第十二話 アンデッドの夜 -5-
「応援は来ないのか?」
若い兵士が心細げに呟いた。先程の戦闘では四人が死に、三人が負傷によって戦闘不能となった。残りは兵士九人、魔術師四人、ハキム、トーヤ、ドウル、そして戦えないエシカの合わせて十七人。
一刻あまりの間に誰もかれも消耗しており、多少の休憩と補給を挟んだところで、万全には程遠かった。この人数にしては十分以上に健闘したとは思うが、また同じ波が来たら、耐えられるかどうか自信はない。
カラマスには市街の北に一か所、城壁を挟んでもう一か所の兵舎があり、そこには夜でも三百人からの兵が詰めているという。
ゆっくり歩いても四半刻の距離だから、今の今まで応援が来ていないならば、なんらかの原因で進行を阻まれているか、悪ければアンデッドの襲撃で混乱、壊滅しているということだ。
応援なんて期待するな。兵士にそう言おうとして、ハキムは風に紛れた人の声を聞いた。馬の蹄と、金属の擦れる音もする。
待ちに待った味方か、と逸った兵士が二、三人、消し炭になったアンデッドの残骸を蹴散らして、城館の外に出ていった。ハキムとトーヤは互いに目配せする。どうにも悪い予感がした。
声が近づいてきた。それは凱歌でも歓声でも、生存者への呼びかけでもなかった。命からがら逃げてきた者の、助けを求める悲鳴だった。
鈍い者でもそれに気づきはじめたようで、中庭がまた緊張に包まれた。ある者は天を呪って毒づき、ある者は不安そうに囁きあった。
「様子を見てくる」
座り込んでいたハキムは、手元にある剣を掴んで立ち上がった。城館に着いたとき使っていた槍が折れてしまっていたので、城館の中にあったものを拝借したのだ。
「囲まれてなきゃ、最悪逃げればいいんだ」
門はもはや門の体を成しておらず、周囲の壁も度重なる襲撃や押し合いによって、派手に崩れている。瓦礫の隙間に横たわるのは、燃え尽きたり燃え残ったりしたアンデッドの残骸だ。その黒ずんだ小山をよじ登り、ハキムは城館の外側に目を遣った。
冷たい満月が半円形の広場に光を投げかけ、石畳の上に積み重なった死者とアンデッドを照らしている。漂うわずかな煙の臭いは、市街のどこかが燃えていることを示していた。
ハキムは警戒のため姿勢を低くしながら、北に延びる街路に注意深く目を凝らす。そこには確かに蠢く影があった。しかし灯りが乏しいせいで、近くに来るまでその正体を見極めることはできなかった。松明を持った味方の軍勢でないことは確かだ。
影が広場に入った。ふらついてはいるが、アンデッドではない。皮鎧を纏った二人の兵士だ。負傷しているか極度に恐慌をきたしているかで足元は覚束ない。
その背後から響く蹄の音。これは迷いのない追手のものだ。黒い馬に乗り、夜を煮詰めたような黒色の装束を纏った三体の騎兵が現れ、逃げる兵士に迫る。
ハキムが助けようにも、距離があり過ぎて間に合わない。騎兵の振るった長剣の刃が月光に閃き、追い抜きざま、一撃で兵士を斬り倒してしまった。苦しげな断末魔が響く。
ネウェルでも馬に乗るアンデッドがいたような気がする。それとも城壁を突破してきた人間の斥候か。騎兵はその足を止めず、広場を横切って城館に近づいてくる。ハキムより先に出ていった兵士が見つかったようだ。
「おい、早く戻れ!」
ハキムが鋭く囁くと、兵士たちも危険を察知して踵を返す。ハキムが中庭の地面に降り立ったとき、小山の頂上で呻き声が響いた。風切り音がして、なにかが空中を通り過ぎていった。
先程の兵士が一人、中庭に転がり落ちた。その背中には、手斧のようなものの刃が深々と突き刺さっていた。
「敵だ!」
生き残った方の兵士が叫ぶ。トーヤは既に刀を構え、ドウルはエシカを下がらせる。魔術師たちも大儀そうに立ち上がり、襲撃に備えた。
ハキムは一旦前衛の後ろまで下がろうと思ったが、敵の速さをほんの少し見誤った。
黒い騎兵は広場を駆け抜けた勢いそのままに瓦礫の小山を駆け上がり、中庭に突入してきたのだ。木枯らしの音にも似た、掠れた叫び声のようなものが響き渡る。騎手が発したのだろうそれは、明らかに人間の声ではなかった。
まずい、と思ったときには遅かった。ハキムは突進してきた馬体に弾き飛ばされ、激しく地面を転がった。
ハキムの身体が小さかったのと、四肢を素早く丸められたのとで、ダメージは致命的でなかった。勢いのままリズを巻き込んで、なんとか止まった。
全身が痛み、頭がぐらぐらして立てない。それでも中庭が混乱に陥っていることは分かった。
グランデや普通のアンデッドは、力こそ常人を上回るものの精確さに劣る。しかし今の敵はアンデッド特有の無謀さに加え、馬上からの投擲で的を狙えるだけの技量を持っていた。
おまけに馬での機動だ。先程とは違う相手に、味方は苦戦を強いられているようだ。二、三と叫び声が上がり、視界の端で誰かが倒れる。
ハキムがようやく身を起こしたころ、立って武器を振るっているのは六人に過ぎなかった。
そのような強敵に対して、はじめて有効な一撃を加えたのはドウルだった。
「ぬうううぅぅぅえい!」
彼が持つような大剣は一般に取り扱いが難しく、普通は儀礼用や示威のために使われる。しかし確かに一部の時代や地域では、実戦に使用されることもないではない。たとえば騎兵を相手取った戦いでは、その長さと重さで乗り手を馬から叩き落とすことができる。
金属同士のぶつかる音が響き、黒い騎手の片方が落馬した。動ける兵士が、すかさずその身体に槍を突き刺す。貫かれ、地面に縫い留められるようになってなお騎手は動いたが、ドウルに顔面を叩き潰されると力を失った。
馬もまたアンデッドのようだったが、騎手ほどの脅威ではなかった。魔術師の一人が放った夜の火によって、大きな炎の塊となって燃え尽きた。
もう一方の騎兵を食い止めているのはトーヤだった。一体の騎兵が沈黙した時、彼は残った方の騎兵の正面からその下に潜り込み、馬の腹を大きく裂いたところだった。赤黒の内臓を派手に撒き散らして馬が倒れると、騎手も不安定な体勢で着地した。
ハキムは足元を手で探り、一度は取り落とした剣を騎手に投げつけた。兜を被った頭が揺れ、注意をそらした騎士の首を、後ろからトーヤが貫く。騎手が暴れるようにして武器を振るったが、その切先はトーヤに届かず、彼が刃をひねると、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「うう……」
足元でリズがうずくまっている。先程ハキムが転がってきたときに巻き込んだのだ。
「すまん。大丈夫か」
「ちょっとお尻打っただけ……」
リズに手を貸し、改めて中庭を見渡す。エシカは無事。今の襲撃で死者が二人、負傷が三人。戦闘可能な残りは全部で十一人。
一度落ち着いてからの揺さぶりは、味方の士気をさらに低下させた。しかしなお悪いことに、遠く城壁の外から、馬蹄の音とともに多くの気配が近づいてきたのだ。
「これは斥候だった」
トーヤが刃先で騎手の残骸を示す。
「どうする? ハキム」
ハキムは首の後ろをごしごしと擦り、考えを巡らせた。敵の目的如何だが、自分たちだけなら逃げ出せるか? エシカはどうする。魔術師たちは?
「カラマスはもう陥ちました」
メサ導師が静かに言った。彼女はまだ比較的余裕を保っていた。
「これ以上の耐久は無意味でしょう。私が敵の気を引きますから、あなたたちは落ち延びなさい」
「おいおいおい。死ぬ気か師匠」
「死ぬ?」
導師はわずかに口角を上げた。くだらない男の誘いを無碍にするときような口調だった。その暗い瞳は一条の月光も反射していなかった。
「まあ、そういうこともあるかもしれないですね」
そう言って、彼女は広場の方へ歩き出した。松明でできた影が幾本にも分かれ、地面をうねっていた。それはかつてハキムがイメージしたことのある蛇よりも、もっと奇怪な深海生物のように見えた。
きっとカラマスは少しあとの時代、死体の山とか、死の街とかいう名前で呼ばれるようになるだろう。しかし今はゆっくり感傷に浸る暇もない。ハキムは手早く、最低限の所持品だけをまとめ、都市を脱出するための手順を組み立てはじめた。