第十六話 己が使命は -4-
カラマスを出発してから二日半が経った。晴天の昼間が過ぎ、西の空が朱に染まりはじめる刻限、ハキムたちが望む平原の向こうに、小さな町の輪郭が見えた。十分な準備ができないままの旅ではあったが、なんとかその第一段階は、無事に終わることになりそうだ。
シャラの町は街道沿いの細長い市街に、広い農村がくっついたような形をしている。人口は大体、五百から七百ぐらいだろう。それに加えて、滞留している避難民が百か二百ほどいるようだ。
カネのある者は宿に泊まるか、民家を間借りしているのだろうが、カネのない、あるいは家財を持ち出し損ねた者は、村はずれで野営をすることになる。
ここでカネを惜しんでも仕方がないし、またその必要もない。全員一致の判断で、町に入ったハキムたちは、まずなによりも先に屋根とベッドのある宿を探すことにした。
しかし街道沿いとはいえ、所詮は小さな町。ちゃんとした宿屋は二つしかなく、どこも満室どころか二組三組を同じ部屋に詰め込んでいる始末だった。乾いた土埃の舞う街道の端で、ハキムたちはしばし途方に暮れた。
「あの、町長さんの家に泊めてもらうことはできないでしょうか」
おずおずと、といった様子でエシカが提案した。確かに彼女がいる状況ならば、そういう方法も取れるだろう。
キエスの王族とまでは明かさなくていい。いかにも貴人である風を装って金貨を渡せば、一部屋ぐらいは貸してくれるだろう。首に賞金のかかっているハキムにとっては、まず考慮することのない手段だった。
「ああ、思いつかなかったな」
庶民と同じ軒下で寝ることをよしとしないほどの者は、有力者の屋敷に宿泊するという発想こそが、むしろ自然なのだろう。カラマスに逃げてくるまで、既にそういう手段を取っていたのかもしれない。
町長、といってもここはキエス王国領内なので、代官としての役割を持つ町の顔役、といったところだろう。離れた町や都市に住む領主に代わって町を仕切り、税を取り立てる。
兵権は持たないが、土着の人間である分町人への影響力は強い。大抵は税金をうまいことやりくりして、大なり小なり私腹を肥やしている。
ここの町長もまた、ハキムの偏見通りの人間であるようだった。そうと分かったのは、市街の中心部に、ほかより明らかに立派な煉瓦造りの屋敷があったからだ。
質素な灰色の石と、それよりも茶色がかった土色の建物が多い中、鮮やかな朱色の混じった屋敷の外壁は、住まう者の豊かさを如実に伝えていた。
庭にはこの地方で咲かない花が植えられ、厩舎の馬はよく肥えている。多分下男や下女が何人もいて、毎朝パンを焼いたりしているのだろう。
ハキムはかつて、こういった家でよく盗みを働いた。こういう豊かな人間にとって、ハキムが盗む財貨は、持っている全てに対してごく小さい割合だったから、申し訳程度に残った良心も痛まずに済む。
盗んだ財産はハキムの生活費として市井にばらまかれるので、むしろ善行と言ってもいいほどだ。
ただ、今回に限ってそういう屁理屈は関係ない。姫様がいるのだから、その漏れ出る威光を利用して一晩の宿を借りるだけだ。
屋敷の重々しい扉を、ドウルが叩く。ややあって、下働きと思しき少女が顔を出した。目の前に立って咳払いをする巨漢に、やや驚いた顔を見せる。
「突然押しかけて申し訳ないが、ここは町長殿のお屋敷で間違いないだろうか?」
そういった反応には慣れっこなのか、ドウルは相手を落ち着かせるように、ゆっくりと穏やかな声で切り出した。
「はい、確かにレダン様のお屋敷でございます。どのようなご用件でしょうか?」
「内密の件なのであるが……。実はこちらにおわずのは、キエスの高貴なる血筋に連なる方。現在国を追われて南へ逃れるところなのだ。いやなに、政治的な便宜を図れということではない。ただ護衛の人間とともに、一晩の宿を貸していただきたい、とお願いに参った次第」
少女はドウルの身体で遮られたエシカの姿を覗き込むように見、それからハキムたち三人に目を遣った。彼女は今しがたの言葉が真実なのかどうか、少し考える様子だったが、それを決めるのは自分ではないと判断したようで、お待ちくださいと言い置いて一旦扉を閉めた。
「信用してくれなかったらどうする?」
ハキムは尋ねた。
「実はこういうものが……」
エシカは胸元から細いペンダントを取り出した。先端についているのは、透かし彫りが施された黄金のメダルだった。大きさは金貨と同じくらいで、彫刻は精緻を極めている。ハキムの鑑定眼によれば、一流の職人によって作られたものに違いなかった。
「それ、キエス王家の紋章だよね。見せて大丈夫?」
リズが言った。
「王族といってもある程度たくさんいますから、多分」
小さな町の代官が、キエス王家の紋章に精通しているとも思えない。こういうのは言葉で説明するより、雰囲気で押すのが常套だ。そして黄金の威光や繊細な彫刻の手腕は、どんな地域や文化でも通用する。
このペンダントを見せられた時点で、どんな愚鈍な人間でも、持ち主が特別な地位を持っていることぐらいは分かるはずだ。
ハキムたちがしばらく待つと、ようやく扉が開いた。
「お会いになるそうです。こちらへ」
少女に促され、ハキムたちは屋内へと足を踏み入れる。足元の床では狼の毛皮が灰色の四肢を広げ、虚ろな眼窩でこちらを見ていた。使い古されているが、中々立派な個体だ。価値は多分、金貨十枚から十二枚。
広間の奥には応接室があり、そこでは町長と思しき人物が安楽椅子に腰かけて一行を待っていた。彼は座ったままやや身を乗り出し、こちらを無遠慮に観察した。ハキムもまた彼を観察し返した。
禿頭、口髭、やや肥満体。齢はおそらく六十の手前。野心を抱くよりも安楽な生活に重きを置き、既得権を守ることに尽力するタイプと見た。
「お時間を割いていただき感謝いたします」
エシカが優雅な仕草で礼をする。
「キエスより参りました。エシカと申します。こちらは護衛の者たちです。詳しい身分は事情があって明かすことはできませんが、どうか一晩の宿を貸してはいただけませんでしょうか」
町長は髭の中でふーむと唸ってエシカを見つめ、居住まいを正した。少なくとも、すぐにこちらを追い出すつもりはないようだ。
「キエスの内乱と、我が国への侵攻のことは聞き及んでおります。カラマスが襲われ、この町にも避難民が押し寄せている。我々も荷物をまとめて安全なところまで退避しなくてはならないかもしれない」
「そのことについては、申し訳なく思います」
「いえ、いえ。責めているのではありません。あなたも内乱の被害者なのでしょう。大したもてなしはできませんが、こんな場所でよろしければ、どうかお使いください。この後の予定はお決まりですか?」
「ハートラッドへ向かおうと思っています」
「そうですか。お急ぎにならずとも結構、と言いたいところですが、そうも言っていられないのでしょうな」
「ご厚意、痛み入ります」
宿泊の交渉は拍子抜けするほどスムーズで、メダルを見せる必要すらなく終わった。これは文句なしにエシカのおかげだ。
彼女の物腰が、はじめ不作法とも見えた町長の態度を紳士的なものに変えたのだろう。ハキムはもちろんリズやトーヤが交渉したところで、この半分も上手くはいかなかったはずだ。
滞在を許されたハキムたちは、大小二つの部屋を割り当てられた。本当は一つの部屋に固まりたかったが、あまり警戒しすぎるのも不自然だという話になり、結局リズとエシカで大きい方、男たちで小さい方と別れることにした。
桶に湯を貰い、靴を脱いで汚れた脚を洗う。多分ハキムたち三人の方は、下男下女が寝起きする部屋なのだ。先程の広間や応接間に比べれば随分質素ではあるが、それでも枝の下、草葉の上よりは余程ましに思える。ベッドで眠るのは、三日ぶりになるだろうか。
日没を迎えるころ、先程玄関でハキムたちを出迎えた下女が、食事を運んできた。
温かいだけの食事なら野営時でもありつけるが、丁寧に調理されたそれとはやはり雲泥の差だ。湯気を立てる塩漬け肉のスープが食欲を誘う。さっそく皆で口をつけた。
が、このときのハキムは普段にないことを感じた。
「しょっぱい」
しょっぱいのはいいが、妙に胃が受け付けない。飲み下すのを喉が拒否するように感じた。ネウェル人の集落で飲んだ、メサ導師の煎じ薬を思い出す。そこまで酷い味でもドロッとしてもいないが、連想したとたん食欲が失せてしまった。
二、三回口に入れても感触は変わらなかった。旅の疲れが出たのだろうか、とハキムは訝った。
そういうことはごくたまにだがある。疲労すると食欲は増す。しかし疲れすぎるとむしろ食欲が失せるのだ。食わなければ死ぬ、という場面では吐いてでも食べるが、今は無理に食べなくてもいいだろう。
「どうした? ハキム」
ドウルはもりもりと食事を平らげている。ほかの二人がなにも感じないのなら、おそらく自分だけの異常だろう。思えばアルムの町からはじまって色々と無理な旅を続けてきたし、長い間に蓄積された疲労が出てもおかしくはない。妙なことになる前に、じっくり休む時間が取れればいいのだが。
「なんか食欲が湧かん」
「食あたりかい?」
「そうかもな。一応、リズに毒消し貰ってくるわ」
残した食事を二人に分けて隣の部屋を訪れ、体調不良の旨を伝える。
「あら珍しい。大丈夫?」
リズはそう言いつつ、甲斐甲斐しく薬の準備をする。混ぜて刻んだ薬草を丸めて口の中に入れ、多めの水で飲み下す。
「お大事に。明日になって治らなかったら言ってね。今度は下剤調合したげるから」
それはちょっと御免被りたいが、長引くようなら検討しよう。ハキムは礼を言って部屋に戻り、早々に寝てしまおう、とベッドに身体を横たえた。毛布を頭まで被り身体を丸めると、やはり疲労が溜まっていたのか、すぐに眠気が押し寄せてきた。