魂の護り手
物心が付いた時、既に私は彼の側にいた。
まだ幼さの残る彼の側に、それよりも幼い私が小さな手に剣を携えて侍女のフリをした護衛として仕えていた。
今思えば、おかしなことだと思えるのだけれど、そこには幼かった頃の私にすらも勝てる腕を持ったものがいなかったのだ。
彼は、そこでは生ける神そのものだった。
産まれた時からそうだったのかどうかは知らない。
それは、私が生まれる前の話なのだから。
ただ、彼がその手で誰かを癒すたび、忌み子と呼ばれる自分と彼がどれだけ違う存在かという事が分かって、そのたびに胸に穴が開いた様な変な感覚が襲ってきたのをやたらと鮮明に覚えている。
今思えば、私が私である事を認識し出したのはその時だったのではないかと思う。
「レプトス」
陽光の中、日課でもある庭園を散策している時、不意に立ち止った彼に呼ばれ視線を向ける。
白銀の髪を輝かせ振り向いた彼の手には、いましがた手折ったばかりの可憐な紫の花があった。
「もう少し、こっちに来てくれ。」
戸惑い立ち竦んだ私に、仕方ないと言う顔をして優しく微笑むと彼が近づいて来て手の中の花を私の髪に挿しこみ、少し顔を離してその飾りを確認する。
「え…」
「ああ、お前の漆黒の髪に良く映えるな。」
「あの…」
「その紫水晶の様な瞳にも合っている。今日はそのままにしておけ。」
機嫌良く含み笑いをしながら、肩で切り揃えた髪のひと房に口づけを落とすと何事もなかったかのように散策を再会する。
…私は、頬に熱が集まるのを感じて身の置き所がなかった。
永遠に続くかと思われた安寧の時は、突然破られる事になった。
南のヴァルーエ王国が、通常ならば当然行われるべき宣戦布告もなく攻め込んできた為だ。
戦争の理由は「神を詐称する神子の討伐」。
何の準備もされていない神国ラトレイアに、準備万端で攻め込んできたヴァルーエ王国を止める力は無かった。3日という短期間のうちに城は陥落した。
ただし、ヴァルーエ王国はその本懐を遂げる事は出来ず、神子はあっさりとその手から落ちのびる事に成功していた。
ラトレイアの領内を探しまわっても神子を見つけられずに、ヴァルーエの陣営が発狂せんばかりになっていた頃。私はおんぼろの木賃宿の1室で呆然と彼を見上げていた。
目の前に居る彼の白銀の髪は、今は漆黒に変わってしまっていて見る影もない。
サラサラで真っ直ぐだった髪質も、ウェーブが掛かってしまって別物だ。
「後、変えるとしたら瞳の色と肌の色か。」
「!!!」
呟きながら、自らの目に触れようとする彼の手に思わず縋りつく。
それは、嫌だった。大好きだった彼の輝ける白銀の髪が無くなってしまっただけでも胸が張り裂けそうなのに、私を見て、何度も優しくほほ笑んでくれたその銀灰色の瞳まで喪われてしまうのは耐えられない。
目からは勝手に涙が溢れてきて、さっきから、口が動くばかりで言葉がでない。
涙なんて、枯れ果ててしまってもう出てくる事は無いと思っていたのに。
必死に縋りついて首を横に振る私の背中をさすりながら、彼は優しく言い聞かせるように私に語る。
「レプトス。髪の色が変わろうが、瞳の色が変わろうが。俺が他の誰になる訳でもないだろう。」
「…でも…でも…。」
子供の様にぐずる私に苦笑しながら、彼は言葉を続ける。
「この髪だって、お前と同じものだろう?」
「え…」
「意外と似合ってるんじゃないかと思うんだが…。」
クルンと巻いた前髪を弄り少し照れくさそうに頬笑みながら口にされた思いもよらぬ言葉に、思考が一瞬止まった。
この漆黒の髪は、人々に忌まれる魔族の象徴で、それゆえに私は忌子として親にも捨てられた。
捨てられた理由はもう一つあるにせよ、この黒髪も大きな原因だったのをその時の私は理解していた。
なぜ、彼はそれが私の物と同じだと、嬉しそうにしているのか全く分からない。
「そうだな…。お前と同じというのも捨てがたいが…。
お前が俺の銀髪を惜しんでくれるなら、これからそれはお前のものだ。」
彼はそう言いながら、私の頭を優しく撫でおろした。
私の肩で切り揃えられた黒髪は、その一瞬で白銀色に変化した。
不規則な丸みを帯びた癖っ毛もまっすぐになり、長さも腰の辺りまで伸びている。
驚き戸惑っていると、両脇の髪を摘まんで耳の辺りに長さを揃え直された。
「こっちのほうがいいな。」
目をしばたたいている私に微笑みかけると、そっとおんぼろなベッドの端に腰を下ろさせる。
ギシッと鳴る音に心臓を掴まれた様な気がした。
「それで、お前はこれからどうしたい?」
「…これから?」
訳が分からない。
私はこれからも彼の側にいるんじゃないのだろうか?
「お前の忌まれる理由はもうないだろう?
どこにでも行く事が出来る筈だ。」
突き放す様なその言葉に、胸が痛んだ。
思わず、心臓のある辺りをぎゅっと握りしめる。
「今のお前は、剣の腕が立つただ美しい女だ。
だから、無理に俺についてくる必要はない。
お前は自由にするといい。」
真っ直ぐに見詰めてくる彼の言葉に、また涙が溢れてくる。
「泣くな…」
その言葉と共に、彼の顔が間近に迫って来て私の瞼に唇が宛がわれ、微かに濡れた音がした。
思わず閉じたもう片方の目から落ちた涙が頬を伝う。
「もう…お側に…事は叶わな…か…」
喉がひきつって、声がうまく出ない。
彼の唇が自らの頬を這うのに戸惑いを感じながらも、しゃくりあげるのが止まらない。
気が付けば、いつの間にか両の手首を抑えられ、ベッドの上で天井を見上げていた。
体に感じる、彼の体温と重みに戸惑う。
「護衛なら、もう要らない。」
耳元で囁かれる言葉に、熱っぽさが込められているのを感じで初めて疑問に感じる。
これは、もしかして、ある筈のない事が起こっているのではないだろうか…?
呆然と天井を見上げながら考える。
『護衛なら要らない』。
これは、私の存在意義を正面から否定した言葉だ。
私にできる事はそれ以外に無いのだから。
それなのに、そう口にした彼の声音のなにかが私の心臓を高鳴らせた。
不意に耳を軽く噛まれて「ひゃ」と、素っ頓狂な声がでた。
羞恥心で死ねるなら、今の私はまさに死んでいただろう。
あまりの恥ずかしさに、自分でもあきれる位のか弱い力で手足をぱたつかせると、あっさりと私の上から彼の重みが消えた。
その事に軽い失望を感じながら身を起こすと、彼が部屋のドアを開けようとしているところだった。
「!?」
考えるよりも先に体が動いて、次の瞬間には彼の腰に縋りついていた。
「いか…いで…」
腰に縋りついたそのままの格好で首を横に振り続ける。
彼が、ため息を吐くのが聞こえた。
長い、長い沈黙の後、ぽつりと彼が問いかけた。
「…どうしたい?」
その問いが自分に向けられたモノだと理解するのに、少し時間がかかった。
それは、今まで誰からも掛けられた事のない言葉だったからだ。
いつも私に向けられるのは、決定した事柄。
だから、それに戸惑い、どう答えれば良いのか解らずにうろたえる事しか出来なかった。
「なら、お前のしたい事が解るまでの間、共にいればいい。」
この時の私は、彼がどんな気持ちでその言葉を捻りだしたのか判らなかったが、とても、とても安堵したのだけは覚えている。
『まだ、捨てないで貰える』ただ、その時はそれしか考えられなかった。
それからの私は、『捨てられない』為に彼に懸命に尽くした。
故国から離れる為の路銀を稼ぐために登録した冒険者ギルドの仕事で、私の身についた武術は役に立った。ただ、女だと言うだけで面倒が何度か起きた為、半年も経つ頃には男の扮装をして仕事を受ける様になった。男のフリをしただけで面倒事は嘘の様に無くなると、女とは不便なものだとため息をついた。
だが、いくら稼いでも、彼の目を見ると『そうじゃない』と訴え掛けられているようでどうすれば良いのかと途方にくれる事が多くなった。
神国に居た頃の様に言葉を掛けてくれる事も、あの晩にあったような事があるでもなく、ただ、彼との間に大きな壁が立ちはだかっている様な感覚だけがあって、それがまた焦燥感をつのらせる。
また、彼が夜の町へ出掛けて行く事が日を追って増えて行くのもまた気がかりで、夜毎、彼の消えた店の陰でその気配を探す事を繰り返した。
その度に感じる疼きの正体が分からず、気が付けば頬を濡らしている事が多くなった。
その言葉を彼が口にしたのは、大陸の反対に位置する港町にもうすぐ着くという頃だった。
路銀を稼ぎながら旅を続けている内に、何度も新しい春がやってきており、彼も私も、少年少女と呼ばれる年頃から一人前の大人になってしまっていた。
「そろそろ、したい事も見つかったんじゃないのか。」
街道を歩く彼から、いつも通り3歩遅れて追従していた私の足が止まった。
数瞬遅れて、彼の足も止まる。
彼は、いつの間にか私に話しかける時にも顔を向ける事が無くなった。
「あなたのお側にお仕えする他に、望みはありません。」
問われたら、返そうと決めていたその言葉は、意に反して頼りなく震えていた。
「仕えて貰う必要は無い。」
そう、血を吐くように言い捨てると彼は歩を進め直した。
私もそれに合わせて、3歩遅れて着いて行く。
彼の足が止まると、私も止まる。
「もう、これ以上着いてくるな。」
「……。」
「もう…解放してくれてもいいだろう…。」
絞り出すような呟きに、胸がズキリと痛み息を飲む。
そうして歩きだした彼の後を、私は追う事が出来なかった。
ぼんやりと立ちつくす私を、幾人もの旅人が追い越しては不審そうに振り返るのを感じながら、それでも先に進む事も出来ずにその場にただ、立っていた。
馬車の通る音がして、初めて道の脇へと移動する。
そのままフラフラと街道を逸れて歩き続けている内に、いつの間にか森の中に入り込んでいた。
ひどいのどの渇きを感じて、水袋の中身を呷ったものの何か熱いものが詰まっている様な感じがして飲みこめず、酷くむせ込んで足元がふらつかせた。
そのまま、背後にあった木にもたれかかるとずるずると座りこむ。
どうすれば、どう答えれば良かったのか。
ただそれだけが頭の中をぐるぐると回る。
だが、いくら考えても、答えが出てくる事は無かった…。
いつの間にか、空から光が降ってくる時間になっていた。
この光は、人や動物などの魂で出来ている事を『私』は知っている。
振ってきた光はふわふわと私の周りを舞うと、私の身の内に入り込んでくる。
『視る』事の出来る者にしか見えないこの光は、どうやら私の中で汚れを落としてまた旅立っていくらしいと、最近、夜明けまで起きている事が多くなったせいもあって理解した。
真夜中になると私の元へと降ってくるこの魂たちは、夜明けと共に私の中から去っていくのだ。
だから、私の心は穢れているのか、とひどく納得した。
私の両親は、運の悪い事にその『視る』事の出来る人間だったらしい。
ただでさえ厭われる黒髪に、更にこの現象もあって私は赤子の頃両親に捨てられたと言う訳だ。
そういえば、彼と出会ったのはいつの事だったかと思いを巡らせていると、突然頭をはたかれた。
「…この、馬鹿!!!!」
いつの間にか、彼が、そこに居た。
憤懣やるかたない様子で、私の横に少し乱暴に腰を下ろして片膝を立てるとその上に額を載せて一息吐く。捨てられたと思っていたその当の相手が戻って来てくれた事が信じられず、呆然と彼を見つめていると、私に向かって舞い降りてくる光に手を伸ばしてそれを捕まえようと試みる。
その手を通り抜けて、私の中に消えて行くのを残念そうに見ているのを不思議な気持ちで眺めた。
「なん…で?」
「探しに来たに決まってる。」
私の質問に、途端に不機嫌になりながらも答えを返してくれた。
その目は、また降ってくる光を追っている。
「…怖くは…無い…?」
「?」
「この、光達…」
ふわふわと降りてきた光の一つを手の平に載せる。
それは、何度か手の上で震えた後、私の中に溶け込んだ。
「…綺麗だよ。」
「これが何かを知っても…?」
「ああ。」
「死んだ生き物たちの魂、でも…?」
「なら、俺も死んだらお前の中に還るんだな。」
そう言った彼の声に、最近含まれるようになっていた苛立ちが感じられず、首を傾げる。
なにか、良い事でもあったんだろうか?
彼が穏やかにしていられるような事があったのならなんて嬉しい事だろうと思うと、自然に頬が緩んだ。
「聞きたい事がある。」
その声に、切実な思いが込められているのを感じて姿勢を正す。
「どうしたら…。どうやったらお前の心を手に入れられる…?」
「?私の身も心も、既に貴方の物です。」
即座に返した返答は、しかし深いため息に迎えられた。
彼は、のろのろと私に向けていた体を反対に向け膝を抱え込んで丸くなる。
「あの…?」
「そういうのじゃ、ない…。」
分かり易い落ち込んだ仕草で肩を落とす彼の姿は初めてみる。
「もう、何をすればいいのか、想像もつかないんだ。」
「??」
ぽつりぽつりと、今までに試みてきたというアレコレが彼の口からでてきた。
「髪に花を挿してみたり…」
「アレは今でも家宝です」
その花は部屋に戻ってすぐに、押し花にしてお守りとして常に身につけてる。
「与えられた女どもと、お前の前でまぐわってみたり…」
「なんだか、胸の辺りが苦しくなった記憶があります」
神国で、彼の後継者を残す為にと寝室に遣わされた女性達の事だろう。
私は護衛として扉の外に立とうとしたのだが、彼に言われて仕方なく同室していた。
そう言う時は、決まって身の置き所のない恥ずかしさと共に、心臓が押しつぶされそうな息苦しさと痛みを感じた。
…アレが、故意にだったのなら少しだけ彼を恨んでもいいのだろうか?とチラリと思う。
「…神国から逃げ出した直後は、お前を押し倒そうとしてみたり…」
「…寂しい様な感じがしたのはなんでだったんでしょう…」
あの頃は、本当に必要最低限の肉しかついてなかったから興が乗らなかったのかと思っていたのだが、この言い方だと違う理由があったようにも聞こえる。
あの時は、本当に棄てられると思って本当に怖かった…。
「お前が気付くように娼婦を買ってみたり…」
「私じゃご満足いただけないんだと寂しく思っておりました」
神国に居た時とは違い、子を為す必要が無くなった後の行為だったのもあって、アレにはどうしようもない無力感に苛まれた。…神国を出た直後と違い、今は大分女性らしい体つきになってきている自覚があるから尚更かもしれない。一夜のぬくもりを求める相手にも値しないのだと、そう言われている様に感じて無性に涙がでたものだ。
「………」
ゆっくりと彼の顔がこちらに向けられる。
「…胸の辺りが苦しくなったって?」
「神国で、私の前で女性と性交渉なされてた時の事です。」
「どんな風に?」
「説明は難しいのですが…こう、拳で握りこんだような…」
「要は痛くて苦しかったという事か?」
「…そう、だと思います。」
用心深く私の方へ身を乗り出した彼の瞳が、私の心の奥にあるモノを暴こうと言うかのように覗き込む。
未だ降って来ている魂たちの輝きに、その銀灰色の瞳が煌めきその光に心を奪われた。
「レプトス。俺の妻になれ。」
突然のその言葉に、ヒュッと喉が鳴った。
この方は、突然一体何を言うのかと困惑しながら首を横に振る。
そんな大それたことが、許される訳がない…!
「レプトス。頼む、俺の妻になってくれ。」
声も出せずに首を横に振る私の肩を、彼は引き寄せる。
「頼むから、俺を穢してしまうなんて言うバカげたことを口にするな。」
「でも…でも…」
なんとか、言葉を口にしようとする私の言葉に彼は言葉を被せる。
私は、穢れている。
私の中に溶け込んだ魂たちが旅立つ時、それらは還ってきた時に抱えていた汚れをその中に宿していないのだ。彼等の穢れは、私の中に溜まっていく一方で、それが彼を害するのではないかと言う事が私はひどく恐ろしかった。
「お前は、穢れてなんかいない。穢れているとするなら、俺の方が余程穢れてる。」
突然、とんでもない事を言い出す彼に目を瞠る。
冒険者の仕事でも、手を汚すような仕事は全て私がしてきたのに、そんなはずがない。
「俺が、なぜ神子などと呼ばれているかお前は知らないだろう。」
「それは、他の物では治せぬ様な怪我や病気を癒す事が出来るからでは?」
千切れた腕を再生していたのを思い出しつつ答えると首を横に振られた。
「違うのですか?」
「それは俺の力のごく一部で、大した力じゃない。」
そう言って彼は自らの唇を噛んだけれど、私には彼が何を言いたいのか判らなかった。
なにせ、その『力』がどんなモノなのか、それを私は知らないんだから。
ただ、その『力』とやらは彼にとって忌まわしいものなんだろうと言う事だけは想像が付く。
そして、その事は彼の事を今まで以上に身近に感じさせてくれて。
気が付くと、「どんな力があろうと、あなたがあなたでしょう。」と、そう口にしながら私は彼の背中に両の手を回していた。
「…互いに、自分の方が相手よりも穢れてると思っているなんて、随分と変な話だとは思わないか?」
「あなたがご自分の事をそんな風に思われているだなんて、考えた事もありませんでした。」
「俺達は、ある意味どうしようもないほど似た者同士なんだろうな。」
彼はそう言い、私の背に手を回しながら自嘲するように嗤う。
「質問を変えようか。
俺が、他の女を妻に迎えても…ついてきてくれるか?」
ひどく静かに、優しいと言って良い位の声音で彼が問う。
「…っ!!」
「…なら、お前が妻になるしかないな?レプトス。」
無意識に、背中に回した手が震え、それを彼は返事の代わりと判断したようだった。
驚いて顔を上げると、いつかの様に優しく微笑む彼と目があった。
「愛している、レプトス。」
そう呟いて、私の濡れた頬にキスを落とす。
「近いうち、お前の口からもこの言葉を聞かせてもらおう。」
そう言いながら、楽しげに笑う彼と戸惑う私を祝福するかのように、空から降りてきた魂たちがくるくると辺りを跳ね踊っていた。
☆☆☆☆☆
あの後、夜明けを待って私達は元々行く予定だった港町に向かった。
彼は結局、あの後今までと変わらず私に指一本たりとも触れることは無かった。
町に着くと彼は、まず私の服装を改めさせた。
男物の旅装から、女性らしさが引き立つように仕立てられたものへ。
新しく買い与えられた服の柔らかい手触りを楽しんでいると、彼に反対の手を取られその甲に口づけを落とされた。
驚きに棒立ちになる私の耳元に彼の顔が寄せられ、笑いを含んだ声が耳朶をうつ。
「どんな感じがした?」
「その…。頬が熱くなっていて、心臓が早鐘を打つようです。」
「不快か?」
「いいえ…。」
「嬉しい?」
「…どちらかといえば、そうかと。」
なんとなく落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせると、彼はいつの間にか手に取っていた髪にもキスを落とす。
「嬉しい・恥ずかしい・照れくさいといったところか。」
服装と一緒に変わったのは、私に対する接し方。
『情操教育』の必要がある。
と、彼はそう言って、事ある毎に私に今さっき起きた事に対してどう感じたかを聞くようになった。
私がそれに対して答えると、彼は決まってそれに『嫉妬』だの、『喜び』だのと様々な名称を当て嵌めて行き、どういった場合に感じる感情であるのかを説明してくれるようになった。
そのお陰もあって、私が聞かれた事柄に対してその名称で答えられるようになると、自らがどう感じているのか、どうしてそう感じたのかを説明してくれるようになった。
そうして、それらを通じて分かってきた事が私をひどく狼狽させた。
教えて貰った、彼の感情の動きを纏めてみると…どうも、彼は私に『懸想している』…らしい。
同時に、私はどうやらその事が『嬉しい』と感じているようで、その図々しさに自分をどうにかしてやりたいと思ってしまった。
…私も彼に『懸想』している、だなんておこがましいにも程がある。
…この考え方も、彼がいうのには神国で刷り込まれた間違ったモノ、だという話なのだが…。
私にとって、彼に勝る存在がないのだから。
もう一つ変わった事と言えば、彼が夜に花町に行かなくなった事だろうか。
曰く、『もう行かない』だそうだが…彼の体に変調が起こらないものかとそれが気懸りだ。
「最近、レプトスの表情が良く動くようになってきた。」
朝食の時に不意に彼がそう呟いた。
「…そう…なのか…?」
その言葉に、自覚がなかった私は問い返す。
「ああ。あとは敬語が抜けてくれれば万々歳だな。その喋り方をされると、近くに居るのにも拘らず、遠い場所に居る様に感じてとても寂しい。」
「…頑張り…ます。」
私は、タメ語と言うのが良く分からない。
新しい課題がここに出題された。
数ヵ月後。
私は、彼の『敬語の時は無視する』と言う強硬手段に屈していた。
無意識に敬語で接すると彼は私に言葉を返してくれないのだ。
それは、わたしにとってひどく辛いもので、必死に彼の求める『タメ語』と習得する原動力となった。
「最近、安宿にしか泊まらないのは何故?」
「ああ…。そろそろ、借家暮らしをするのもいいかと思って…な。」
『タメ語』に慣れてきた頃、最初に泊まった木賃宿よりも少しだけマシな程度の宿に泊まる事が増えてきた。
お金が足りないと言うはずはなく、私が不思議に思いつつ訊ねると彼からはそんな答えが返ってきた。
「借家…?」
「そろそろ、爛れた生活をしてみたい。」
「爛れた…???」
疑問に思って問い返すと、不穏な言葉が返ってきた。
爛れた…と言うと、連想するのは火傷だ。
よく、『焼け爛れた』と表現するアレ。
アレは本当に痛い。
彼が、そんな生活をしたがるとは思えなくて、他の用法があるのではないかと思ったのだ。
「…ああ…。そっちの「爛れた」じゃない。」
「やっぱり、他に使い方のある言葉なのか…。」
彼の答えに、そう返すとなんとも色っぽい微笑が返ってきた。
今私達が居るのは、大陸の神国があったのとは正反対の端の温暖な地域で、黒髪に対する差別も無く彼にも過ごしやすい土地だった。
だから、定住してもいいかと思い始めたらしい。
私としても、旅暮らしも楽しくはあるものの、彼と二人で一つ所に腰を落ち着けて暮らすと言うのもなんという幸せな事かとぽーっとしてしまう。
「ああ。そろそろ、『夫婦生活』に専念してもよさそうだからな。」
「ふぅふせぃかつ…」
彼の笑みと言葉から連想されるモノに、頬に熱が集まるのを感じて両手をあてがってその熱を逃がそうと試みる。
「嫌か?」
「…ふぅふ…。」
呟きつつ、旅の途中で見てきた様々な夫婦を思い返す。
例外もあるモノの、思い出せるのは皆、概ね睦まじく幸せそうに笑い合っているものばかりでそこに自分と彼の姿を当て嵌めると頬に熱が集まって来てしまう。
熱くなった頬を手を当てて冷やそうとした時に、面白そうな顔をして彼がこちらを見ているのに気が付いた。
「…むしろ、嬉しそうだな。」
「はい…。『幸せ』だと思う…。」
そう呟いて、しみじみと『夫婦』と心の中で繰り返す。
「私が『妻』で本当に良いの?」
「お前意外と連れ添う気は無いな。」
その言葉に、素直に『嬉しい』と頬が緩むのを感じる。
「もう、何度言ったか覚えてもいないんだが…」
そう前置きをして、彼は私の事を真正面から見据えた。
「レプトス、俺の妻になってくれ。」
「…喜んで。」
彼の銀灰色の瞳が嬉しげに細められるのを見ながら、私はその幸せを噛みしめた。
その町に住みついて暫くすると、私は子供を身籠った。
彼の言うところの『爛れた生活』の成果と言うやつだ。
彼女が産まれるまでに、色々と問題が起こったのは今となっては良い思い出というもので、たまに彼等と3人で笑い話にする事もある位だ。
今、私は彼女が大きくなるのを見守りながら、大人になった彼女とどんな話をしようかと夢想している。
あの時の様に、色々と親しい女性同士がする様な話ができるだろうか?
彼女と話すかもしれない彼等のアレコレを思い浮かべながら、今は腕の中で眠る私達の愛し子の額にそっと口付けた。
fin
ジャンルは何でしょう。。。
取り敢えず、…限界!