第二話 森の人狼 -2-
大陸の北西に位置するポート公国は、西でルブルム洋、北でアズウル海と呼ばれる海洋に面している。
ルブルム洋を流れる潮は暖かく、公国の気候をキエスよりも穏やかにしていた。その暖流と、アズウル海から流れる寒流とがぶつかり合う場所には魚が集まり、冬でも凍らない港から出発した地元の漁師たちは、船に満載の獲物を積んで戻ってくる。
グランゾール中央部の肥沃さには及ばないが、この地もまた古来より多くの人々が歴史を紡ぎ、当代に至るまで連綿と暮らしを送っている場所である。
リーヴの町を出発したハキムたちは護衛付きの馬車にのり、三日の距離にあるカラマスを目指していた。東のネウェルより降りてくる冷たい風は、ポート内陸の大地で温められ、ときおり馬車の窓から顔を出すハキムの後頭部に吹き付けている。
馬車の中では、目を閉じてぐったりするリズの背を、トーヤがさすっていた。
「うえぇ……」
「馬車の中で本なんか読むからだ」
ハキムは窓から頭を引っ込めて言った。リズはリーヴに到着して以降、必死に秘儀書の解読を進めていたが、以前読んだアルテナムの年代記よりもはるかに複雑な文法や理論が用いられているらしく、内容の把握は容易でないようだった。
それでも彼女は分厚い羊皮紙の本にかじりつき続け、馬車の振動と古代語で脳を揺さぶられた挙句、青白い顔で遠くの景色を見る羽目になっていた。
リズについては自業自得として、馬車の旅自体はそれなりに快適だった。自分たち以外の荷がないため、占有できる空間は広く、脚を伸ばして寝転がることも容易。
においや虫に悩まされることもない。背もたれ付きの座席からは、広い窓越しの景色を眺めることもできる。車体に関する多少のトラブルや野盗の襲撃は、御者や護衛の兵に任せておけばいい。
しかし残念なことに、全ての行程が牧歌的に進んだわけではなかった。
旅の初日は晴天だったが、二日目の昼過ぎから、徐々に雲行きが怪しくなってきた。西に浮かんでいた積乱雲が急速にその大きさを増して陽光を遮り、空気は冷たく湿って雨の予感を運んできていた。
やがて上空高くから響く雷鳴とともに、馬車の天蓋を雨粒が叩き始めた。このとき小さな針葉樹の森に入っていた一行は、徐々に強くなる雨脚に追われるようにして先を急いだ。馬車の中にいるハキムたちが雨に濡れることはないが、ぬかるんだ地面に車輪が嵌まると面倒なことになる。
薄暗くなった馬車の中で、ハキムは濃度を増していく水のにおいに鼻を鳴らした。
「ハキム、荷物が」
トーヤに声をかけられて気づく。玻璃球が光っていた。
これが光るときは、決まってなにかまずいことが起きるのを、ハキムは経験上知っていた。咄嗟に耳を澄ませるが、雨音が激しく周囲の気配を窺うことができない。とりあえず手元の弩を引き寄せて矢をつがえ、腰に挿してある短剣を確認する。
「リズ、秘儀書と球っころを頼む」
ハキムは御者に警告すべく前方に移動したが、それと同時に馬車が急停車した。あやうく御者の背に頭をぶつけそうになり、手で身体を支える。御者の身体がびくりと震えた。
次の瞬間ハキムが目にしたのは、御者の背から突き出る血濡れの穂先だった。
「敵襲だ!」
護衛が上げる警告の声と同時に、いくつもの投槍が飛来して馬車の幌を切り裂いた。雨粒を弾く鋭い刃は、野盗が持つ粗末な武器のそれではなかった。
馬車の後方からも敵の足音が近づいてくる。ハキムは前方を護衛の騎兵たちに任せ、背後からの襲撃者を迎え撃つべくリズとトーヤに目配せした。
ハキムたちが馬車から飛び降りてみると、雨で煙る森の小道に武装した影が浮かび上がる。数は六、八……十人。
「おいおいおい大盛況だな」
一般的に想定される待ち伏せよりもかなり多い。さっき飛んできた槍の数を考えると、馬車の前方にも同じくらいはいるだろう。雨で事前の発見が難しかったとはいえ、見事な挟み撃ちだ。敵は一体どこに、いつから潜んでいたのか。
手斧で武装した前衛の五人が進み出る。ハキムとトーヤが矢をつがえた武器を向けても、一切ひるむ様子がない。違和感を覚えたハキムが目を凝らすと、敵兵と思しき人影の肌は死人と同じように青白く、所々黒ずんでいた。眼は光を失い、黄色く濁っている。
それは紛れもなくアンデッドだった。自然に生じたものではありえない。誰かが意図的に配置し、ハキムたちが通るのを待ち構えていたのだ。食事も休息も必要とせず、虫にも退屈にも不平を言わないアンデッドは、理想的な伏兵だったことだろう。
「クソ、どうなってんだ」
ハキムはクロスボウの引鉄に力を籠め、クォレルを発射する。トーヤも矢を放ち、それぞれが敵の胸と首に突き刺さる。
アンデッドの耐久力は人間のそれに優るが、決して不死ではない。矢を受けた二体が泥濘の中に倒れる。
「なにこれ、誰かが操ってるの?」
リズが魔術で一体を焼く。超高温のプラズマが、雨粒を一瞬で蒸発させていった。霧と煙で辺り一帯が白く霞み、肉の焼ける臭いが漂う。
攻撃を潜り抜けた二体が突進してきて、強烈な力で斧を振った。鈍く光る刃が馬車の後部を派手に叩き壊し、飛び散った木っ端が身をかわしたハキムの頭にぶつかった。
素早く抜刀したトーヤが一体の手首を切り落とし、返す刀でその首を刎ねたとき、護衛の兵たちが戦っていた方から、獣の咆哮が響いて空気を震わせた。
「なんだなんだ」
なにか大きな物体が馬車の屋根に着地し、そのままハキムたちの眼前に飛び降りてきた。それは痩せた熊が立ち上がったようなシルエットを持っていたが、頭部は狼に似て鼻面が長かった。
アンデッドの残骸を踏みつぶし、恐ろしげな目でハキムたちを睨む。長い鉤爪のついた前足には、流されて間もない血や肉片がこびりついている。
レザリアやネウェルの地で見たグランデではない。
「人狼……?」
ハキムは思わず呟いた。人間よりも二回り大きいそれの姿は、おとぎ話に出てくる狼男の挿絵を彷彿とさせた。
「リズ!」
武器を持つアンデッド一体の胴を薙ぎながら、トーヤが叫ぶ。ハキムも我に返り、クロスボウを放り投げて腰から短剣を抜いた。
「この……!」
リズのエーテルが新しいプラズマに変じ、白い水蒸気を上げながら球を形作った。人狼はそれを目にして一瞬動きを止める。リズの指先から放たれたプラズマが敵に衝突する直前、人狼は恐るべき反応速度でそれを回避した。
「うわ」
水蒸気を目印に、攻撃の道筋を読んだのだ。プラズマは後方にいるアンデッドたちに命中し、一瞬で数体を消し炭にした。
こちらの隙を見逃さず、人狼が反撃に転じた。その巨体からは考え難いほどの跳躍力でトーヤを急襲し、押し倒す。トーヤは刀で攻撃を防ぎ、そのまま串刺しを狙ったが、相手の体重と突進の勢いが大きすぎた。泥の地面に叩きつけられ、残忍な爪と牙に晒される。
「こっちだ、毛玉野郎!」
ハキムは抜いた短剣を構えてぬかるんだ地面を蹴った。トーヤに覆いかぶさった人狼に取り付いて、左の眼球を狙う。しかし敵はもう少しのところで首を振り、頭でハキムの胴を打った。ハキムはぐえっと声を上げ、宙に飛ばされて数歩先の地面に落下した。
しかし同時に、人狼が苦痛の声を上げる。短剣は目のすぐ下に刺さっていた。
間髪を入れず、今度はリズが魔術で狙う。人狼はそれを察知して飛びすさる。ハキムが起き上がってみると、馬車の前方から増援の気配がした。
人狼に覆いかぶさられていたトーヤが跳ね起き、再び刀を構えて敵に向かい合った。攻防は一旦仕切り直しだ。馬車の前方にいるはずの護衛たちはどうなっている? 全員やられてしまったのだろうか。
ハキムは投げナイフの刃を指に挟んだまま、人狼の隙を伺う。滴の横腹にはトーヤの刀でできた傷があり、赤々とした血が毛皮を汚していた。こちらも相手も無傷ではない。互いを推し量るような睨み合いが続く。闘争か、逃走か。
「一旦逃げるぞ」
ハキムはぼそりと言った。アンデッドだけならまだしも、この人狼は底が知れない。
小さく頷いたリズがプラズマを乱舞させると、周囲の温度が一気に上がった。蒸発した水蒸気が乳よりも濃い霧を作り、敵味方の姿を覆い隠す。
「よし、よし。こっちだ。ついてこい」
ハキムはリズの腕を引き、道を外れて森の中に入る。トーヤが後ろから来ているのも確認できた。気配やにおいは、雨がかき消してくれるだろう。
日暮れが近い。夜が来る前に、敵を撒かなくては。