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後編

 人気がないどころか草も生えていない日当たりの悪い化学室の裏の中庭に行くと、藤田君がすでにいた。携帯電話をじっと見詰め、険しい顔をしている。わたしが近づくと、彼はぱっと顔を上げてわたしを見詰めた。どこか青ざめ、せっぱ詰まったような表情に見えた。

「お待たせ」

 わたしが普段通りに見えるように挨拶をすると、藤田君はかすかに笑った。何だかいつもとは違って見えた。

「で、何の用?」

 告白されるつもりで来たので、われながら白々しい台詞だと思う。藤田君は黒縁眼鏡を指で直し、何かをぼそぼそとつぶやいた。

「何?」

 わたしは近寄った。藤田君がわたしの目を凝視する。わたしはどきどきしながら、彼の言葉を待った。

 しかし、次に待っていたのは言葉ではなかった。

 藤田君は突然勢いよく歩いてわたしを壁に押しつけた。壁際にいたわたしの横に両手を置き、わたしを見詰めたのだ。彼が華奢だとは言っても、わたしよりはがっしりしている。彼の顔を至近距離で見て、わたしはいつものようにかわいいと思うことはできなかった。怖い。自分より力の強い相手に捕まったのである。怖いに決まっている。おまけに藤田君は怒っていた。眉間にしわを寄せて大きな目でわたしをじっと見ている。そして、キスをした。歯ががつっと当たった。痛いと思う暇なく、藤田君はもう一度口づけた。多分藤田君も痛かったので、やり直したのだろう。今度は痛くなかった。

 唇を離してから、藤田君はわたしを押しつけ、わたしを至近距離で見詰めたままで、こう言った。

「冬人とつき合ってるの?」

 わたしは混乱のさなか、冬人って誰? と思った。というか、告白もしていないしこちらも了承していないのに、突然キスをしないでほしい。ファーストキスとはこのようなものなのだろうか。初めてだと痛い思いをすると人づてに聞いたのは、ファーストキスのことだったのだろうか。わたしは歯茎が痛かった。

「冬人って……?」

 わたしの言葉と表情で、藤田君は間違いに気づいたらしい。そもそもその間違いはどうして起きたのだ。藤田君はゆっくりとわたしから体を離した。それから携帯電話を取り出し、猛烈な勢いでメールを打った。わたしはほったらかしにされていた。ぽかんとしていると、誰かの声が聞こえた。

「雪也、おれはここにいるから直接話そうか」

 雪也というのは藤田君の下の名前だ。振り向くと、校舎同士を繋ぐ渡り廊下から志村君がこちらに向かって歩きだしていた。わたしの混乱は深まる。どうして志村君は不敵な笑みを浮かべ、藤田君は怒りに顔を歪めているのだろう。志村君が近寄ると、藤田君は彼に噛みつかんばかりの表情になった。

「何で龍野さんとお前がつき合ってるなんて嘘ついたんだ!」

 藤田君が叫ぶ。わたしはようやく思い出した。志村君の下の名前は冬人である。憧れの人なのにどうして知らなかったのだろう。というか、志村君のような人気者がわたしとつき合っているなどと妄言を吐くわけがない。藤田君は何を言っているのだ。

「告白しようと思ってたんだろ? それをぶち壊しにしようと思って」

 志村君はいつになく意地悪そうな顔で藤田君を眺めていた。目に喜悦が宿っている。志村君の言葉で先ほど妄言だと思っていたことが本当だとわかり、わたしはひどく動揺した。志村君がわたしに関して何か行動を起こすということすら驚きなのだ。わたしが志村君とつき合っていると嘘をつくなんて、驚愕以外の何物でもなかった。

「なのにいきなりキスなんかしてさ、お前はおれに何の同情も感じてないのかよ。可哀想なんだろう? おれのことが」

 会話はますますわたしを混乱させた。華奢で地味な藤田君が、人気者の志村君に同情する? でも、志村君の表情にはどこか卑屈な感情が窺えた。背の高い志村君は藤田君を見下ろし、それでも何か悔しそうな、寂しそうな気配を漂わせていたのだ。

 藤田君は少し黙り、逡巡していたようだが、突然きっと志村君をにらみつけた。

「同情してた。でも、それは今関係ないことだ。おれはお前に龍野さんを取られたくないし、今、お前がやったことに猛烈に怒ってる。嘘つくなんて! それもおれが一番大事にしてる、龍野さんのことで」

 一番大事? わたしは場違いにときめいてしまった。でも、気になるのは「同情」という言葉だ。この場に合わないおかしな響き。おそらく、志村君と藤田君の間に横たわる、大きな齟齬の元と関係がある。

「同情なんて嫌いなんだよ。おれは、お前に同情されるのが一番嫌いなんだ」

 志村君が唾を吐かんばかりに顔を歪めて嫌悪を示した。

「あいつに一番可愛がられて、おれみたいに母親からほったらかしにされることもなくてさ、よく同情なんて残酷なことできるよな」

 志村君が声を荒らげた。藤田君がひるみ、少し心配げな顔で志村君の顔を覗く。

「ちょっとちょっと、二人とも」

 わたしは緊迫した空気に耐えられず、思わず間の抜けた声を上げた。

「何でこんなことになるの? 喧嘩はやめよう。わたしはさ、嘘に利用されたのなんて気にしないから、もうやめよう」

 二人がわたしを見る。どうやら半分存在を忘れられていたらしく、二人とも一瞬ぽかんとしていた。そこからいち早く立ち直ったのは志村君で、彼は美しい顔に歪んだ笑みを浮かべてわたしを見た。ぞっとした。

「教えてやろうか、龍野さんに。おれとお前がどういう関係か」

 志村君が藤田君を見た。そのままの笑顔で。藤田君が首を振る。慌てた様子で。

「あのな、龍野さん」

 志村君が再びわたしのほうを見る。藤田君が彼の制服の袖を掴んでやめさせようとしたが、そういうわけにはいかなかった。志村君の唇は滑らかに動いた。

「おれとこいつは兄弟なんだよ」

 しん、と静まり返った科学室の裏の中庭で、わたしたちは身じろぎ一つしなかった。

「浮気性のこいつの父親がさ、おれの母親と不倫してさ、認知もせずに捨てた子がおれ。それが顔に出てるよな、上品な苦労知らずのかわいい藤田君と、嘘の笑顔を貼りつけただけの暗い顔のおれ。ぜんっぜん違うもんな。こいつの母親は旦那の一時的な不倫を許してあげる優しい妻で、三人の息子たちにも愛情たっぷり注いでさ。対しておれは、苦労続きの母親が、父親にどんどん似ていく息子を憎んでるもんだから、どんどん大人の顔を窺うようになってさ。ほんっとうに全然違うよ!」

 そう言い終えた志村君の唇の端は、笑みを作っているのに震えていた。藤田君が悲しそうに彼を見て、それから地面を見る。志村君は大きく息を吐くと、急にわたしと藤田君に対して興味をなくしたようにわたしの向こうの壁を見た。

「そういうわけ。だからおれはこいつのことが嫌い。龍野さんもつき合うのやめとけよ、こいつは甘ちゃんのボンボンで……」

「わたしはさ、志村君のこと、すごくきらきらしてて、知性に溢れてて、かっこいいなと思うよ」

 わたしが声を出すと、志村君はびっくりしたようにわたしを見た。藤田君も、大きな丸い目でわたしを見ている。

「藤田君は、甘いところがあるかもしれないけど、優しくて逞しい人。どっちのことも好きだよ、わたしは」

 志村君と藤田君が、初めて顔を見合わせた。二人とも、困惑していた。

「出生とか生い立ちとか、関係ないよ。わたしは今の二人はすごく素敵で、志村君はいつだって見つめていたいくらい格好よくて、藤田君は一緒にいるのが楽しいかわいい男の子だって思ってるよ。二人の関係は複雑だと思う。でも、何を言われてもわたしは志村君のことを嫌な奴だとは思わないし、藤田君が甘ちゃんのボンボンだと思うこともないよ。関係ないよ。全然、関係ない。だから志村君。そんなに苦しまなくていいよ。暗くなんかないし、皆が志村君に憧れてるよ」

 志村君は一瞬下を向いて、何か反論でもしようと余裕のある顔を作ろうとした。でも、それをやめて突然しゃがんだ。それから鼻をすすって泣き始めた。ずっと耐えてきたものを吐き出すかのように、志村君は声を漏らし、涙を膝に落として呻き続けていた。

 わたしと藤田君は彼に何も言うこともできず、また、そうすべきではないと感じて、黙って立ち尽くしていた。わたしは何かの深淵を覗いたような気持になっていた。志村君の深いところの傷。藤田君の優しさの根源。

 泣きやんだ志村君は、深いため息をついた。

「二人とも、ごめん。……部活に行くよ」

 まだ目は真っ赤に泣きはらしていて、それでも何かすっきりしたような顔をしていた。泣くなんて、志村君は滅多に経験がないのではないだろうか。恥ずかしそうに顔を逸らし、彼は背筋を伸ばして歩き出した。それを、わたしと藤田君は見守った。

「龍野さんはすごいな」

 藤田君がぽつりとつぶやいた。わたしはきょとんと彼を見る。

「関係ない、なんて、おれなら言い切れないよ」

「そりゃあ、藤田君は立場があるから」

「ううん。龍野さんの大らかさは、本当に滅多にないすごいものだと思うよ」

「そう?」

 わたしは照れ笑いをした。藤田君はそれをまぶしそうに見つめる。

「あいつ、龍野さんのこと、本当に好きだったのかもしれないな。だから感情的になって、こんなことやっちゃったんだ」

「藤田君、それはないよ」

 わたしが否定すると、藤田君は驚いたようにわたしを見る。

「どうして?」

「わたし、地味だから……」

 彼はにっこり笑って首を振った。

「おれ、好きだけどな、龍野さんのこと。いつも幸せそうに考えごとをしていて、授業中もときどきにんまり笑ってるんだ。何か、かわいいなって思うよ」

 藤田君は恥ずかしそうに一気に言った。わたしは期待していた愛の告白が無茶苦茶な順番で行われたので、笑ってしまった。おまけにわたしの頭の中がおかしな連想や想像に満ちていることを見抜かれてしまっていた。少し恥ずかしい。

「冬人も龍野さんのこと、好きかもしれない。でも、おれはあいつに君を渡したくない。おれの彼女になってよ」

 藤田君は切なそうに眉尻を下げ、懇願した。わたしはどきどきした。藤田君自身にどきどきするのは初めてだった。多分さっきまでは告白されるかもしれないという状況にときめいていたのだ。藤田君のことは、かわいいと思うけれどそれだけだった。それが、彼と志村君を取り巻く事情を知り、少しだけ深く関わることで彼自身を好ましく思っている。わたしは自分の気持ちの変化に驚きながら、うなずいた。淡い感情だが、彼の恋人になってみたいと思っていた。

「本当?」

 藤田君はぱあっと顔を輝かせた。わたしはもう一度うなずく。そして、次に何が起こるのかわからないままに、何か言おうとした。それが、藤田君に抱きしめられたので頭の中が真っ白になってしまった。彼の体は、男の子らしく力に溢れていた。ぎゅうっと抱きしめられ、わたしはあわあわと手のやり場に困った。そっと彼の背中に回してみたら、もっとぎゅっとされた。これ以上力を入れられたらあばらが折れてしまう、と思っていたら、藤田君の力が抜けた。彼は体を離し、わたしに笑いかけた。わたしはきゅんとした。愛おしいという感情が、体中を突き抜けた。眼鏡の奥の彼の目は、きらきらと輝いていた。

 わたしたちは、校舎に入った。藤田君はうきうきと嬉しそうに歩く。わたしはその隣だ。教室に戻ってから、藤田君は美術部へ、わたしはバドミントン部へ向かう。彼に手を振りながら、わたしは浮き立った気分で校庭を歩いていた。

 弓道着姿の志村君が、こちらに近づいてきている。わたしは彼の目をよく見た。目の周りはまだ赤くて、まだ感情が揺らいでいるのがわかった。彼は目を逸らし、そのままわたしの横まで来て立ちどまった。そのまま、こう言った。

「あいつと、つき合う?」

「うん」

 わたしはうなずいた。

「おれはさ、いいと思うよ。龍野さんとあいつ。あいつ、いい奴だし。おれ、時々嫉妬しちゃうけどさ」

「そうなんだ」

 だからあんな意地悪をしたのか。わたしは納得してうなずいた。

「でも、残念だな」

「何が?」

「おれ、龍野さんのこと、結構好きだったからさ」

 わたしは志村君の顔をまともに見た。彼は自分の顔をわたしから見えない方向に向け、歩き出した。

 風がとても冷たい日だった。わたしはめまぐるしい自分の状況にため息をつきながら、ボールを奪い合うサッカー部員のにぎやかさを横目にサッカー部のゴールポストの横を通り過ぎ、ぼんやりと何メートルも歩き、突然立ち止まって淡い色の空を見上げた。

 何かを考えていたが、次の瞬間には忘れてしまっていた。

《了》

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