二、世界の管理者の次元の庭の
わけの分からない浮遊感に、キリスは顔をしかめる。身体じゅうが痛い。ニュイが泳ぐようにこちらへ来る。
「ルキリスィア」
「……キリスでいい」
青年の声がする方へ、キリスは泳ぐ。息ができる水の中にいるようだった。
間もなく、明るい別の場所へ出た。まっ白い空間、こちらは足が地面をとらえたので安心する。
目の前には卵の殻の半分を模したような椅子があって、そこに白髪で赤い目をした青年が、なんの表情もなく座っていた。
「キリス、がいいのかな」
「……ええ」
凡庸な青年に見える。特に美しいわけでもない、どこにでもいそうな若い男性。集団の中においたら紛れてしまいそうなほど特徴がない。
冷めた赤い瞳だけが、印象的だった。
キリスは青年に一歩、一歩と近づく。
「悪魔と契約しているところを見ると、」
ニュイは遠慮無く青年のそばに寄っていく。
「魔法の心得はあるんだね」
キリスと青年との距離はもう一メートル程度、触れれば届く距離だった。特に害意は感じない。感じられない、だけだろうか。
「生まれた時から悪魔と契約していたようだから、自分の意思だったわけじゃない」
この青年が、世界の管理者なのか。
見下ろすのも失礼かな、と珍しく殊勝なことを思ったキリスは、その場に跪く。ああ、と青年はキリスの後方を指差し、座ると良いよ、と言った。何もないじゃないか、と振り向いたキリスは驚く。そこには目の前にあった椅子と同じ椅子があった。キリスはおそるおそる座る。座面はふかふかだった。
「あ、ありがとう」
「いや。礼には及ばない」
あなたが、とややあってキリスは口を開いた。
「あなたが、世界の管理者?」
思っていたより威圧感もない。緊張させられない。まだ皇帝の方がキリスに緊張を強いた。
この青年が、本当に世界を管理しているというのか。とてもそのようには見えなかった。
「ああ、そうだよ。この世界を創作した子が友人でね。その子が消えてしまったから、僕はこうしてここにいる」
簡単に言うが、世界を創作できる子が友人なんて途方もないことだろう。
「世界より先に人間がいた?」
「僕は……そうだな、キリスの言うところの人間とはたぶん違う。神という概念とも違うんだろう。僕はどんな生き物でもないのかもしれない」
キリスからすれば、よく分からないことだらけだった。
この目の前にいる、人間にしか見えないモノは、人間ではないと言う。神でもないと言う。ならば。
「なんて、呼べばいい?」
「僕か。僕はトツキンと呼ばれていた。レトツキニオ」
「レ・トツキニオ(あなたはまもる)、ね」
トツキンは頷いた。
「キリス、名前は確かに悪魔には良いエサかもしれないよ」
どきりとした。
それも当然か、と思い直す。相手はおそらく、誰とも何とも契約しないで魔法を使えてしまうモノ。人間と同じ、と思ってはいけない。
首筋に剥き出しの刃を当てられたかのようだった。ひそやかな高揚感、きっとこれは相手を殺そうと思うからだろう。
見極めろ、と皇帝は言った。
その後はおまえに任せる、とも。
そのことばの裏の意味はキリスにだって分かる。自分より上の者がいることが気に食わない皇帝、こんな邪魔者には素直に消えてもらいたいのだろう。
殺せそうなら殺してこい。手段は問わない。
キリスは自分自身のためとニュイに言った。ニュイの血の渇きを癒やしてやりたいからなのか、もう数えることをやめてしまった自分の心の傷を他人になすりつけたいからなのか。
もはや、どうでも良かった。
キリスには今しかなかった。常に。
「キリスの大体の目的も分かったしね。ただね、それはやめておいた方がいい」
「なぜ?」
「キリスからすれば僕が死んで世界がなくなれば本望だろう。僕にしても世界からやって来た人間を消せればまた退屈な日々が取り戻せるから、どちらに転ぼうが利害は一致している」
ニュイがキリスの足下にじゃれつく。早くしろ、と急かしているのだ、この悪魔は。
「ただね、僕の話をひとつ聞いてからにして欲しいんだ」
「トツキンの話?」
「そう、トツキンと名前もない誰かの話さ」
* * *
友人、と呼ぶには甘すぎる関係だったし、恋人、と呼ぶには未熟な関係だった。
トツキンと同じような姿恰好の、見た目は少女にしか見えない、名のないモノ。トツキンは尋ねた。名前は要らないのか、と。
「あなたが勝手につけてくれていいわ」
だからトツキンは名前を持たないモノにサングルと名前をつけた。サングルという名前をもらった見た目少女は、
「サングルに面白い意味を持つことばを考えましょう」
と言った。それが今、トツキンの喋っている言語である。トツキンとサングルはことばとは言い難い、何か別のもので会話していた。いつからトツキンのそばにサングルがいたか分からないが、たぶん神と呼ばれる存在が何とはなしにトツキンとサングルを創ったのだと了解していた。
サングルは、トツキンにレトツキニオと名前をつけた。サングルが考えたことばでふたりは話すようになった。
サングルはひとつの世界を創ると言っていた。気の遠くなるような作業だろうけれど、面白いことが他にないから、とサングルは言う。
「僕が見ててもいいかい」
「ええ」
トツキンはそんなサングルと話をしたり、作業を眺めたりしていた。
少しずつ、世界は創られていった。
悪魔がそこに住まわせてくれ、とやって来た。悪魔に特に感慨を持たなかったサングルは、すぐにそれを承諾して、悪魔を世界に住まわせた。
特に世界が壊れることはなかった。
「なんで悪魔に住んでいいと言ったんだい」
「誰にだって住む場所は必要だよ。大丈夫、世界を強sない、同胞がもし禁を破れば皆引き揚げるって契約を書いてもらったからね」
サングルが見せたのは、確かに守らなければ悪魔たちに害が及ぶであろう宣誓書だった。守らないということはできない内容だった。
それからというもの、トツキンは悪魔を面白く観察するようになった。世界の内側で起こったことは、見ようと思えば見ることができたから、中で何が起きているのか知ることは容易だった。サングルは人間を創っていた。他の世界にもいると言われている人間だ。
「なかなかこれが厳しくてね。少し、人間の力を超えた人間も創りたいのだけれど、あまりそれをやってしまうと律が崩れちゃう」
サングルは珍しく悩んでいた。あれこれとトツキンも案を出した。
「少し力があるって、所謂魔法が使えるような?」
「そう。でも人間に魔法を使わせるとろくなことにならないって話も聞いてるし」
サングルには世界を創ったことのある知人がいるようである。
「何かと契約させるとか」
トツキンの思いつきに、サングルはそっか、と破顔する。
「悪魔と!」
「あ、悪魔と……」
トツキンは、自分は何を期待していたのだろうか、となんとなく落胆した。確かに悪魔と契約してしまえば、魔法を間接的に使って「人間の力を超えた人間」を創ることは可能だ。
「悪魔が契約したがるかな。人間にしかメリットがない気がする」
「トツキン、悪魔は人間を見てたら飽きないと思うんだよね。破滅させる相手がいるってことだし」
「人間を滅ぼしてもどうしようもないと思うよ」
「自滅するなら話は別よ」
悪魔にとっての娯楽提供、ということらしい。
「人間に余計な力を持たせる必要もない気がする」
「どっちにしたって、いつかは余計な力を持った人間が生まれるのよ。試してみるわ。悪魔とも交渉して」
トツキンは自分が世界を創っているわけではないので、それ以上口は挟まなかった。
「悪魔にも王がいるのかな」
ただ純粋な疑問を口にした。
「いるわよ」
す、と世界の出入り口に姿を現したのは、コウモリだった。目がやけに赤くぎらぎらと光っている。
「呼びましたね」
問いではなく確認だった。悪魔の姿形は一定しない者もいると言う。トツキンにはあまり悪魔についての知識はない。ただ破壊や破滅が好き、世の理をねじ曲げる魔法が浸かる、そのくらい。
「今代の魔法はそんな姿なのね」
サングルの知識にトツキンはいつも驚かされる。そこまで豊富な知識はどこからくるのか。
「は。お初にお目に掛かります。どういったご用件でしょうか」
コウモリ――いや、悪魔たちの頭、魔王は恭しく言う。サングルは世界の主だからかしこまる。そういうものなのだろう。
「人間と契約してみる気はない?」
サングルの提案に、魔王は甲高い声で笑う。
「面白い。大変興味深いお話しです。私の一存で返事をしても良いのでしょうか」
「悪魔の全てが人間の誰かと契約しろという話ではないの。一部の物好きだけで結構よ」
ますます楽しそうに魔王は笑った。
「それでは、人間と契約してみましょう。破滅する人間――想像しただけで愉快です」
魔王はサングルに礼をして、正確には謝辞を述べて帰っていった。ものの五分とかからない話だった。
「これで人間の一部が非常に大きな力を持つ場合もあり得るわ。これで少しは面白くできたかしら」
サングルは世界を眺めて満足げに言う。
「トツキンは不満そうね」
「別に不満なんてないよ。ただ、悪魔と契約する人間が差別されそうでね」
「差別されるでしょうね。でも人間って元々そういう生き物じゃない。何かにつけて差別する、差別したがる」
トツキンは、サングルの浅慮ではなかったことを知った。やはり世界の創始者たるもの、深くいろいろと考えているらしい。
「悲しいけれど見ていて面白い、人間の性よ」
「サングルは、なんで」
トツキンは、永年の疑問をついに口にした。今なら言えると思ったのである。
「なんで、サングルは世界を創ろうと思ったんだい」
サングルは首を傾げた。視線が空を泳いでいる。
「それはね、」
しばらくして、茶目っ気たっぷりに微笑んでサングルは言う。
「秘密よ」
トツキンはしばらく重たい目でサングルを見ていた。居心地の悪さなど全く気にしているふうではなかったサングルだが、ややあって再び口を開いた。
「残そう、と思ったの。あなたに」
「……僕に?」
意外だった。なんとなく遊びで創ったと言われた方がまだ納得がいった。予想の内におさまる回答をしないのがサングルの常だったが。
「あなたはさびしい人だったから」
すとん、とことばが腑に落ちた。




