第十九話 己が使命は -7-
「おおおおおおおぉぉぉぉ!」
次の瞬間、野太い咆哮が夜の闇を震わせた。鞘から抜かれた大剣が、一瞬地面に擦れて音を立てる。巨体が跳ねるように起き上がり、男たちの方へと突進する。ハキムは闇に馴れた目で、その胸に深々と埋まった矢の後端を見た。
「やめろ!」
ハキムは叫んだ。なにに対して? 致命傷を負ったままの無謀な突撃か、追撃の矢か。どちらにせよ止めることはできそうにない。
「ハキム! 姫様を守れ!」
その声には痛々しい雑音が混じっている。退避が無難な選択肢だということは分かっていたが、ハキムはその指示を無視した。亡霊の指輪を嵌め、クロスボウの射線を避けながらドウルを追う。
敵はハキムの姿を見ることはできない。しかしこれはハキムにとっても危険な行為だった。乱戦では同士討ちが発生するかもしれない。重傷を負って気絶しても味方に発見されないかもしれない。指輪を嵌めた手指の喪失も、流れ矢も危険だ。
だから普段は安易な使用を避けていた。とはいえ、現状そうも言っていられない。
敵までの距離は四、五十歩。ハキムはクロスボウの二射目を阻止すべく、走りながら短剣を一本、射手に投擲した。手傷を負った一人の矢は上方向に逸れ、風切り音だけを残して消えた。
だがクロスボウはもう二つあった。思いがけない方向からの攻撃に戸惑いながらも、彼らは標的を変えなかった。発射されたクォレルのうち一本が、ドウルの胴体に命中した。
至近距離でのクロスボウは、板金鎧さえ容易に貫通する威力を持つ。まともに防護されていない生身で受ければ、その衝撃で立っていることすら難しい。
しかしドウルは止まらなかった。突き出された槍も構わず集団を大剣で薙ぎ払い、二人を木端のように吹き飛ばした。
ハキムは間合いから外れようとした一人に、背中への刺突を加えた。深手を負わせることよりも、混乱を巻き起こすことに注力する。
「ぬぅうううううううえい!」
大剣の一撃をまともに喰らい、一人の身体が針金のようにひしゃげた。同時に別方向から繰り出された槍が、ドウルの脇腹に突き刺さる。敵の手数が多すぎて、ハキムの援護が間に合わない。
動いているのはあと三人。うち一人は重傷。ドウルの鬼気迫る戦いぶりと、暗躍するハキムの刃が敵の動揺を恐怖に変えた。
「ば、化物かよ」
所詮決死の覚悟を持たない男たちは、もはや大剣の間合いに踏み込もうとはしなかった。自らの姿を浮かび上がらせる松明を投げ捨て、徐々に距離を取りながら、やがて踵を返して闇夜に消えた。
「……やれやれ」
それを見遣ってからドウルは膝をつき、うつ伏せに倒れた。ハキムが指輪を外して駆け寄ると、足元には血だまりができつつあった。その量からして、もはや手の施しようがないのは明らかだ。今まで動けただけでも信じがたいほどで、常人なら三回は死んでいるだろう。
「姫様を守れと言っただろうが」
ドウルが掠れた声で言った。
「無事だよ。おかげでな」
ハキムは声が聞き取りやすいよう、頭のすぐ横にしゃがむ。
「吾輩は、使命を果たせなかった。頼む、継いでくれ」
「普段は断るが、後生の頼みっぽいから聞いてやる」
ふっ、と笑いかけて、ドウルは大いに咳き込んだ。口から大量の血が溢れる。
「よう言うわ。お人好しめ」
ガラガラと音を立てながら大きく息を吸い、吐き、もう一度吸う。
「姫様を……ハートラッドに……」
そして彼は二度と呼吸しなかった。使命と信念に殉じたのだ。ハキムはしばらくしゃがんだまま、その死に顔と向き合っていた。
「クソが」
敵を殺している以上、こちらも殺される覚悟は持っている。しかし仲間の死は、やはり割り切って受け止められるものではない
エシカがこの場面に正気で立ち会わなかったのは、果たしてよかったのか悪かったのか。なんにせよ彼女が無事だったのは、ドウルにとってせめてもの救いだろう。
気づけば先程男たちが逃げていった方向から、馬が近づいてきていた。ハキムは新手を警戒して身構えたが、見えてきたのはランプの光で照らされたリズとトーヤの姿だった。向こうも暗闇の中でこちらを認めたらしく、歩調を緩めつつ傍までやってくる。
「ハキム、大丈夫?」
馬上のリズが尋ねた。しかし一見してなにがあったのか悟ったようで、すぐ悲しげに顔をしかめた。
「俺は問題ない。けどドウルが見ての通りだ。姫様はあそこの荷車の陰にいる。町長の野郎をぶっ殺してやりたいが、この町を離れるのが先決だな」
「……すまない。僕らがもっと早く来られれば」
トーヤの顔は青ざめている。恐怖や動揺からではない。毒の効果がまだ残る中、二人も急いで駆けつけてくれたのだ。
「いや、それでも最悪の結果じゃなかった。エシカにはあとでちゃんと伝えよう」
町長の屋敷から盗んできた馬が四匹。荷物も残さず回収できた。ハートラッドまでは一日の距離だ。そこに着けば多少は安心できる。オヴェリウスの指は思いのほか長かったが、グランゾールとの国境までは届いていないことを祈るしかない。
翌朝になれば、町長は堂々とハキムたちを拘束しにかかるだろう。口実はいくらでもあるし、実際やったことに変わりはないのだ。
ハキムたちはせめてもの弔いとして、ドウルの姿勢を整えてやることにした。身体は重かったが、なんとか協力して仰向けにする。クォレルは先端が深く埋まっていた上、筋肉が締まっていて抜けなかった。
あとは勇敢に戦った証である血みどろの大剣を持たせ、それを胸の上で抱くような格好にした。
誰もなにも喋らなかった。
それからハキムたちは、忠義の騎士が遺した未完の使命を肩代わりすべく、馬に乗って南の方角、闇を貫く街道の先に消えた。
◇
薬を飲めば、毒の効果はそれほど長く続かなかった。少しすると、リズとトーヤは行動に支障がないまでに回復した。小柄なため最も重症と思われたエシカも、夜明けを待たずして身体を支えることができるようになった。
彼女はハキムたちが伝える前からドウルの死を認識していて、なにもできなかったことを悔いていた。しかし、取り乱すことは一切なかった。涙も流さなかった。ただ痛みを堪えるような表情のまま前を見つめ、一人で馬に乗って進んだ。
それは一種の悲壮を感じさせるような態度であり、安易な慰めを拒絶しているようでもあった。
「私は生きて、ハートラッドに行かなければ」
最後にそう言ったきり、エシカは長らく沈黙した。もっともハキムたちにしたところで、ほとんど会話らしい会話はなかった。馬が口角に泡を溜め、その身体が乾いた汗で白くなるまで急がせて、夕暮までにはポート公国の国境へと辿り着いた。
ポート公国とグランゾールの間には、カルネイルという名の大きな河が流れている。それはネウェルの地に源流を持ち、遠く西にあるルブルム洋へと水を運ぶ。
そのカルネイル南岸のほど近くに立地するのがハートラッドだ。規模はカラマスより二回りほど小さいが、この場所もまた交易上の要所であるため、活気という点では引けを取らない。
ハートラッドの対岸にも、ティンザー砦と呼ばれる施設がある。こちらはポート公国に属するもので、過去グランゾールの民が侵攻した際、防衛のために使われた。現在、両地域の関係は安定しているため、砦の規模に対して駐屯している兵は少ない。
北から進んできたハキムたちがまず目にしたのは、このティンザー砦の無骨なシルエットだった。
日没までの時間を気にしながら、ハキムは馬上で目を細めた。
「アレがティンザー砦……。なんか様子がおかしいな?」
砦を構成する防壁の一部が欠けている。ただ、襲撃に遭ったという風ではない。まるで砦を解体しているかのようだ。
「戦争が起こってるってのに」
とはいえ、それは進路を変える理由にならない。少々不審に思いながらも、ハキムたちはひとまず砦へと近づいていった。
ティンザー砦は河の水を引いて造った大規模な堀と、二重の防壁で構成された堅牢な防御施設だ。しかし今、堀はほとんど埋め立てられ、一番外側の防壁も半分ほど解体されている。
作業をしているのはどうやらポートの守備兵だ。夕刻を迎えたため今日の仕事を終え、帰り支度をしているところだった。
「ああ、カラマスから来たのか。大変だったな」
兵の一人に声をかけると、彼は気さくな態度でハキムたちを労った。おそらく既に何回も避難民を目にして慣れているのだろう。
「どうして砦の解体を?」
トーヤが尋ねた。
「敵に奪られないためさ。この砦には千人収容できるが、普段は百人もいない。キエスが攻めてきたら、俺たちだけで守るのは無理だ。だから砦を壊したらハートラッドに引っ込んで、対岸で敵を向かい撃つことになってる」
敵の橋頭保になるくらいならば、拠点として使い物にならなくしておいた方がいい、という理屈だ。もちろん、ハートラッドとの関係が良好だからこそ為せる業で、そのためには繊細な政治的が不可欠だっただろう。
「ハートラッドに行くにはどうしたらいい?」
「渡し舟が出てるよ。馬も運べるけど、お金がかかるから泳がせたら?」
ハキムたちが兵の示す方に向かうと、小さな船着き場があった。そこと対岸の船着き場の間では、十人ほど乗れる小型の舟が数艘行き来していた。カルネイル河の幅は季節によるが数百歩といったところで、渡河にそれほど苦労はない。
馬は専門の人足に任せ、一行は船に乗って南岸を目指す。心身の疲労を色濃く感じながら、ハキムはぼんやりと水面に目を遣った。夕日を照り返す河の流れは舟の歪んだ鏡像を作り、今後の不穏を暗示するようにざわざわと波を立てた。
◇
カルネイル南岸近くでまず目に入るのは、東西に長く伸びたハートラッドの防壁である。典型的な防壁は市街を囲む円や楕円の形を取るが、ハートラッドでは河岸に沿って直線的に築かれている。もちろん、北岸から渡河してくる敵を想定してのことだ。
一行は河を渡り終え、防壁から飛び出したような形の船着き場に降り立った。あとから渡ってくる馬を待つ間、ハキムは防壁とその周りをぼんやりと観察する。
防壁は大人の背丈よりもやや高いくらいで、造りは比較的粗雑である。その代わり奥行きが広く、多くの守備兵を配置できるようになっていた。
それから一定の間隔で、攻城戦で見るような兵器が設置されている。巨大な矢を飛ばす弩砲、てこを使った投石機は、撃ち方によって対岸をも射程に捉えることができるだろう。
「ここなら敵がたくさん来ても守れるのかな」
リズが濡れた服の裾を絞りながら言った。
「アンデッドが泳げたらどうする?」
「僕の考えだと、アンデッドは泳げない。あの動きからしてあんまり繊細なことはできないはずだ。静かな水なら底を歩いてくるかもしれないけど、河を渡るのは無理だね」
トーヤの見立ては妥当なもののように思えた。しかしキエスには通常の兵力もあるのだ。安心はできない。
馬が船着き場に上がってきた。水に浸かったのが気持ちよかったのか、ブルルと機嫌良さそうにいななく。ハキムは手綱を取り、三人を促した。
「行こうぜ。日が暮れる」
カラマス出発時の目的地であるハートラッドには、無事辿り着くことができた。しかし滞在にあたって、ハキムは一つの気がかりを抱えていた。
それは盗賊としての自分にかかった賞金のことである。アルムではそもそも取り締まりが緩かったし、ネウェルやポートで仕事をしたことはなかったから、官憲の目をあまり気にしなくてよかった。
しかしここはグランゾールの地。隠れ潜むほど警戒する必要はないが、うっかり領主や兵隊に目をつけられると、厄介なことになりかねない。
これからエシカは領主に接見を申し出ることになる。オヴェリウスによるキエス王権の簒奪を訴え、その脅威に対して諸領の結集を促すためである。
学院の後ろ盾があるリズはいい。トーヤも護衛で通るだろう。しかし自分はおそらくいない方が、話がこじれる危険を減らせるはずだ。そういう考えを、ハキムは皆に話して聞かせた。
「では……、ハキムはどうするのです?」
エシカが案ずるような表情で言った。
「適当に宿を取って、できることをするさ。居場所はなんかしらの方法で知らせるようにするから、心配するな」
「私は学院の魔術師を探してみる。秘儀書のことを伝えないと」
「トーヤはなるべく、エシカについていてくれないか。シャラみたいなことがないとも限らん」
「そのつもりだ。任せてくれ」
リズ、トーヤ、エシカが各自の役割を果たすことに関して、ハキムはあまり心配していなかった。それよりも、三人の足を引っ張りかねない存在の自分が、どういう身の振り方をするかを考えなければならなかった。
星渦の玻璃球は、今ハキムの手の内にある。市街の中心近くで三人と別れる前、ハキムはそれを荷物から取り出して、じっと見つめた。