ある理不尽の記録
フェルノ・マルティアノが昨晩まで滞在していた街には、実は世にも奇妙なうわさがあった。その街は名をイデアルゴといい、土地柄恵まれている炭鉱資源を王都に献上することでその市政を成り立たせていた。街は禿げた岩山に囲まれ、絶えず煤けた土に汚れた屈強な男たちの汗の香りがする街であった。噂は、フェルノが仕事終わりに、乾きを癒すためとも、心の痛みを暴力的な欲望によって発散させたとも言えるような、曖昧な気分で抱いた男娼の、弟の話であった。しかし、フェルノはその噂に一切触れることはなく、街を出て行った。そして、それきり生涯その街とかかわりを持つこともなかった。
その男娼は、フェルノに抱かれるまで、街で二番目に大きな炭鉱で働く、色も知らぬ若い青年であった。彼のそれまでにたどった経緯は、それほど重要ではない。彼がその、年の割りに小柄な背丈の、言われなければ女性に見まがわれるような容姿と、生来の勤勉で真面目な性格によって、職場や友人、時には家族から受けた、まち鉢で一突きされるくらいの心の痛みで、ついには全身針だらけにしたところから彼の第二の人生は始まった。号泣するフェルノに抱かれながら、その青年は、初めて本物の男娼となった。名前も知らぬこの男は、自分と同じく世間と自意識の間に痛みを持ち、それを自分という人間に欲をぶつけるという形で発散している。そこに気付くと、初めは気色の悪かったこの行為も、次第に意味を感じるようになった。これは尊く、そしてほかならぬ自分にしか出来ないことだ。この男の持つような痛みをわかってあげることが出来、数少ない男性好きの性対象となれる容姿をもち、かつ、それを受け入れてあげられる人間が、この世にあと何人いるか。彼はフェルノの頬を撫で、優しい言葉をかけた。行為が終わると、彼に腕枕をし、朝になるまでフェルノの髪を撫でながら、けだるい幸福感に包まれていた。フェルノがそれを気味悪がっていたのは秘密にしたほうがいい。
彼が男娼となったことが、うっかり知人に知られてしまったことから物語は始まる。知人はのけぞってそのまま頭を地面にぶつけそうなくらい驚いて、出会った人出会った人に悉く触れ回った。烈火のごとく街中の噂になり、もちろん彼の家族にも知られることになった。事実を確認する前に喉をかき切った両親の葬儀を終えた弟は、兄の元へ向かった。夜の街を練り歩き、見つけた兄の姿は、神に与えられた天職に生来の勤勉さが相まって、具体的にはとても口では言えないほど使命感に燃えていた。弟は両親の後を追う決意をする。
弟の名はレイヴンと言う。兄に似付かず、大きな体躯にたくましい筋肉を携え、根菜をすりおろせんばかりの硬い口ひげを蓄えた剛毅な男だった。炭鉱堀で言えば、この街で一番の力自慢と名の知れていた彼は、つまり風評被害にめっぽう弱い。男娼と自殺体を残して家の血を絶やしたのではご先祖様に申し訳が立たず、彼の自尊心は茫漠とした意識と共に、人目のつかない死に場所を探していた。街を出て、山を越え、三日あてどなく歩いた先に、それと出会ったのは、神様も悪戯が過ぎると言えよう。
レイヴンは犬に出会った。いや、初めは、それが犬であるとはゆめにも思わなかった。彼の膝くらいの大さのそれは、不細工な顔をしていた。細い一重の目に、平坦な顔立ち、厚ぼったい唇、身体とは対照的に顔の体毛は薄く、頭蓋の比率が不自然なくらい大きい。レイヴンはこういう顔を見たことがあった。まるで、人間の奴隷の顔のようだ。というより、人間の顔だった。犬の体に、人間の顔が乗っかっているような印象だった。その犬が魚類のように光のない眼でレイヴンを見た。乾いてひび割れた唇がふるふると振るえ、「おい、おぬし」と言った。レイヴンは恐れおののいて、腰に据えていた護身用の剣を抜いた。
驚いたのは犬も同じで、それは脱兎のごとく逃げ出した。明らかに大きすぎる頭をもてあまし、自重を支えられずにふらふらと走る様は何とも気味が悪い。レイヴンは抜刀したまま言葉が出ない。しかし走り出した犬は何歩といったところで突然地面に倒れ伏せた。転んだとも見えるが、犬はそれから一向に起き上がろうとしなかった。 しばらく立ち尽くして、レイヴンは我にかえった。いま、人語を発音した犬のような者が倒れた。いや、あれは犬のようであるが、人であろう。普段であれば無視して先を行くが、なにせいまは道なき道を行く身、未知の危険を恐れるほどの財産はもうない。レイヴンは剣を片手に、犬に近づいた。
「おい、そこの、犬、犬のようなもの。言葉がわかるか」
レイヴンの呼びかけに、犬は身体をすこしよじらせた。
「体がわるいのか。よう。答えろ」
犬はかすれた声で、うむ、と言った。思えば先の第一声も、どこか覇気のないものであった。レイヴンは犬の弱った声を聞いて、不思議にもこれを助けようと自身に誓った。凡百が恐れて近づかぬような醜い容姿であっても、これに手を差し伸べようとしたのは、彼が人とのつながりに飢えていたためかもしれない。
彼は抱えていた荷物の中から、水と、パンを一切れちぎってこれを犬の口に近づけた。
「喰えるか」
犬はそれを一瞥し、首を振った。
「人の喰うものは喰えぬ。喰えぬようにできている」
「ならば何を喰う。遠慮はするな、言え」
「男の乳房、あるいはブツだ」
「貴様はここで滅すべき悪徳のようだ」
犬は愕然として眼を見開き、剣を構えたレイヴンを見上げて言った。
「待て、何故そうなる」
「親の仇。いまここで貴様ら珍獣を、天に召す我が父と母に捧げる」
「冗談ではないのだ。話せばわかる」
レイヴンは犬の首を落とすために振りかぶった剣を掲げたまま、再び我に返った。何を俺は憤っているのか。失うものもなし、ただ死に行くのみと定めたこの身が、一体何を求めて剣を振るのか。レイヴンはそのまましばらく考え、ある結論に至った。いま俺が剣を振るのは、我が身を死に追いやったものへの怒り。このような激しい感情に身をゆだねると言うことは、つまり、俺はまだ、心のどこかで生きていたいと、こんなにも強く願っているのだ、と。レイヴンは泣いた。おいおいと、嗚咽まじりに号泣した。彼は幼い頃から母に言いつけられてきた、慈悲と許しの心を自発的に取り戻した。
「乳房とブツはやれぬ。だが、出来る限りお前の力になろう」
レイヴンの手から零れ落ちた剣が犬の身体に突き刺さり、犬は腹の底から鈍い声を上げた。慌てたレイヴンは剣を引き抜き、手当てをした。幸い深い傷ではなく、簡単な止血だけで事なきを得た。
犬はレイヴンを、経験上関わるべき男ではないと判断したが、弱りきった体を鞭打ってこの場を離れることも出来ず、猿の積んだ石橋を叩かずに歩くような心境で身の丈を話すことにした。話している間、始終やさしく身体を撫でてくるレイヴンを気味悪がりながら。
聞けば、その犬、もとは人間であった。いまから千年前に、酒場で酔った勢いのまま挑んだ、ある魔術師との賭けに負け、以来、半永久の命と引き換えに、首から下を犬の姿に変えられ、その家系の使い魔として隷属させられていたという。魔術師が彼にかけた呪いは、三つの契約の元に彼の命と人権を握った。一つ、契約者、および、その血族に従うこと。二つ、男性の乳房、あるいはブツから出る体液のみを喰らうこと。三つ、これらを破れば死よりも恐ろしい悪魔の生贄となること。相当に趣味の悪い嫌がらせで、およそ人の心を持つ者の所業かと疑うほどであった。犬は千年、その家にこき使われ、契約した魔術師からついに十三代目の子供に付き従っていたところを抜け出してきた。家族や恋人、友人は遠い昔に皆死に絶え、いまや天涯孤独。毎晩与えられる自由時間以外は、ただ苦難と屈辱を受けるためだけに生きてきたような人生にもそろそろ終止符を打ちたい。そう考えた犬は、仕事のためにイデアルゴまで出張してきた十三代目の主が、男娼を抱きに夜の街へ出かけている隙に逃げ出してきた。もうしばらく何も口にしておらず、契約も半ば破って出てきているため、魂の半分を悪魔にもっていかれそうになっているところで、レイヴンと出会った。
「その呪い。打ち破る方法はないのか」
レイヴンの真剣なまなざしに、犬は首を横に振った。
「ない。十三代目の主を殺すか、あるいは誰かが私の命を奪えば、契約からは逃れられる」
「では、そうだ、その主の名を教えろ」
「聞いたところで無駄であろう。もうそいつは随分前に街を発ったはずだ。おぬしが追いつくより、私が悪魔の贄にされるほうが早い」
「お前を探してまだこのあたりをうろついているかも知らん」
「ありえん。奴も、私のような下級の使い魔のために、時間を割くとも思えん」
「では、どうすればよい。私は何をなすべきなのだ」
「お前の乳房。片方でも喰らえば少しはましになるが、それをおぬしはできぬと言った。ならば、この世もここまで、あとは悪魔が我が身を喰らうか、息絶えるのが先か。おぬしが先程見せたその剣で、首でも撥ねてくれればせめてもの救いとなろう」
「やれぬものはやれぬ。お前をみすみす殺しもせぬ。何か方法があるはずだ」
考え込むレイヴンに、犬は憔悴しきって、ぐったりと身を横たえたまま、ついに眼差しが遠くへ向けられた。あわや、死も間近。悪魔に魂をとられるか、死んで永遠の闇を味わうか。想像も出来ぬ未来に、恐ろしくなった犬は、人と話をしていたくなった。
「なあ、おぬし。先は、何を泣いておったのだ」
「つまらぬ話だ。そんなことよりだ」
「年寄りのたわごとだ。遮ってやるな」
犬は遠い眼をして、力のない声を絞り出す。
「教えてくれ」
レイヴンはその、弱弱しいが、どこか執念のある気迫に気圧され、話すことにした。兄が男娼になったこと。そのために両親とも自ら命を絶ったこと。街にいられなくなったこと。死に場所を探していたこと。全てを語りきるのに、数分はいらなかった。話が終わるや否や、犬は静かに笑いながら口を開いた。
「おぬしは兄を恨んでいるのか」
犬が何故突然そのような問答を立てるのか、レイヴンにはわからなかったが、嘘がおきぬように、真摯に考えて答えるよう努めるべきだと思った。
「わからぬが、是だろう」
「なぜだ」
「わからぬ。唯一の兄弟だ。好きではある。あいつが好きな道に進むことは喜ばしくはある。だが、誰にも相談せずに、家族を危機にさらした身勝手さに腹も立つ。奴は家を捨てた。それほどの価値が男娼にはあったのか。しかし、そうは思えん」
「そうは思えん、傲慢さよ」
言われて、レイヴンは、押し黙って何も言い返せなくなるくらいの想像力がある男であった。
「兄とて、家族を蔑ろにしてしまうという考えがなかったわけではあるまいに」
「優しい奴だった。きっと考えた。だからこそ、何故なのか」
「天秤にかけただろう。家族と、何かを。家族の方に針が傾かなかった。それほどの重荷を、片方の受け皿に乗せていたのよ。おぬしがわしに乳房をやらぬのと同じよ」
犬は力なく笑った。いよいよ死ぬところだ。どうやら悪魔に魂をとられる前にこの世を去れそうだった。犬はなおも続ける。
「法、制度、しがらみ、関わり。しからば、己を歪ませる他ない。そうなると、怒るべき敵などいないのかも知れぬ。我々は、誰のためかわからぬまま与えられた語りで、良き踊り手であれと動き続ける曲芸師に同じ。私は、先に逝く。せめて我が名を、覚えていてくれ」
「待て、まだだ、わかった。乳房をやる。待っていろ」
あせったレイヴンは犬を抱きかかえ。口元に胸を近づけた。だが犬は、それを喰らおうとはしなかった。その代わり、最期の一息で言った。
「我が名はフェルノ。フェルノ・マルティアノ。哀れなただの畜生だ。さらばだ、騒がしく真っ直ぐな男。我が最期を見届けること、感謝する」
それきり犬は、いや、フェルノはレイヴンの腕に抱えられたまま、動かなくなった。レイヴンは、辺りで一番静かな場所を選び、そこにフェルノの墓を作って彼を埋めた。
フェルノ・マルティアノが昨晩まで滞在していた街には、実は世にも奇妙なうわさがあった。噂は、ある晩フェルノが奴隷の仕事終わりに与えられた自由時間で、乾きを癒すためとも、心の痛みを暴力的な欲望によって発散させたとも言えるような、曖昧な気分で抱いた男娼の、弟の話であった。しかし、フェルノはその噂に一切触れることはなく、街を出て行った。そして、それきり生涯その街とかかわりを持つこともなかった。
噂は、その弟、街一番の炭鉱堀のレイヴンが、実は女なのではないかというものだった。それは半分真実で、半分嘘であった。彼は、身体に女性を、心に男性を与えられてこの世に生まれ出た。事実を知るのは彼の家族のみで、二つはなれた兄にも知られることのない秘密であった。生涯彼は秘密を貫き通し、男として幸せに生きていくつもりだった。それが、兄が男娼になったという思わぬ出来事で、棒に振られてしまった。
レイヴンはフェルノの墓で祈りを捧げた後、いよいよ途方にくれた。ただ、一つわかっていることがあるとすれば、レイヴンはまだ、この世で生きていたかった。だから、レイヴンは、どこか新たな街へ旅立つことにした。兄のことはまだ許せぬ。だが、どこかで別の暮らしをしている内に、いつか許せる日がくるかもしれないのは、なんとなくわかっていた。
一方で、十三代目のフェルノの主は、イデアルゴでの事業を成功させ、また一つ巨額の儲けを得た。いずれ彼は世界一巨大な池を持つレイアートという街を治めるまでに至る。彼は昔打ち捨てた古い使い魔のことなど一つも思い出さず、生涯幸せに暮らした。