第一話 森の人狼 -1-
夏なお白銀を冠するネウェルの山々は、オヴェリウスとその配下であるキエス兵たちの手に落ちた。収穫前の段々畑は踏みしだかれ、遊牧のためのテントや石造りの住居は焼き払われ、ヤギは異形のアンデッドに変えられた。
痩せた山地で千年間夕暮の竜を守ってきた人々は、侵攻によって死ぬか散り散りになり、多くが命からがら西方のポート公国に逃れてきていた。
ハキムたちも負傷し、消耗し、ほとんど難民と同様の有様だったが、オヴェリウスの孫であり、かつて北方の王でもあったリコが残した秘儀書は、敵方に奪われることなく持ち帰ることができた。そしてもちろん、レザリアで手に入れたガラス球もある。
夕暮の竜と化したリコ王は、これを星渦の玻璃球と呼んでいた。いまだ正体は明らかでないが、やはりただのガラス球でないことは確かなようだ。
現在、ハキムたちが滞在しているリーヴの町から徒歩で一日の地点に、大公の軍が展開してオヴェリウスの軍勢とにらみ合っている。今のところ本格的な衝突には至っていないが、このまま平穏に停戦すると考えるのは楽観的に過ぎるだろう。
秘儀書と玻璃球を手にして、なにをなすべきか、どこに行くべきか。義理と金貨と真実を代わる代わる天秤に乗せてはみたものの、まだ明確な答えは出ていなかった。
ハキムたちがこの町についた当初、まだ状況は混沌としていて、町の外側には流民となった守り人たちの大規模な居留地ができていた。
しかし四、五日するうちにその規模は半分にまで減り、残りも徐々に片付けが進みつつある。彼らは戦乱を逃れ、より内陸や北方に移動するようだった。もちろん故郷に近いこの地に留まり、オヴェリウスの軍勢を押しとどめようとする者もいる。
混乱が解消されるにしたがって、外部からの出入りが禁止されていた町も開放された。到着して四日目には、ハキムたちも宿のベッドで寝ることができるようになっていた。
この日の昼、ハキムたちは酒場を兼ねた宿の一階で、今後の方針について話し合っていた。
「単純に金がないんだよな」
薄いスープに浸したパンを咀嚼しながら、ハキムは目の前で小袋を振る。中にはもはや銀貨が数枚入っているのみだった。
レザリアから持ち帰った金貨はラルコーで虜囚となった際に失ってしまった。ネウェルに入ってからも、まとまった現金を得るチャンスはあったが、それはみすみす逃してしまっていた。
「なんで竜の瞳渡しちゃったんだよ、もったいない」
木のジョッキに入った、この地方特有の黒っぽい酒を呷りながら、ジョウイが言う。一足早くポートに逃れていた彼とハキムたちは、昨日偶然再会したところだった。ラルコー領主の居城から盗んだ品を売り払い、懐がだいぶ温かいと自慢してきた。
「うるさい。過ぎたことを言うな」
「秘儀書と玻璃球を学院の伝統派に売る、っていうのは? メサさんに仲介してもらって。中身が必要なら、写本を作っておけば問題ないだろうし」
「学院が信用できる取引相手ならいいけどな」
学院には親オヴェリウスの派閥と反オヴェリウスの派閥があり、それぞれ復活派、伝統派と呼ばれている。これまでハキムたちを襲撃してきたのは復活派だが、伝統派が無条件に親切とは限らない。ハキムはリズやメサ導師を信頼している。しかし魔術師という人種そのものに対してはまだ不信を持っていた。
「かといってこのまま抱えておくのも、余計な面倒を招かないかな」
しばらくああだこうだと意見を交わしていると、酒場のドアが開き、若い女性が戸口に現れた。黒いローブを翻しながら近づいてきたのは、ハキムたちと同じくリーヴに滞在していたメサ導師だった。同じ町にいることは知っていたが、なにか忙しく動き回っていたようで、顔を合わせるのは三日ぶりだった。
「やあ、お嬢さん」
ジョウイが陽気に声をかける。いつの間に仲良くなったのだろうか。
「おはよう、ジョウイ。すみませんが、エリザベスたちに内密の話があります。少し外してもらえますか」
もともと学院の賢者であり、リズの師匠格でもあるメサ導師は、普通に考えればかなり高齢である。しかし魔術の代償なのか、特別な煎薬でも飲んでいるのか、彼女の見た目はリズと同じくらいに若い。導師はその瑞々しい手をジョウイの手に重ね、妖艶とも言える表情でにっこりとほほ笑んだ。
メサ導師の実年齢を知っているのかいないのか、ジョウイは彼女の指示に喜んで従い、時間を潰してくると言って外に出ていった。ハキムたちは机上に残っていた食器類を片付け、導師のためにスペースを空けた。
「……あいつ結構純情なところがあるんだから、あんまりからかわないでやってくれよ」
「心外ですね。からかってなどいませんよ」
ハキムは言葉の真意をあまり考えないことにして、メサ導師に本題を切り出すよう求めた。
「ここに到着してから、私はすぐカラマスの同志たちに文を出しました」
「カラマス?」
ハキムは尋ねた。
「ここから馬車で三日行ったところにある交易都市です。学院を追放された、伝統派の魔術師が多くいます」
なるほど、とハキムは首肯した。伝統派の魔術師たちと公国が協力関係にあるからこそ、大公の兵がオヴェリウスの手勢に対する防壁となってくれているわけだ。オヴェリウスの魔術やアンデッドへの強力な対抗手段となる秘儀書の所在は、彼らも気になるところだろう。
「で、なんだって?」
気になるのは魔術師たちの態度だ。彼らが選び得る選択肢として、メサ導師に命じてハキムたちを抹殺し、秘儀書を手に入れるというものもないとは言えない。
「貴方たちをカラマスで保護する、ということです。明日には迎えの馬車が来るでしょう」
「導師……。私が言うのも変ですが、大丈夫なんでしょうか」
リズは導師の眼を見てから、テーブルに目を落とした。彼女の学院における立場はかなり微妙なものだ。オヴェリウスに関する知識を勝手に探究した由で学院を追われ、刺客として差し向けられた魔術師数名を返り討ちにした。
彼らはおそらく復活派の魔術師たちだろうが、この件はもともと伝統派と復活派の争いの外で起こった出来事で、メサ導師が以前言及したように、伝統派が必ずしも彼女の味方ということではない。
「エリザベス。向こうはあなたのことを承知で招いているのです。私からも口添えしておきました。あなたが過去にしたことが原因で、制裁を加えられるようなことはないでしょう」
リズはまだ少し不安そうだが、その言葉で一旦は納得したようだった。
「メサさんはどうするんです」
トーヤが尋ねた。
「私はまだこの場所ですることがありますから、一緒には行けません。しかしあなたたちであれば、あっさり手玉に取られることもないでしょう」
メサ導師はその若々しい顔でいたずらっぽく微笑んだ。
「まあいいさ……。旅費も出してくれるんだろ?」
どうせほかに行くあてもなく、秘儀書と玻璃球を金貨に換える伝手があるわけでもない。少々の不安を抱えながらではあるが、ハキムたちは招きに応じ、カラマスへと向かうことにした。
◇
「それじゃあソニア、元気で」
リーヴの町はずれ。見送りに来たソニアに跪き、トーヤが別れを告げる。彼女の傍らには、ネウェルでの戦いで片腕を失った叔父のマリウスもいた。草原を吹く風が夏の匂いを運ぶ中、ハキムたちは互いの健勝を祈り、いつかの再会を約束した。
「みんなが疲れて戻ってきたとき休めるように、いつでもパンを焼いて待ってるから。ちゃんと帰ってこないとダメだよ」
父親と故郷を失ったソニアの心痛は計り知れないが、彼女の気丈な振る舞いは、多少なりともハキムたちを元気づけた。
「じゃあ行ってくるぜ。そっちも無事でな」
カラマスから迎えに来た馬車は、質素ながら座席が付いた、しっかりとした造りのものだった。貨物用の馬車に便乗して寝転がりながら行くのもいいが、こういう待遇も悪くない。
引くのは二頭の馬。御者が一人に、護衛の騎兵が四人いる。野盗程度なら彼らに任せておいて問題ないだろう。この人数と武装を見てもなお襲ってくる、勇猛果敢な無法者がいればの話だが。
ハキムはネウェルの山々を振り返り、その地に抱かれて眠っていた夕暮の竜に束の間思いを馳せる。彼がそこにいた意味と、秘儀書が自分の手元にある意味を考える。
改めて考えると、一介の盗賊にとってはあまりに大それた旅だ。放り出した方がいい、と思う気持ちがないではない。成果を求めようとするのは危険だ、という認識は拭えない。それでも渦の中心に吸い寄せられるように、自分は今この場所にいる。
「ハキム、早く乗って」
リズに急かされた。この場所にいるのが自分だけでないことを意識する。ハキムはひとまず難しく考えるのをやめ、二頭立ての快適そうな馬車に乗り込んだ。