三、わたしは何を望む
「つまらない話はおしまい?」
「キリス、手強いことを言うね」
ずっと黙って聞いていたキリスだったが、そろそろ限界だった。ニュイも足下でうずうずしている。
「つまらないとは言うけれど、静かに聞いていたじゃないか」
「話の途中に割って入られるのが嫌だから、わたしは他人にそうしないだけ」
「それはいい心掛けだね。つまらない話はお終いだよ」
にっこりとトツキンは笑う。もうニュイはキリスに許可を求めず、ぐわっと口を開いてキリスを喰った。
キリスの目がまっ赤に光り、手はヤツデの葉のように大きくなった。そのキリスを前にして、トツキンは全く表情を崩さない。
「キリス、その悪魔に名前はあるのかい」
キリスは答えない。
「その子は喋れないのか」
キリスは頷く。
「そうだな、名前くらい当てられないわけじゃないんだが。名前を呼べないと不便だよね」
キリスは何も言わない。トツキンとの間合いを取ろうと、張り詰めた空気の中でじりじりと距離を詰めている。
「でも本当は喋れるんだろう? そのくらい高位な悪魔が喋れないわけないからね」
トツキンは笑みを絶やさない。
キリスが飛びかかる。しかし、そこにトツキンはいなかった。一瞬でトツキンは三メートル横に移動していた。
「あまり小賢しい真似はしたくないんだけどね。世界の創始者との契約に僕の殺害を禁じる一言はなかったかな」
トツキンは半分目を閉じて話している。キリスはす、と手を上へ掲げた。雷のような光がトツキンに向かって落ちる。やはりトツキンは一瞬で離れた場所へ移動していた。
キリスは猫のように唸る。
「僕とお喋りする気はないかな」
トツキンはキリスに一切攻撃してこない。本気を出す気はないらしい。
「悪魔、僕はどちらかと言うとキリスとの対話を望むよ。サングリアの皇帝が暗に僕の殺害を命じたとしても、暴力によって解決されることを僕は好まない」
ひゅ、と黒猫がキリスから抜け出した。キリスの目は琥珀色に戻り、どさっと地面に倒れた。ニュイは毛を逆立ててトツキンに威嚇している。
しばらくは誰も喋らなかった。
ずるずるとキリスは身を起こし、椅子に座る。ニュイが魔法を使ったものだから、このまま眠ってしまいたいくらい、キリスは疲れていた。
「キリス、しんどそうだね」
「わたしが望んだこと。別にしんどいとは思っていない」
ふむ、とトツキンは首を傾げる。
「でも傍から見ると、キリスはつらそうだよ」
初めて言われたことだった。キリスははっとしてトツキンの瞳を見る。血の色が透けた赤い目は、何を考えているか語らない。
「つらい、ね」
キリスはつらいと思ったことはなかった。母は死に、父からは遠ざけられ、人々からは忌み嫌われる。
これをつらいと人は言うのだろうか。
「同情されても、何も変わるわけじゃない」
ようやくキリスが絞り出した言葉は、かなり湿気ていた。涙が混ざりそうだった。キリスは顔を見られまいと俯く。
「サングルはね、」
トツキンも椅子に座り、俯いているキリスをのぞき込む。
「世界を創って、そこで力尽きて消えてしまったんだ。きっと。なんで僕のことを気にかけてくれていたのかは分からずじまいだけれども。キリスも、自分を大事にした方がいいよ」
筋が通っていないことを言われたとキリスは感じた。
でもなぜだろう、心がすこしあたたかくなった気がする。
「今まで何人か人間に会ったことがある。でもだいたいの人間は魔法の気配に圧されて、悪魔憑きよりひどい状態になってしまう。会話なんて成立しない」
「それで、陛下に無理を言ったの」
「僕がどんな要求をしたのか、キリスは全部は聞いてないんだろうね。僕はキリスを、ずっとここに閉じ込めておくかもしれない、というニュアンスのことも言ってる」
「……生け贄ね」
「まあそういうこと。本気でそうするつもりは毛頭ないから、安心してね」
ニュイがキリスのそばに寄ってきた。脚に身体をすり寄せる黒猫、本当に猫みたいだ。
キリスの気持ちをニュイは分かっているのかもしれない。分かるのかもしれない。
「少しは楽になった?」
トツキンは、とキリスは思う。
この人は何がしたいんだろう。
そう思いつつ、頷く。楽になったのは確かだった。
「わたし、……なんだろ」
キリスは言葉に詰まった。風もない次元で、ぱっと映像が映し出された。キリスがびっくりしていると、くすくすとトツキンは笑う。
「何を驚いてるんだい。世界は見ることができるって言ったじゃないか」
「驚くよ」
どこの映像かは、すぐに分かった。
皇帝の、とても個人的な部屋だ。サングリア城の塔の一番上。そこにいたのは、皇帝と次期皇帝だった。
「本当によろしかったのですか、陛下」
兄が皇帝に意見している。おごそかな、一面薄い青の部屋だった。窓はなく、ろうそくの明かりがゆらゆらしている。兄のこんな表情を見るのは初めてだった。
キリスは兄の幼い頃もろくに覚えていない。ほぼ城の外で育ったキリスは、庶子と言えど城の中で育った兄のフルネームも言えなかった。
そんな兄が、切羽詰まった顔をしている。余裕はまるでなかった。
「良いも何も、これでおまえの帝位はより確実なものになるのだぞ」
皇帝は兄の意見を聞く気もないようだった。何を当たり前のことを、と一蹴している。
「ルキリスィアを亡き者にする、とても良い機会ではないか」
呵々と皇帝は笑う。細めた目が愛おしげに兄を見る。
「しかし、陛下」
「驚かせてくれるな。妹がそんなに大事か?」
兄は、とキリスは分かってしまった。兄は少なくとも、キリスの死を望んでいないのだ。
なんて意外なことだろう。
予想も予測もしていないことだった。
てっきり兄はキリスを消し去りたいのだと思っていた。自分の利害を考えれば当然の話だ。ご世継ぎはひとりで十分なのだから。
皇帝の意図は薄く透けて見えていた。今回、キリスを世界の管理者とやらのところへ送りこみ、キリスが死ぬかもしれない状況にする。
キリス自身はまんまと策に嵌まって死ぬ気はなかった。が、皇帝が自分を死に追いやろうとしていることくらいは分かっていた。
こんなことくらいでショックを受けるとは思っていなかったから、少なからず何も言えない自分に驚いていた。
「別に、おかしいことではないでしょう。私のたったひとりの妹です」
兄はキリスに生きていて欲しいらしい。
こんなところに転がっているなんて思いもしなかった、やさしい、あたたかい気持ちに触れた、気がした。
「これは幻じゃない」
トツキンはキリスに言った。言い聞かせるように。
「僕やキリスの作り出した願望でもない。ただの、事実だ。実際にあったことだ」
目の前の映像が、ぶつっと音を立てて消えた。
「わたしのこと、少しは大事にしてくれたんだね」
なぜ涙が流れるのか、キリスには分からなかった。やさしくてあたたかくてどこかくすぐったい気持ちは、体験したことのないものだった。
この涙の温度、何度くらいだろう。
「キリスはもう少し、優しくされるのに慣れた方がいいのかもしれないね」
ややあってからトツキンは言った。
「人を信じたっていいと思うんだよ、僕は。僕がキリスをここに呼んだのも、気まぐれとそういう理由さ。だって」
愛を知らないなんて、あんまりにもさみしいじゃないか。
「トツキン?」
「別に不思議そうに訊くことじゃないよ」
にこ、とトツキンは笑って問う。
「ルキリスィア、マツェ・レ・キリスィア?」
悪魔たちに、キリスが何度も問うた言葉。そう訊かれるということは、すなわちニュイ、ひいては自分が負けて、殺される時だと思っていた。
キリスはなんと答えていいか迷う。
ルキリスィア、あなたは何を望む?
「ル・イース」
たどりついた答えは、それだった。
「ル・キリスィア・ル・イース」
自分に言い聞かせるようにもう一度言う。
「それで、いいんだよ」
わたしは、とキリスは何か言おうとした。単に恥ずかしかったのか、照れくさかったのかもしれない。
風のない、天気も分からない異次元で。
キリスはなんだか、生まれ変わったような気がしていた。
「さて、世界の管理者は、相変わらず退屈な、世界の管理をするだけだ。キリスはどうする」
ニュイが話に興味をなくしたのか、毛繕いをしていた。
キリスは言葉に詰まる。
帰る。どこへ? キリスの居場所はどこにもない。
ここにいる。どうして? することなんてないじゃないか。
わたしは――。
黒い髪を梳いて落ち着こうとする。わたしはどうすればいい? わたしはどうしたい?
「ひとつだけ言っておくとね、キリス。居場所は自分で作るものだよ」
は、っとした。
まるで考えを読まれたみたいだ――いや。創造物のひとつの思考くらい、管理者なら読めて然るべきなのかもしれない。
「居場所が最初からある人なんていない。自分で誰かと、なんとか心地よい距離を見つけるしかない」
トツキンは空を見上げる。空なんてないから上の方。ただの白い、どこまで続くか分からない天井。
「トツキンからのアドバイスは、それくらい?」
「うん。決めるのはキリスだからね」
ニュイ、とキリスは呼びかける。
ニュイは不思議そうにキリスを見上げた。
これだけで、キリスとニュイの会話は成立した。
「元の、サングリアに。帰れる? 帰してくれる?」
トツキンは頷いた。
「物語は始まったばかりだよ」
行っておいで、とトツキンは両手を広げた。まるで抱きしめようとするかのように。
また全身を強打する痛みに襲われて、キリスは重力のない空間をしばし漂い、地面にたたきつけられた。
鈍い痛みと音が走る。
「……ここは?」
地面は石ではない、大地だ。土のにおいがしている。
辺りはすっかり日が暮れた後のようでまっ暗だ。ニュイが見えもしないキリスの影に潜る。サングリア城ではない場所。ここが首都のはずれかどうこかなのか、キリスには見当もつかない。
そもそも、まっ暗で視界の手がかりがなかった。
「ニュイ、はどこか分かる?」
答えはないが、キリスは気配で分かるらしい。そうか、とだけ返事する。
「ル・キリスィア・ル・イース」
新しい名前のようにも聞こえるな、とキリスは思った。
琥珀の瞳にやわらかい光が宿った。




