第二十話 熱砂舞う地で -1-
久方ぶりに一人となったハキムは、ハートラッド中心部に近い安宿の一室にいた。靴を脱いでベッドに寝転がり、仰向けで薄汚い天井を眺める。日没から既に一刻が経っていた。宿の外には宵闇の帳が幾重にも降りているだろう。堅気の人間は日課を終え、寝る準備を始めている頃合いだ。
小さな灯りだけが光を投げかける室内で、視線と思考を闇に漂わせる。長らくそうしていると、視野がぼんやりと滲んできた。それでいて、意識は妙に醒めている。疲れてはいるが、眠る気になれないのだ。
以前はあまりなかったことだが、近ごろは妙に多い。あまり健康な状態とは言い難かった。
不眠の原因についてこれまでにも何度か考えてみたが、はっきりこれというものには思い当たらなかった。せいぜい、精神の緊張と弛緩を短期間で繰り返したからだろうか、というぐらいだ。
眠れない夜を楽々と越えられるほど、ハキムは一人遊びが上手くない。薄暗い室内に漂う意識は着地点を見失い、おもむろにこれまでの旅路をなぞりはじめる。
思えば、決して不愉快ばかりな旅ではなかった。黄金の代わりに仲間を得て、束の間真っ当な人間らしい暮らしも体験した。しかしレザリアを出たときから、自分の背後には不穏な意思が付き従っている。
オヴェリウス。千年を経て蘇った古代帝国の亡霊。その見えない手腕は剛く、長く、常に一行の旅路を脅かした。
ハキムたちを追うそれが通った跡には、死と灰の道が出来上がる。蹂躙されたネウェル。死都となったカラマス。避難民たち。ドウルの死。
一行は逃げ続けている。オヴェリウスはそれを追う。
『考えておるな』
荷物の中にある玻璃球から声が響いた。焦点を失っていたハキムの意識が、ほんの少し輪郭を確かにする。
「……」
『戸惑い躊躇うことこそが人のありよう。しかし結局のところ己が本性に従う以外、正しい道などありはしない。お前の本性とはなんだ? ハキム』
ハキムはウェルテアの戯言を聞き流して身を起こし、玻璃球を荷物から取り出した。球の中にある星は渦を巻き、青白い光が闇に漏れ出している。それは部屋の隅にゆっくりと凝り、彼女の姿を形成した。
「前に力の残滓がどうこう言ってたよな。精神の水路を作るとかなんとか」
ベッドの上に玻璃球を転がし、ハキムはウェルテアの輪郭に話しかける。
『言った。その危険も承知したはずだな』
「俺は自分の本性なんて考えたことはないが、とにかく受け身なのは性に合わない。その力があればオヴェリウスに対抗できるな?」
『我の介入があれば、ヤツの力を一時奪うことぐらいはできるだろう。しかし、殺すまではできぬ。殺すのはあくまでも汝らよ』
「そこまでは期待してねえよ。……自己犠牲みたいでなんか気持ち悪いけど、俺の正気を賭ければ戦況をひっくり返せるかもしれないってんなら、分の悪い勝負じゃない。で、どうすればいい」
『玻璃球に触れよ。我が引き入れる』
座して危機を待つか、自ら飛び込むか。別段、リズ、トーヤ、エシカがそれぞれ役目を果たしていることに引け目を感じているわけではない。どちらかといえば、それは意地の問題だった。いっとき逃げるのはいいが、逃げっぱなしな自分は許せない。
基本的に、よく分からないものに身を任せない、命を預けない、というのがハキムの主義だったし、経験から危険性を推し量れないのは気に喰わなかった。
しかしそういうことはやむを得ない場合、大なり小なりこれまでもやってきた。今回のことも、襲ってくるのが刃なのかそうでないのかの違いだ。
ハキムは一度大きく息を吸い、吐く。そして不確定性の塊である玻璃球に、ゆっくりと手を伸ばした。
〈汝に探求の旅を授ける。渦に潜り、正気にて再び這い戻れ〉
ウェルテアの声は低く、ぞっとするような迫力を持って部屋に響いた。ハキムは胸の内に生じかけた後悔を腹の底に飲み下し、指先を玻璃のひんやりとした表面に触れさせた。
その瞬間、玻璃球の内部にあった幾億の星が、静かに回転をはじめた。その渦は徐々に大きくなり、すぐに玻璃の球面を超えてさらに拡大した、やがてハキムを取り巻き、部屋いっぱいに広がり、全ての輪郭を消し去ってしまった。
星渦の中心も虚無ではなかった。玻璃球の内側にあったときは見えなかったが、そこには星々に比べると遥かに巨大な光球が鎮座していた。しかし、不思議と眩しくは感じない。その代わり眺めていると、意識ごと吸い込まれそうな気分になり、ハキムは思わず目を逸らした。
改めて部屋を見渡すと、空間全体が星渦の中にあった。それぞれの星は大きさも、色も、輝き方も、一つとして同じものはなかった。
ハキムが星々を眺めている間に、渦は縮小をはじめた。光球を囲む輪がじりじりと狭まり、渦の外側が手の内に収まり、やがてたった一つの光点に収束していった。次の瞬間にはそれも消え、ハキムの視界と意識は完全な闇に閉ざされた。
◇
耳元で、乾いた風の音がする。
舞い上がった細かい砂粒が、足元に吹きつけている。陽光で熱された日干し煉瓦と、家畜の糞尿のにおいがする。建付けの悪い扉が、どこかでキイキイと音を立てていた。
ハキムの胸に、苦みを伴った懐かしさが去来する。
いつのまにか目を閉じていた。先程までは闇の中にいるような感覚に陥っていたが、今や目蓋の向こうには光がある。
目を開けて辺りを見たとき、ハキムは拍子抜けするような、意外な思いを味わった。そこに在ったのは見知らぬ異世界などではなく、見覚えのある、それどころか嫌という程見慣れた景色だったからだ。
ここはラウラと呼ばれる、グランゾールの南に広がる砂漠地帯のどこかだ。ハキムは広大なラウラに点在する町の一つで生まれ、あまり幸福でない子供時代を過ごした。
探求の旅などと大仰な言葉を使うからには、どんな迷宮に放り込まれるのかと身構えたのに、まさか故郷に戻ることになるとは思わなかった。趣味が悪いと怒るべきなのか、皮肉なことだと苦笑すべきなのかよく分からない。しかしひとまず、状況を理解することが先決だろう。
ハキムは気持ちを切り替え、改めて周囲を見回した。今いるのは建物の外側にある階段で、ハキムはその中ほどあたりに腰を下ろしている格好だ。
ラウラの建物は、粘土を乾かして作った、亜麻色や薄茶色の軽い煉瓦で造られている。等級の高い建物ではその上に白い漆喰を塗るが、さほど裕福でない人間の家は、大抵日干し煉瓦そのままの無骨な壁面を晒している。
それからハキムは自分の身体を見下ろし、尻や背中をぺたぺたと触ってみた。どうやら普段着ている旅服のほかには、なにも持っていないようだ。
いや、すぐ傍に玻璃球が置かれていた。先程まではあんなに存在感を放っていたのに、今は光を失っている。ハキムが試しに呼びかけてみたところで、なに一つ反応は返ってこなかった。ただ頭上から降る強い日差しを歪ませて、地面に白い像を作っているだけだ。
「で、どうすればいいって……?」
玻璃球の外にも、答える者はなかった。探求の旅とはなんなのか、重要なことはなにも説明されなかった。それも自分で探せということか。
とりあえず、差し迫った危険はないように思える。ならば、しばらく様子を見ながらぶらつくことにしよう。
そう決めたハキムは腰かけていた階段から立ち上がり、埃を払って階段から降りた。玻璃球は尻ポケットに入れておく。小さい鞄でもあればいいのだが、持ってないものは仕方がない。
生まれ育った町のことを、ハキムはあまり覚えていなかった。それでも、全く記憶から無くなってしまったわけではない。
ときには数百頭ものラクダで物資を運ぶ大規模な隊商。グランゾールのそれよりもはるかに猥雑な市場。そして誰にも顧みられることのない人々が生きる汚らしい貧民街。永遠に癒されることのない渇きが、街と人心の隅々まで蔓延っている。
町並みに見覚えはあるだろうか? ハキムはずっと以前の記憶を手繰った。
ここが故郷の町と同じだという保証はないが、多分このあたりはスラムの外側にあたる場所だろう。ハキムの目前にある路地は、密集した家々が落とす影で薄暗い。普通の人間なら、まず入ろうとは思わない横道だ。
確実にそこに在りながら、ほとんど目を向けられることのない町の一部。その内奥に入る道。
なにかを探す必要があるとして、それはおそらくスラムにあるのだろう。自分が育った場所以外で、意味のあるものが見つかる気はしなかった。
ハキムは通りを吹き抜ける砂混じりの風に目を細めながら、肩一つ半の幅しかない路地に脚を踏み入れた。
スラムに立ち入ると、まず臭いが変わる。汚物やそれに近い物はどこにでもあるが、ここでは空気が淀んでいるので、悪臭がいつまでも去らないのだ。
長く住む者の身体には独特の臭いが染みついて、ちょっとやそっとでは取れなくなる。やがてその独特の臭いに影響されて、顔つきや仕草、考え方も変わっていく。一年も経てば、立派なスラムの住民の出来上がりだ。
そしてそういう者は、外に出るとすぐに出自が知れてしまう。ハキムもかつて、そのことを身に染みて体験した。とはいえ真っ当な道を歩まなかった者にとって、出自が知れたところでさほど問題にはならなかったのだが。
歩いているうちに、ハキムの中で曖昧だった故郷の町並みと構造の記憶が、徐々にはっきりとしてきた。しかしこの場所は、頭の中にあるそれと微妙に異なっているようだった。
建物の間を抜けたと思ったらどこかの屋上に立っていたり、切り取った区画を適当につなぎ合わせたかのように道が左右にズレていたり、局所的に地殻変動が起こったように昇降不可能な段差ができていたりと、通常では考えられない造りになっているのだ。
そのほかにも、建物の様式にラウラ以外のそれが混じっていたり、建物同士が不自然に融合していたり、逆に中途半端な場所で途切れていたり、とにかく町のあちこちに、歪みや異常が現れているのだった。
ときおり見かけるスラムの住民が、そういった状態をなんの違和感もなく受け入れているように見えるのも、ハキムにとってはなおのこと奇妙だった。
やはりここは、現実のラウラではありえない。以前夕暮の竜が眠る場所で体験したような、魔術的な幻なのだ。
あのときはほとんどなりゆきに任せ、最後は自然に目を覚ましたが、ここではどうすれば現実に戻れるのか。ハキムは四半刻ほどの間、歪んだスラムをあてどもなく彷徨った。
途中何度か、路地の陰や欠けた戸板の向こうから、好奇と敵意の混じった目線が向けられ、揶揄や不快感を含んだ囁き声が聞こえた。雑多なようでいて、スラムの住人は異物に敏感だ。
今は武器を持っていないので、荒くれ者に絡まれると面倒なことになる。リズやトーヤがいれば、そんな心配もしなくて済むのに。ついつい意味のない仮定をしてしまうのは、一人の心細さゆえか。
やがてハキムは、今までのものよりも少々広い通りに出た。かつて住んでいた町で、〝盗人横丁〟と呼ばれていた場所だ。
ここでは食料や日用雑貨など、必要最低限の物資が露店で売られている。呼び名の由来は知れないが、おそらく一つには売り物に盗品が多いこと、そしてもう一つは――
どん、と後ろから突き飛ばされる。思わず足を踏み出して転倒を避けたハキムは、同時に尻ポケットに挿し込まれる手の感触に気づいた。
ハキムは咄嗟にスリの手を掴もうとしたが、一瞬遅かった。体勢を整えている間に犯人は背を向け、横丁の中心に向けて脱兎の如く逃げていく。体格を見るに、まだ子供だ。人ごみに紛れ、ハキムを撒こうとしている。
「やりやがったなクソが」
多少の銀貨ならともかく、玻璃球を盗まれるのはまずい気がする。それは元の世界から持ち込まれた、唯一の品物なのだ。盗賊としてのプライドも手伝って、ハキムは邪魔な通行人を突き飛ばしながら、スリの子供を全力で追った。




