永世中立
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虫山教授の直政いじめは何年も続いていた。何事でもそうだが、この嵐もいつかは終わるものだと思っていたが、事態は深刻の度を深めていた。
追い詰められた直政は、やむを得ず、昔からの友人に相談を持ちかけてみた。中島とは青雲の志に燃えていた頃からの付き合いで、高校時代の同窓である。現在、彼は私立の大学で教鞭をとっている。
マリーは、何か悩んでいるとは知っていたが、呑気な質で、自分の亭主がいじめに遭ってるとは露知らなかった。その原因が自分にあるかも知れないなどと、夢にも想像したことがない。虫山のいじめは大っぴらでなく、陰湿で巧妙だった。「フフフ」と笑う顔が見えるようである。
中島が、彼の大学を選んだのには、わけがある。ここには彼の尊敬する学者がいたからである。老政治学者は国立大学を定年退官して、ここに招かれていた。
直政とマリーは昔、中島に呼ばれて老名誉教授の話しを一度、聞きに行った。それは素晴らしい内容であった。
老人は毎日、全ての新聞と雑誌にチェックを入れていた。
「日本を守るのは誰でしょうか?アメリカ人でしょうか?韓国人でしょうか?はたまた、オーストラリア人でしょうか?果ては、インド人?
自分逹の国を自分逹で守るのは当たり前のこと。守ってないのは日本だけ。守って貰ってるのは日本だけ。
アメリカは本当にわれわれを守ってくれるのだろうか?ソ連の大陸間弾道ミサイルが、アメリカまで届くように成った途端、アメリカの態度がコロッと冷変した。自分逹の国が火の海になってる時に、日本どころではないだろう。
アメリカが自由・平等の国なんて、完全に嘘。アメリカ程、差別の非道い国はない。アメリカの大統領で、一番優遇されるのはアングロサクソン系。戦争で有色人部隊は最前線・最危険線に送られる。日本人部隊がアメリカ軍とタッグを組めば、そこに送られる」
個々の点については、無論、異論もあるであろう。しかし、論に「切れがいい」のは事実ではなかろうか?
そして、その結果、この老学者は次のように結論着ける。
「日本が未来を開くのは、『永世中立』以外に他、道はない」
無論、武装化してだろうけど。
老教授はマリーがスイス人だと知って喜んでいた。
中島は当時、直政にこちらに移るよう勧めていた。どうやら空きがあるらしい。しかし、この半ば冗談も冗談ではなくなったらしい。空いた椅子はたった一つ。自分が移るということは、マリーをおいて移るということ。苦しい選択の結果、直政は移ることに決めざるを得なかった。大きな声では言えないが、クビになったのである。この裏切りに直政は終生苦しんだ。
大学を移る前、マリーは直政が非道い鬱状態にあるのを知っていた。肉体的な病気の結果、入退院を繰り返していた結果、医師から精神的な病の疑いがあるのを告げられたからである。これによって、マリーは、人間関係のトラブルがあったのを確信した。大学を移ればそれが良くなると思っていたのだが、元には戻らなかった。病は膏肓に入っていたのである。
地獄耳の虫山は直政倒るの報を受け
「な~んだ。死んだんと、ちゃうのか。なんちゅう、人騒がせな。倒れただけ?・・・。ほら見たことか!ここを辞めて何年も経つから、ワシの責任でもな~んでもないわ」
直政は入院から帰って家で療養していた。
穏やかな春の夕方、豆腐屋さんのラッパの音がたおやかに聞こえる。マリーが大学の帰り道、スーパーで買い物を済まして帰って来ると、直政が、畳の部屋の中央で、横向け様に、布団をはだけて、死んでいた。ガリガリに痩せ、黄色い皮膚はしわ枯れ、老いの醜さを晒していた。大口をポカ~ンと開けた様は、ピンに留められた巨大な魚の標本のようであった。
「優しい人・・・・・・あなたは本当に優しかった。あなたは本当にわたしに優しかった。だれよりも世界で一番わたしに優しかった。あなたはわたしのために生きてくれた。わたしはあなたのためだけには生きて来れなかった」
直政の実家の他に、葬式にはスイスから両親が来てくれた。中島や老学者も来てくれた。両親からはスイスに戻って来ないかと言われたが、それを断った。
虚ろな午後など、木の葉の散る校舎の裏側で独り、ベンチに腰掛けてると「あれも長くは保たないだろう」と敵が言った。
そしてマリーは、直政を殺した大学を辞めた。
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