ツバメの巣
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鶴見の西の外れに『鶴見銀座通り』がある。名ばかりのアーケードもない小さな市場通りである。そこに「おもちゃ屋」がある。ショー・ウインドーには見事に組み立てられたプラモデルが置いてある。中に入ると所狭しと積み上げられたプラモデルの箱が聳えている。段ボールの匂いがする。部屋の一番高い棚にもガラス・ケースがある。鍵を掛けて、プラスティックの刀が置いてある。本物ぽくて、朱鞘に白柄の見事な一品。良秋は大阪城の天守閣で見た刀に面影を重ねて見た。彼が以前のように、チャンバラごっこをする程、もう少し幼ければ、物品に対する欲望と武に対する怖れとを感じていただろう。
おもちゃ屋の入り口の上には、軒先きに、ツバメの巣がかかっている。これは鶴見で有名だ。時々小さな子が巣をつつきにくる。中からおっちゃんが「これ!これ!いかんで!」韋駄天のごとくやって来る。そして、お叱り。
良秋である。今日はおもちゃを見に来たのではない。偶然前を通りかかったのである。空き地からの野球の帰りである。柔らかな春の昼下がり、物憂い空気が漂っている。手にはバットが握られている。今日、このバットさえなければ愚かな過ちをせずにすんだであろう。
良秋は今までに失敗してきた悪ガキを何人も見てきた。どいつもこいつも馬鹿だと思った。無論誰れも彼よりずっと年下であったが。ツバメの巣をつついて成功した例は皆無だ。全員おもちゃ屋のおっちゃんに怒られている。
( 当たり前だ。ツバメの巣をつつくということは悪いことに決まっている。そんなことは自分が一番知っている)
良秋は意識がとろ ~んと消えそうになっていく。
( ツバメの巣をつつくから怒られるので、巣に当たらないように、上手にツバメの赤ちゃんをあやしてやればいいんだ。もしかして落ちそうになっている雛がいるかも知れない。元に戻してやらないと。バットでちょっと、手始めに雛と遊んでみよう)
気が付けば、良秋はつま先立ちをして、バットを高く巣に伸ばしていた。
血相を変えて主人は、飛んで来た。小さい子供達の気持ちが分かった。我が身に照らしてみて、こんなに怒られるのかと驚いた。
怒られている最中我に返った。夢想の中で考えていたことが現実になってしまったらしい。何をしていたのかはっきりしない。いわゆる「 魔が差した」 という奴である。子供でも魔が差すらしい。良秋は記憶が飛んだらしい。子供の場合、記憶が飛ぶのは脳の未熟によるものであろう。しかし、大人にも似たケースがある。
子供の場合。ツバメの巣を見つける。ツバメの巣をつついてはいけないという善の気持ちに、悪の気持ちが打ち勝つ。次いで記憶がなくなり、気がつけば悪事を行っている。
大人の場合。ターゲットを見つける。痴漢を行ってはいけないと思いつつ、悪い心に打ち負かされ、気がつけば、記憶があいまいになり、犯行を行っている。
善の理性に悪の本性が打ち勝ち、魔が差し、記憶がなくなり、気がつけば、悪事を行っている。
「魔が差す」とはどういうことか?魔が差すというが、考えてみれば、実に色々なものが入り込みそうだ。今、「仮説」として、「社会が入り込む」として考えてみよう。
社会、社会といっても色んな社会があるだろう。社会の中央の部分。端っこの部分。上層部、下層部。社会の悪い部分。何より社会の良い部分が入り込めば、逆に善事を成すかもしれない。
公園で主婦達が乳母車を連れて、集まっている。
「 奥さん、あたしも万引きしたことがあるのよ」
「あたしも、あるわ」
「あの時のスリルが堪らないわ。みーんなしてるわよ。万引きしたことがないの、奥さんだけよ。このままでは仲間外れよ」
万引きがいけないことだという良心の声は追いやられる。スーパーに行く。沢山の商品が並んでいる。「社会が入り込む」。万引きをしないと、このまま社会の外にあぶれてしまう。主婦の世界からはみ出してしまう。社会の一員に成りたくてやって来た。なんとか主婦ギリギリに踏みとどまりたくてやって来た。入り込んだのは「社会の辺境の部分」 か何かか。それとも単に「社会の悪い部分」か。それとも、社会が悪い主婦を排除しようと芝居を打ったのか。あたしは万引きをするのではない。品物を懐ろに入れて所持しているだけだ、まだ盗んでいるわけではない。このままフラフラ外に出るつもりだ。早速、良秋並みに、ツバメを助けてやってるという記憶の薄い夢の中の思考。魔が差し込んで記憶があいまいになっているのだ。気が付けば警察のご厄介になっている。
直政とマリーが以前にいた、大学校では、大学紛争は随分以前に大したこともなく鎮火していた。そうは言っても多少は、火種は、くすぶっていたが。
この大学で、ある学生が、学生運動も下火のこの頃、この運動に身を投じた。何事も後手後手に回る彼の人生で、時代が過ぎ去る頃、彼はなぜか、いつも、大いに盛り上がっていた。彼は焦っていた。早く手柄が欲しかった。疑問に感じた。(このままでは、自分は大学闘争をしたことになるのだろうか)?彼は訝っていた。仲間は自分を馬鹿にはしやしないだろうか。とうに終わった、社会や時代に乗り遅れるかもしれない。
悪い心が湯水のように湧いてくる。脳の原始的な古い、廃れた部分から、獣のような本性が、火を噴く。
「やれ!俺は獣だ!やれば、俺は英雄だ!」
その時、校舎の通用路を「よたよた」と見苦しい老人が歩いて行く。評判の悪い教師ではないか!
『天誅!』
魔物が存在した。一瞬の記憶が飛んだのかどうかは分からない。魔が差したのかどうか、分からない。むしろ魔そのものだったのかもしれない。「社会」は?社会はどこかへ飛んで行ってなくなってしまっていたのかもしれない。そういえば犯罪者や暴漢は社会の敵だった。社会が入り込む隙もなかったのかもしれない。
キャンパスでヘルメットにマスクの男と老人が「高々と掲げた金属バット」を取り合っている。老人の頭からは液体が滴り落ちている。
マリーは「虫山」の受難を新聞で知った。だが別段、何の感慨もなかった。虫山に復讐しようなどとは露思っていなかった。時間は真っ直ぐ流れて戻って来ない。そんな生き方を彼女はしていた。
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