四、あたらしい旅路とあたらしい
どうしようもなかったキリスは、なんとか木を見つけ、木の下で夜を明かした。
日の出が泣きたくなるほど綺麗だった。ゆらゆらと昇っていく日が辺りを照らしてくれる。
つ、と涙が流れていく。辺りは一面の荒野だった。ここもサングリアなのだろうか。トツキンはサングリアに帰れると言っていた。それを疑うわけではないが、人の姿と人気と建物の全てがないのは不安で仕方なかった。
「ねぇニュイ、どうしよっか」
キリスはぼんやりと地平線に張りつくような家々に向かって歩き始めた。
どうしようもないのだ、本当に。
町に向かう。
いつまでかかるか分からないし、まあゆっくり歩こうと思う。キリスはニュイと適当に喋りながら長く、長く歩いた。
影だけがくっついてくるのは気楽なものだ。
やがて、十二、三歳くらいの少女が走ってきた。
「どうして? どうしてこんなところに?」
少女は息を切らせながらキリスを見る。
「それはわたしも訊きたいことなんだけど」
「でもあなた、悪魔憑きでしょう」
キリスは押し黙った。
手套をしていなかったことが原因とは言え、ここで何か言いがかりをつけられて、もうすぐ着きそうな村に入れなかったら困る。
「……退魔師と言って欲しいね」
「退治して欲しい悪魔がいるの!」
キリスが驚きの声を上げるなか、少女はキリスの腕を引いて村へと向かった。
全くわけが分からない。引きずられるように移動して、目の前に原形をとどめていない男を、見つけた。
「あなたは下がってて」
少女を庇うようにキリスは立ち、男と対峙する。
風が吹いている。キリスのマントの裾をさらって、過ぎ去っていく。男はキリスの姿を認め、目だったであろう、表に飛び出した球体をぐりんとまわした。男からはしゅうしゅと湯気が立ち上っている。肌は裂けおぞましい赤が剥き出しだ。
――気味が悪い。
「ニュイ、どうする」
キリスの影からぬっと黒猫が現れる。
「わあ、可愛い猫!」
少女は虚勢を張っているのだろう、声と裏腹に顔は青ざめている。
ニュイは少女の反応を無視し、しっぽをゆらりと動かした。
「分かった。喰っていいよ」
キリスの声に嬉しそうに背を伸ばしたニュイは、しゅっと跳んで空中で消えた。音委子は低く唸って、ニュイが消えた中空に球状の腕を伸ばす。じゅっと何かが焼けるような音がして、黒い煙が一瞬上がった。
意味不明なことを叫びながら、男は後ろに大きく仰け反る。
見えない何かに男は喰われていた。少しずつ男が欠けていく。男の叫びは大きくなり、ふっつりと消えた。喉が喰われたのだ。
げぼげぼとキリスがむせる。手で口をおおう。
「お姉さん、大丈夫?」
少女が心配そうにのぞき込む。キリスは血を吐いていた。それを見た少女は喉に張りつくような小さな悲鳴をあげる。
「大丈夫じゃない、けど、心配しないで」
キリスはやっとそれだけ言って、まっ赤になった手のひらをニュイに差し出した。ぺろり、と大きな舌が手を綺麗に舐める。
「大丈夫なの……?」
「たまにある」
黒猫が満足げに舌で口元を舐めた。男の姿はなくなっていた。
からん、とメダルが地面に転がった。
「さて、じゃあ、わたしはこれで」
メダルを拾って、キリスは少女の前から立ち去ろうとした。
行く先に少女が立ちふさがる。
「待って」
「まだわたしに何か用が?」
「あたし、ギルバレッタ」
キリスはわけが分からず首を傾げた。なぜここで少女が名乗るのか。退魔師のキリスは、名前や言葉がどれだけ重要か知っている。下手に退魔師に名前を教えてはいけない。この国の人間なら、まず最初にそう言い聞かされるのだ。
悪魔が意図せず、契約者を乗っ取って、危害を加えてくる可能性が上がるから。
「お姉さんは?」
「退魔師相手に名乗るなんて、勇気があるね」
キリスは人間が嫌いだ。
でも、主義主張を変えてもいいかもしれない。
「そうよ、勇気があると思うわ、あたし。だって家出してきたんですもの」
ギルバレッタは胸を張るが、あまり胸を張ることでない気がするのはキリスの気のせいだろうか。そもそも出る家があること自体、キリスにとってはそれなりに羨ましいことなのだが、その話をするとフルネームを名乗らされかねない。
「……驚いてる?」
「一応」
半分あきれているが正しい。
「それで、お姉さんの名前は」
「……キリス」
なんとなくギルバレッタの目的が透けて見えてきた。
つまり、だ。
「キリスは旅してるんだよね」
「せざるを得ないからね」
ほら、やっぱり。
「あたしも連れてって! 男の悪魔憑きと組むよりずっといいと思うの!」
「だからわたしは退魔師だと何度言わせる……」
キリスの言葉を半分も聞いている様子のないギルバレッタである。
キリスは改めてギルバレッタを見る。燃えるような赤毛に青みの強い緑色の目、身なりはワンピースに上着だから、そこらへんの村娘なのだろうと思う。顔が黒いのはおそらく家出して日が経っているからだろう。
よくもこんな世間知らずな娘が、なんの被害もなくここに立っているな、とキリスは感心した。
「決まりね!」
ギルバレッタは嬉しそうだが、キリスはため息をつきたくなった。トツキンに文句を言いたくなるが、彼の采配が悪いとは言えない。
「――ギルバレッタ。隠してることがあるなら、早めに白状してね」
「えっ? あ、あたしに隠し事なんてないよ?」
おどおど言われても、焦ったように顔の前で手を振られても、全く説得力がない。
だが、キリスは少なからずギルバレッタを好ましく思っていた。
信じてもいいような気がしたのだ。
彼女の嘘はすぐ見破れそうな気がした。
* * *
取り敢えずギルバレッタに湯を使わせてやろうと、キリスはその日、早めに宿を探した。近隣の人家がすぐに見つかって、ほっとしたのは言うまでもない。
「えっシャワー? シャワー浴びられるの?」
甲高いギルバレッタの声に一瞬耳をふさぎそうになったキリスである。
「何日か入ってなかったみたいだから」
「え、あたしにおう?」
「まだそのレベルじゃない」
一時間くらい、宿でギルバレッタは湯を使っていた。キリスはその間、ギルバレッタの不審な点を洗い出そうとしていた。
「まずなんてったって、まっ黒になるくらい日が経ってるのに、キズひとつないなんておかしいでしょ」
ニュイは影から出てきて、キリスの膝の上でごろごろと喉を鳴らしている。猫の真似もうまいとキリスは頷く。
腹の中にいたキリスにニュイが、一方的な契約を取りつけている。生まれつきの退魔師とはそういうもので、ニュイはキリスをずっと見てきている。キリスが危険に晒されるとニュイが勝手に人を殺す、なんてことも以前ならあったことだった。
そういう守り手がいるならともかく。
女の子、まだ十歳と少しの少女。しかしキリスはギルバレッタが人間かどうかすら疑っていた。
人間、悪魔以外にも、人間らしく見えるものは存在したはずだ。ただ、キリスにはそれが何かまるで分からない。気になるが、どうしても思い出せない。記憶の一部が喰われてしまったかのように。
「ねぇニュイ、なんなんだろうね」
ニュイが答えるはずもなく、キリスが自問自答している恰好だ。
まもなく、ギルバレッタが薄着で部屋に戻ってきた。
「気になる?」
ギルバレッタが何を言いたいのか、キリスには分からなかった。
「何が」
「気にならないならいーや」
ギルバレッタはふいっと顔を背けた。キリスはその横顔に言ってやることにした。
「人間じゃないのは知ってるよ」
「えっそれは知ってるの?」
ギルバレッタは驚いているようだ。
キリスはふーん、と気のない風を装う。
「自分から言うつもりはない?」
興味はある。だから訊く。
「うーん、もうちょっと考えさせて?」
「ふーん」
キリスも湯を使うことにした。




