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第二十一話 熱砂舞う地で -2-

 盗人横丁を走り抜け、角を曲がり、階段を駆け上り、また通りに飛び降りる。直線ならば距離を詰められるが、相手は土地勘を生かして縦横無尽に逃げ回る。小柄な体躯を器用に操って、伸ばされたハキムの腕を何度か掻い潜りもした。


 やがて子供は軽やかに壁を跳び越え、思わず立ち止まったハキムはその姿を見失ってしまった。クソが、と改めて毒づき、膝に手をついて息を整えてから、額から噴き出す汗を拭う。


「やられたな、若いの」


 背後からの忍び笑いが聞こえた。振り返って見ると、そこにはぼろ家の戸口にだらしなく座り込む、白髪の老人がいた。その肌は日に焼け、身体は痩せこけて骨と皮ばかりになっている。顔に刻まれた深い皺は、彼が人生で味わってきた辛苦を現しているように思えた。


「アンタ……」


 ハキムはこの老人に見覚えがあった。それどころか、彼はハキムの半生において重要な役割を果たす人物だった。


 ハキムという名は、元々この老人のものなのだ。彼が死んで以降、ハキムはその名を貰い受けた形になる。許可は取ったような気もするし、取っていなかったような気もする。


「外から来なさったんだろう。慣れない人間が、こんなところでなにをしている?」


 老人は低いしゃがれ声で言った。質問は純粋な関心から来るものらしく、警戒の響きはない。


「探し物をしてる」

「どんなものを」

「それが分からん」


 ひっひっひ、と老人は心底おかしそうに笑った。


「分からんものは探しようがあるまい。それはそうとあんた、酒を持ってないかね」

「いや。というかカネも持ってない」


「おう、文無しかい。それじゃあ寝床にも困るだろう。さっきのチビがしたことの詫びってわけじゃないが、このあばら家でよければ泊っていけ」


「さっきのクソガキは身内か?」

「そんなもんだ。そういやあんた、顔が似てるよ」


「……気のせいだろ。よくある顔だ」


「ひっひっひ。さあ日が暮れるぞ。なにも持っとらんとはいえ、野宿で身ぐるみ剥がれてもつまらんだろう」


 気がつけば空は薄暗くなっていた。先程まで太陽は高い位置にあったはずだが、ここでは空間どころか時間もおかしくなっているようだ。ハキムは老人の言葉に甘えることにして、廃墟同然のぼろ屋に上がり込んだ。


 その家、というより狭い部屋は、外見同様汚らしく荒んでいた。壁の一部が崩れて隙間風が吹き、酒の空き瓶と正体不明のゴミが床に散乱している。老人はその一角をごそごそと探り、ひびの入った木の杯と、中身が半分ほど入った酒瓶を取り出した。


「まあ、飲め」


 老人が杯に酒を注ぎ、ハキムに差し出す。その手が震え、いくらかの酒が床にこぼれた。


 ハキムは杯に口をつける。元々は果実酒だったのだろうが、今は半分以上酢のようになっていて、とても飲めたものではなかった。


「どの町から来なさった。外が長かったようだが」


「こないだまではポートにいた」

 杯を床に置き、ハキムは答えた。


「ポート公国か。知っている。知っているとも。寒い場所だ。ここよりずっと寒い。儂は商人をやっていたからな。遠い昔の話になる」


 老人は寒い場所で熱い茶でも飲むように、酒杯を両手で包んでゆっくりとすすった。あるいは手の震えで零してしまわないように、というだけのことかもしれない。


 ハキムは老人の来歴をよく知っていた。かつてはいくつもの地域を股にかけて交易商をしていたこと。ラウラの人間として、あるいは商人としては親切過ぎて、商売仲間に裏切られて全てを失ってしまったこと。


 最終的にはこの町のスラムに落ち着き、酒浸りになりながらもある少年の面倒をよく見ていたこと。最期はどこかから侵入してきたよそ者の手にかかり、あっけなく死んだこと。


 彼が言うチビとは、すなわちハキム自身のことだ。自分に自分の持ち物を盗まれるとは、なんというか非常に間が抜けている。


「どういう旅をしてきたのかね、若いの」

 しばらくの沈黙を挟んで、老人が尋ねた。


 ハキムはどこから話そうかと少し考えたあと、アルムでの探索行からはじめることにした。黄金の出る地底の廃都に潜ってから、肥沃なグランゾール、霧降るネウェル、戦の迫るポートを経由し、国境の町ハートラッドへと辿り着くまでの旅路。


 語り終えるまでの長い間、老人はごろりと横になり、乾いた咳をする以外、一言も発することはなかった。


 普通なら当然生じてくる疑問、たとえば蘇った皇帝などという話の荒唐無稽さや、二人が生きている時代とのズレや、ハキムがハートラッドからいきなりここに来た理由などについても、老人は一切口にしなかった。


「いつまでも続けられるもんじゃあないな」

 最後に、老人はぽつりと感想を漏らした。


「まあな」

「それで、旅を終わらせられるなにかを探しに、ここへ来たというところか」


 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。オヴェリウスを滅ぼすことができれば、追手から逃げ回る必要もなくなるのだから。


「なんか心当たりあるか?」


 長い沈黙。


「おいジイさん」


 顔を覗き込んでみると、老人は目を閉じて安らかな寝息を立てていた。しかし起きていたとしても、きっと明快な答えは帰ってこなかっただろう。ハキムは近くにあるボロ布を丸め、それを枕にして身を横たえた。



 歪んだ町にも朝は訪れる。隙間風の冷たさと、わずかに差し込む光で時間帯が知れた。現実世界ではどれくらい時間が流れているのだろうか。ハキムは寝起きの顔をこすりながら、ぼんやりとそんなことを考える。


 夜の寒さはさすがに応えたが、空腹と渇きはそれほど酷くない。今日ぐらいなら、まだ行動に支障はなさそうだ。


「チビが一度くらい寄ると思ったがなあ」

 老人は寝転がったままおっくうそうに呟いた。


「あんた、チビを探すなら〝教会〟に行ってみるといい。そこにいるかもしれん。場所は――」

「大丈夫だ。なんとなく分かる」


 教会。この町においては、スラムの住人が多く立ち寄る拠点のようなものの名前だった。シスターと呼ばれる若い女が一人で切り盛りしていて、ときおり炊き出しをしたり、子供に読み書きを教えたりしていた。


 彼女は聖職者でなく、もちろんその場所も本当の教会ではない。単にそう呼ばれているだけだが、ある種の住人にとっては、確かに精神的な拠り所になっていた。わざわざ手に入れた食料や財産の一部を寄進する人間がいるくらいだ。


 子供のころのハキムもまた、たびたびそこに立ち寄ることがあった。別段、信徒という意識はなかったが。


 ハキムは着替えも洗顔もせず、頭が冴えるのを待って出立の準備とする。ここに長居したところで、大して得るものはないだろう。


「世話になったな、ジイさん。身体に気をつけろよ」


「ひっひっひ。じゃあな、若いの。あんたの探しもんが見つかることを祈っとるよ」


 老人のしゃがれ声を背中で聞きながら、きしむ扉を開けて屋外に出た。


 夜を経てなおスラムの汚臭は拭い難い。記憶にある教会の方向に大体の見当をつけ、土壁や木材やそれらの残骸で築かれた街を進む。途中、行き倒れた犬がカラスに啄まれ、まだ水気の残る赤黒い内臓を晒していた。気にする者は誰もいない。


 道の繋がりはやはりでたらめで、ハキムは中々目的地にたどり着くことができなかった。しかし半刻ほど彷徨っていると、ようやく家屋にくっついた小さな広場に行き当たった。広場の隅にはささやかな花壇があり、それがハキムの記憶の奥底を刺激した。教会だ。


 住人から不審に見られるのも構わず、ハキムはしばらくその場に佇んでいた。教会はどこからどうみても、スラムの汚らしい建物の一つに過ぎない。


 しかしやはり教会からは、無礼な訪問が躊躇われるような、なにがしかの神聖さが発せられている気がした。あるいはこれが信心というやつなのかもしれない。


 それから少しすると屋外の気配を察したのか、家屋の戸が開き、十八、九ほどの若い女性が姿を現した。


 シスターはハキムに気づくと、微笑みながら小さく頭を下げた。その姿はハキムの記憶よりずっと若かった。幼いと言ってもいいほどだ。子供のころ、彼女はもっと大人びて見えたように思う。


「なにか御用ですか?」


 シスターには確か半分ほどグランゾール人の血が入っていて、肌の色は典型的なラウラの民のそれより明るかった。普通なら排斥の原因になりそうなものだが、彼女の人柄と献身が、むしろその差異を特別なものに見せていた。


「少し聞きたいことがあるんだ」


 そう尋ねたハキムは、シスターが自分の顔をまじまじと見ていることに気がついた。


「もしかして、チビちゃんのお兄さんですか?」


「いや。俺には弟も息子もいない」


 素性を明かすと説明が面倒になりそうだったので、ハキムは極力名乗らずにいようと決めた。


「そうですか……。失礼しました、顔が似ていたものですから」


「けど、そのチビちゃんに用がある」


 その言葉を聞くと、一瞬、シスターの顔に緊張の色が浮かんだ。彼女は周囲を憚るように見回して、囁き声でハキムに言った。


「よければ、中でお話しませんか。汚い場所ですが……」


 汚い場所というのはまったくの謙遜で、その家の中はかつて、スラムで最も清潔な場所だった。とはいえそれは、子供たちが遊んでいった直後でなければという条件付きだったが。


 普通、一人暮らしの若い女が、男を家に上げるのは大層危険な行為だ。住んでいるのがスラムならなおのことで、その場合なにがあってもほとんど自業自得と見なされた。


 しかしシスターに限って、この見方は当てはまらなかった。彼女になにかすれば、信心深いスラムの住人から壮絶な袋叩きに遭うことは、誰でも予見できたからだ。実際、シスターにちょっかいをかけるスラムの人間は皆無といってよかった。


 ハキムは促されるまま戸口をくぐり、薄暗い室内に立ち入った。そこには金銀でできた聖印もなければ、説教のためのお立ち台もなかった。


 辛うじて家具らしいものとして、生活の品を入れるための木箱と、簡素な敷物があるだけだった。しかし部屋は隅々までよく掃除されていて、居心地という点ではどんな場所にも劣らなかった。


「チビちゃんがなにかしましたか?」


 シスターは恐る恐る、といった表情で尋ねた。ハキムは部屋の中央に座り、彼女と向き合っていた。


「モノを盗まれたんだ。これくらいのガラス球なんだが」


 ハキムは掌を上に向けて、玻璃球の大きさを示す。それを見るとシスターははっとした顔で膝立ちになり、傍にあった木箱の蓋を開けた。そこから彼女が取り出したのは、確かに星渦の玻璃球だった。


「まあ、そんなことだろうと思ったよ」


 なにせ自分がしたことだ。盗んだものをどうするか、大体の見当はついていた。


「本当に、なんとお詫びしていいか」

 悲しげな態度で玻璃球を差し出して、シスターはハキムに頭を下げる。


「あんたが謝ることじゃない」


「あの子はこれを拾ったと言うんです。私もこんなものがスラムに落ちているはずがないと思うんですが、どうしても持っておけというのでつい……」


「贈り物なんて、いじらしいところもあるもんだ。確かに、売っても大してカネにはならないんだけどな」


 シスターは膝の上で手を組んで目を伏せた。それからハキムの出方を窺うようにしばし沈黙したあと、再び顔を上げた。


「その、厚かましいお願いなんですが、チビちゃんを見つけても、あまり手酷い罰を与えないでやってもらえませんか」


「なんで?」


 彼女がそういうことを言いそうな人物なのは分かっていたし、別に自分自身を罰するつもりはなかったが、ハキムは敢えて少し意地悪な態度を取ってみた。


「あの子には親がいないんです。小さいころからこのスラムにいて、盗むほかに生きる方法がないんです。私と、ハキムのおじいさんがたまに面倒を見ていますが、どこかに居つくのも好きではないみたいで」


「どんな大人になるか心配だな」


「確かに盗みはしますが、賢くて、優しいところもあるんです。どこかで仕事を覚えれば、盗みなんてしなくてもちゃんと生活できるようになるはず……」


 残念ながらそうならなかったことに対して、ハキムは少々申し訳ない気持ちになったが、幻に頭を下げたところで仕方がない。もしシスターやハキムのジイさんと、もっと長い間過ごしていたら、自分はまともな生活が送れるようになっていただろうか?


 そういえば、ネウェルでも同じようなことを考えた気がする。そのときの答えは否だった。


「まあ、安心しなよ。球が返ってくれば文句はない」


 恐縮し続ける彼女を慰めるように言って、ハキムは席を立った。


 シスターも老人と同じく、このスラムには珍しい、心根の優しい人間だった。だからといって、死に方まで同じでなくともよかったろうに。

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