに悪態をついてやろうと思ったが、声も出ない。心臓が不規則に胸を叩く。


「ハキム!」

 トーヤかリズが叫んでいる。とどめの一撃はまだ来ない。


 せめて唾でも吐きかけてやるか。ハキムが顔を上げたとき、オヴェリウスの思いがけない姿が目に入った。


 白いローブ。堂々たる体躯。しかしその上に乗る顔は、苦痛と驚きに歪んでいた。


 なにが起こった?


 ローブの腰辺りから、赤い染みが広がっているのが見えた。オヴェリウスが身体をねじり、腕を振ってなにかを殴り倒した。足元で苦悶の声が上がる。


 エシカだ。亡霊の指輪を身に着けたまま、オヴェリウスの背後に回ったのだ。


 今こそ千に一つの好機だった。立ち上がろうとしてよろけたハキムを、トーヤが引っ張るように助け起こした。


 オヴェリウスが腰に帯びていた長剣を抜き放つ。不可視の襲撃者に見当をつけて、一刀のもとに屠ろうとしていた。


 間に合わない。気力を振り絞り、もつれる足を踏み出してさらに近づく。ふらついたハキムの懐から、玻璃球が転がり落ちた。


『入った』


 小さな声が響く。それと同時に、玻璃球から漏れる力が目に見えて増大した。それは今や奔流となって渦を巻き、オヴェリウスとハキムたちを含む一帯を青白い光で満たした。


 キン、と高い音が空間に満ちた。一瞬あと、ハキムはそれが静寂なのだと理解した。戦の喧騒が突然止んだことで、馬鹿になった耳が錯覚を起こしたのだ。


 しかし辺りが急に寒くなったのは、どうやら錯覚ではないようだった。ハキムは先程までいた場所が、急速に変質していくのを感じた。


 少し遅れて、オヴェリウスの叩きつけた剣が地面を抉る。一瞬の戸惑いがエシカを救ったのだ。彼女の姿は見えないが、この空間内にいるのだろうか。


 今やハキムたちはまったくの異世界にいた。渦巻く星々に囲まれた天球の中。それは無限の広がりを持つように思えたが、同時に強烈な圧迫感をも与えていた。


 それはかつてレザリアで見た、宮殿の最上部とほとんど同じだった。黄金の天象儀が鎮座していた、人工の天球。この場所がそれの模倣なのか、あの場所こそがこの空間の模倣なのかは分からない。


 そんなことより、オヴェリウスの魔術を封じることはできたのだろうか。少なくとも、それによって大きく動揺したようには見えなかった。しかし彼が剣を持つ手に力を込めたのは分かった。


 十歩の距離でお互いに向かい合う。ハキムがそれ以上近づけなかったのは、オヴェリウスの立ち居振る舞いが、熟練の域を遥かに上回る剣士であることを感じさせたからだ。


「かつての覇道の上にも、殺すに惜しい相手はいた」


 巡り巡る星々の下。手傷の苦痛を感じさせない落ち着いた態度でオヴェリウスは言った。それは以前レザリア内部で響いていたものより輪郭の確かな、澄んだ声色だった。聞く者の魂に直接染み入るような強さと鋭さがあった。


「だがそういう者に限って、実に厄介な障害であった。久しいな、探索者たちよ。勇敢なる運び手よ」


 そう言ってから、彼は首を巡らせて天球を眺める。


「ウェルテア。二度と再び逢うことはないと思っていたが。これも巡りあわせか」


 ウェルテアは応えない。真っ黒な地面に転がったままの玻璃球は、わずかな光を放っているだけだ。ハキムには、言葉によらないなにがしかの交信がおこなわれているように感じられたが、内容は知るべくもないし、特段知るべきだとも思わなかった。


「ここは外界から隔絶されてるみたい。だから多分、邪魔は入らない……。けど、どう? 倒せそう?」


 その隙を見計らってか、リズが背後で囁く。


「俺に聞くな。鼻血を拭け」


 敵の増援を心配しなくていいのならば、勝負を急ぐ必要もない。しかし増援が期待できないのはこちらも同じことだ。外の味方が全滅してしまったのなら、どちらにせよ関係のない話だが。


 ハキムは改めてオヴェリウスを観察した。その腰には短剣が突き刺されたままだ。傷はあるが、もはや油断はない。もしエシカの手に武器が残っていたとしても、もう一撃を期待するのは酷だろう。


「汝らは、世界が混沌にあることを望むか?」


 オヴェリウスが目線を前方に戻し、今度はこちらに語り掛けてきた。


「混沌? お前が滅茶苦茶にしといてなに言ってんだ。いいか、世界の命運がメインじゃねえんだ。俺たちとお前の因縁なんだよ」


 相手は笑った。その顔にある冷たい威厳が、ほんの少し緩んだ。


「ならば、大仰な問答は不要だな」


 星の光を反射して、長剣の刃が白く煌めいた。薄く幅広の、明らかに名匠の手で鍛えられた特別製だった。


 それを右手に持ち、切先を下げたまま、ゆらりとオヴェリウスが進み出る。構えてはいない。いや、むしろそれこそが彼の構えなのかもしれない。剣の技というものがおこる以前の、単純にして無骨な形態スタイル


「戦士オヴェリウスとして相手をしてやろう。来るがいい」

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