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第十五話 己が使命は -3-

「ハキム、場所移すよ」


 リズに揺り起こされて、ハキムは目を覚ました。どうやら思いのほか深く眠っていたらしい。

大きくあくびをして身体を伸ばす。今いる場所は街道からそれほど離れていない。確かに夜を明かすならば、もう少し奥に行った方がいいだろう。


 樹々の疎らな森の中ではちらほらと、疲れたカラマスからの避難民が火を起こし、野営の準備をしている姿が見られる。必要に応じて、彼らと物資を交換することもできそうだ。金貨銀貨で買えば平時より高くつくことになるだろうが、それはそれで仕方がない。


 夕暮れまでの間、本格的に休息の準備を整える。多少ましな食料を確保したり、薬草で切り傷や打ち身の手当をしたり、時間をかけて寝床を作ったり。明日の早朝からまた元気に動けるよう、やっておくべきことは少なくなかった。


 エシカとドウルは先に寝かせた。ドウルの方は姫様に危険がないか見張るのだと主張したが、彼が疲弊しているのは明らかだった。誰かを守りながら過ごすというのは、自分の面倒を見るだけのときより、倍以上の消耗をするものだ。


 俺たちを信じろという言葉で押し切ってその大きな図体を寝具に転がすと、ドウルはすぐにいびきをかきはじめた。


 日没の直前には、避難民がさらに増えた。平時からは考えられないほどの人数が野営をしているようだが、酒を飲んで騒ぐ者はおろか、笑い声を上げる者さえおらず、いっそ不気味なほど静かだった。


 もしかすると皆、たとえ少しでも気配を漏らせば、また恐ろしいものに存在を嗅ぎつけられるのではないかと妄想しているのかもしれない。あるいは単に前途への希望を失い、意気消沈しているだけか。


 風で揺れる木の葉と、ときおり爆ぜる熾火の音だけが聞こえる。ハキムは玻璃球を地面に置き、それを木の枝で挑発的に叩いた。


『叩くな叩くな』

 玻璃球から不機嫌そうな声が響いた。


「おっと派手に光るのはやめてくれよ。目立つからな」


 わずかに青い燐光を放つ古代文字が玻璃球から流れ出て、地面を滑り、虚空を這い上がってほの明るい輪郭を作った。文字が消えると、白銀の髪と月光色の瞳だけが、宵闇にぼんやりと浮かんで見える。


『いい加減に不敬であるぞ』


「敬われたかったら奇跡でも起こしてみるんだな」

「喧嘩腰はやめなさい」


 リズに窘められた。確かに、偉そうな人間についつい反発したくなるのは、自分の悪い癖かもしれない。少し黙っていることにしよう。


「ウェルテア。私たちは〝夜の火〟を手に入れた。これはアンデッドに有効だけれど、無敵の対抗策ではなかった。もっとほかに、オヴェリウス自身を攻略する方法はない?」


『かつてなら、我自身が力を貸すことも容易だっただろう。実際にそうしたかどうかはともかくな。しかし今、我の力はかつてないほどに衰えている。世界に干渉する術も、ほとんど失われている』


 ウェルテアは腕を伸ばし、ハキムが持っている枝に軽く触れた。いや、触れるそぶりを見せたが、その指先が枝を揺らすことはなかった。少なくとも物理的な干渉という点で、彼女は幻影と同じようなものだった。


「なぜ、その力は失われてしまったの?」


『あやつの試みが成功したからよ。今、どれだけの人間が神に、アークに、太陽に、月に、大いなるなにかに命を預けようと思う? 意思をそのために使おうと思う? アルテナムは滅びた。しかし神々もまた衰えた。神話の時代は終わったのだ』


 それ見ろ、と言いたい気持ちを押さえて、ハキムは黙ったままでいる。


「なら、あなたはまったく無力なわけ?」


『否。この星渦の中に、我が力の残滓は残っている』

 ウェルテアは玻璃球に目を落とした。


『あるいは、天球の外にと言うべきか』


「その力をどうにかして取り出す必要がある」


『聡いな、消し炭の』


「でも、どうやって?」


『道がなくてはならない。星渦よりでるエーテルを、この世界に流す水路。人の精神によって作られた形なき水路』


「それ、もしかして……」


 リズが眉をひそめた。おそらく、起きている三人ともが、同じことを思い出していたのではないだろうか。レザリアの深奥で見たもの。魔術師ヘザーの肉体に憑依したオヴェリウス。


 彼女は解放され、正気に戻ったのだろうか。あるいは魂を闇に囚われたままなのか。ハキムは別段ヘザーを憐れむわけではないが、同じような目に遭うのは御免被りたい。


『そう。あやつもまた似たようなことをしたのだろうな。合意の上だったか、甘言に乗せたか……』


 考えを吐露するまでもなく、経緯を説明するまでもなく、ウェルテアはそれを言い当てて見せた。


『我は悪意を持たぬ。騙しもせぬ。しかし奔流が悪意なくせきを壊すのと同様、大いなる力は器に負荷を強いる。そして割れた器は、二度と再び戻ることはない』


「ダメだ」

 ハキムは言い放った。


「大いなる力とやらが手に入ったとしても、頭が壊れたら話にならん」


「ハキムの言う通りだ。リスクが大きすぎる」


「……」

 リズが少しうつむいて、考え込むような仕草をした。


「おい、変なことを考えるな」


 ハキムは釘をさす。魔術的なことならば、危険を冒すのは自分の役目だろう、と考えているに違いなかった。しかしそうではない。誰がやるかという問題ではなく、やるべきではないのだ。


「百歩譲ってやるとしても今はダメだ。街はまだ遠い」


「うん……。分かってる」


『我は勧めもめもせぬ』


 女性の形をした混沌の化身は、ハキムたちの葛藤を面白がるような調子で言った。


『汝らが望むのならばそうするまでよ。我は意思でなく、ことわりなれば』

「うるせえ。黙ってろ」


 ハキムが言うと彼女の輪郭は歪み、薄闇に溶けて消えた。玻璃球がわずかに煌めいたと思えば、それきり一切が沈黙した。


「期待外れだったな」


「でも、可能性は残った」

 リズは言った。


「どうだか。それこそ渦潮に身を投げるようなもんだろ」


 ハキムは粗雑に玻璃球を掴み、荷物の中に放り込んだ。やはり都合よく状況を打開してくれる存在などいないのだ。


 それから三人は言葉少なに焚火を囲み、ほかの避難民たちと同じような時間に身を横たえた。しかし昼間中途半端に寝たせいか、ハキムの目は随分冴えていて、頭にはこれからのことや、先程ウェルテアが提案したことが、ぐるぐると秩序なく渦を巻いていた。


 ハキムの目蓋がようやく重くなってきたのは、冷えた空気が闇を押し沈める、真夜中になってからのことだった。



 その晩は平穏に過ぎた。明け方になっても平和だった。そして夜気で冷えた霧が立ち込める、静かな朝がやってきた。血生臭い戦いの記憶がなければ、いつもの旅だと錯覚してしまいそうだった。


 筋肉にはまだ疲労が残っていたが、いつもより長く休息したおかげで、身体はかなりの程度軽くなっていた。リズが手当してくれた甲斐あって、傷には炎症も化膿もない。


「はあ、ようやっと人間らしい心地が戻ったものよ。姫様は、大事ありませぬか」


「ええ、皆さんのおかげで」


 ドウルとエシカは、昨日に比べて若干さっぱりした表情になった。思えば、二人はカラマスまでも相当に過酷な旅をしてきたのだ。これしきを回復できないようでは、生き残ることなどできなかっただろう。


 泉の水で顔を洗い、汲んで飲み、石のように固いクッキーをゴリゴリとかじる。これはリズが調合した薬草を交換して手に入れたものだ。あまり美味くはないが、腹にはたまる。


 澄んだ空気の中身支度をし、一行は再び南を目指した。


 前日トーヤが予想した通り、敵はまだカラマスに留まっているらしい。見通しの良い場所で背後を振り返っても、騒ぎが起こっている様子はなく、焦って逃げる者もいない。ただ疲れて怯えた人々がほとんど着の身着のまま、とぼとぼと歩いているだけだった。


 街道の雰囲気は陰鬱だったが、天気は申し分なかった。雲に遮られることのない太陽は、下界の事情などお構いなしのようだ。平原を吹き抜ける風も今のところ涼気をもたらすだけで、戦火の臭いを運んでくることもない。


 このまま無事ハートラッドまでたどり着ければいいのだが。ハキムは淡い期待を抱きながら、遠く南の地平線を見遣った。

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