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前編

 空を見上げて、ああ雨が近いと思った。公園を囲むメタセコイアの巨木は象の足のような根本をしている。立冬も過ぎ、冬といえば冬だし寒いといえば寒いので、シダ植物のような葉はオレンジ色に染まって空を塞ぎつつ風に揺れている。風は冷たい。けれど息が白くなるほどではない。厚いモスグリーンのコート、グレーの毛糸のキャスケット、同じ色のマフラーと手袋を身につけてはいる。ただそのせいで少し暑いと感じる程度には気温が低くはないのだ。湿気がすごいから、多分もうすぐ降り始めるだろう。

 図書館に向かっていた。田舎のくせに結構蔵書が豊かな地元の市立図書館は、わたしが一番落ち着く場所。口うるさい祖父に「賢しらな女は好かれない」と説教されることもないし、本で溢れた狭い自室で縮こまっている必要もない。祖父はわたしが理屈っぽいと言う。理屈っぽいと、結婚できないそうだ。わたしは馬鹿な女と結婚したがる男なんて願い下げだ。と思うが、わたしはまだ十七歳なので結婚なんて興味の対象でもない。要するに、どうでもいい。そんなことよりこの図書バッグだ。クラスの男子からトートバッグをもらい、図書バッグにしたのだ。ジョルジュ・デ・キリコの「愛の歌」が小さくプリントされたやつ。「愛の歌」は直線的な建物に巨大な彫像の首と赤い手袋が乗っかっている絵画なのだが、彫像の白い目がこっちをじっと見つめてきて何となく怖いという代物だ。わたしが携帯電話の画像を見せて、「これ好きなんだ」と言ったら、しばらくしてこのトートバッグを持ってきてくれたのだ。「兄貴がTシャツに印刷できる機械を持っててさ」と説明してくれた。これをくれた藤田君は眼鏡をかけた気の優しい少年で、クラスメイトだ。「愛の歌」を真ん中に小さくプリントしたそのセンスに、わたしは感嘆している。図書バッグにぴったりで、わたしは嬉しくてたまらなかった。下駄箱の前でこっそり渡されたが、大きな声でお礼を言ってしまった。幸い誰にもブツを見られなかったがわたしはむしろ見せびらかしたかった。

 メタセコイアで挟まれた道を歩き、四角く古い建造物の中に入る。くすんだ灰色の絨毯が敷かれた上を歩き、返却カウンターに向かう。図書バッグから本を取り出して司書に渡す。お茶についての本ばかり五冊。紅茶と日本茶と茶道とハーブティーについて、にわかに興味が湧いて借りたのだ。お陰で今までティーバッグでしか飲んだことのなかった紅茶を買ってしまった。ヌワラエリ茶という、変わった名前の紅茶。思ったよりおいしくて毎日飲んでいる。わたしは興味が湧いたらすぐに本で調べる癖があるので、こういったことが度々ある。でも今日は小説を読もうと思っていた。高校生らしく「カラマーゾフの兄弟」。台詞が異様に長くてハイテンションで読むのに苦労するが、面白い。

 面白い本を読むと、頭の栄養がじゅうじゅう燃えて消費されるのがわかる。お陰で糖分が恋しくなる。わたしは図書館の外側にある喫茶スペースに向かった。図書館ではものを飲み食いすることはできないが、このスペースでだけは持ってきた水筒や置いてある自販機で買った缶コーヒーが飲み放題だし、テーブルで軽食を取ってもいい。わたしは持ってきた板チョコを開けてばりばりと歯で割って食べ始めた。わたしの歯はよく揃っていて虫歯もない。祖父が大層羨ましがっていた。入れ歯だと煎餅が食べにくいのだそうだ。うちはそんな祖父に合わせてほとんどおかゆのご飯を炊くので、わたしはご飯にいい印象を持っていない。固い食べ物こそ至高である。

 チョコレートをばりばり割っている最中に、誰かが近寄ってきてわたしの横に立った。見上げると、志村君だった。彼は上品に微笑み、

「奇遇だね」

 と言った。わたしは彼の恐ろしく整った優雅な白い顔を眺めながら、慌ててチョコレートを飲み込んだ。彼は人気者の弓道部員で、切れ長の美しい目がどこか貴族的だった。彼はその美貌と物腰の柔らかさで多くの女子の心を射とめていたのだが、わたしも彼のことは前々からいいなと思っていた。彼の恋人になりたいとは思っていない。いつでも彼を眺められるポジションに就きたいとは考えていたが。その彼が学校外でわたしに話しかけている。これはすごいチャンスだと思った。わたしは意気込んで口を開いた。

「本当。図書館で会うなんて奇遇だね」

 唇がうまく動かない。微笑むことができているのか、怪しい。それでも彼はわたしに興味津々であるかのようにうなずき、

「ここ、いい?」

 とわたしの向かいの席を指さした。わたしは勢いよく首を縦に振る。志村君は音も立てずに椅子を引き、腰かけた。

「龍野さん、最近何か読んでる?」

「ああ、うん。『カラ兄』をね」

 そう答えて、しまったと思った。「カラマーゾフの兄弟」を略称で呼んで通じるのは「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる人だけだ。それなのに思いっ切り略称で呼んでしまった。わたしは言い直そうと口を開いた。しかし志村君はうなずいて、訊いた。

「ドミートリイとイワンとアレクセイとスメルジャコフ、誰に感情移入する?」

 びっくりした。これら外国人の名前は「カラマーゾフの兄弟」の登場人物名である。しかも作中では基本的にあだ名で呼ばれてばかりなので、正確な名前を覚えることは困難だ。しかもスメルジャコフが入っている。志村君は「カラマーゾフの兄弟」を読んでいるに違いない。そうでなければその四択はありえないからだ。

「アレクセイ、かな。純朴だし」

 アレクセイは日本人には一番共感しやすい登場人物だと思う。わかりやすくて、鼻につかない程度に純粋。わたしはアレクセイと出会うために「カラマーゾフの兄弟」を読んでいるようなものだ。それくらい好きである。

「志村君は?」

 わたしは訊いた。志村君はひと呼吸おいて、それでも答えを最初から決めていたような微笑みを浮かべて、

「スメルジャコフだな」

 と答えた。


     *


 ひとしきり話をして、わたしは読書に戻り、志村君は帰路に就くことになった。志村君は「雨合羽、持ってきてたっけ」とつぶやきながら去っていった。やはり外は雨が降っているらしい。わたしは一人がけの読書机に座りながら、先ほどまでの会話を思い出していた。志村君は仏教の原典や哲学の本をよく読むらしい。お陰でわたしは感心しきりだった。わたしは雑学本や物語の本しか読まない。詩集を読むこともあるが、たまにだ。志村君はいつも素晴らしい成績だし、きっと知識欲が強いのだろう。羨ましい限りだ。

 今日彼に偶然出会って、彼の素敵なもの柔らかな笑顔を眺めていて、思った。わたしは彼と親しくなりたい。友達になりたい。明日学校に行ったら、積極的に話しかけよう。


     *


「おはよう、龍野さん」

 教室で女友達と話していると、藤田君が近寄り、わたしに挨拶をした。わたしはにっこり笑って彼に向けて手を上げる。

「おはよう。藤田君は今日もかわいいねえ」

 藤田君は少しむっとした顔になり、

「かわいいはやめてほしいな」

 と言った。でも実際かわいいのである。身長一六五センチメートルで華奢な彼は、丸顔でまん丸な目をしたかわいい眼鏡っ子なのだ。わたしはいつも彼に女装させたくてたまらない。きっと似合う。きっと皆騒ぐ。部活は美術部と茶道部。文化系男子なのだ。文化祭では、彼がしゃかしゃか混ぜた抹茶を飲むために、一部の女子が下心見え見えの顔で押しかけてきたという。

「おれは一応男なんだから、かわいいは嬉しくない」

 藤田君はきっと末っ子だ。こういうとき甘えた口調で抗議するのがとてもうまい。おまけに一人称が「おれ」である点が愛おしくてたまらない。わたしから見て、藤田君に似合うのは「ぼく」である。それが「おれ」なのだ。ギャップがいい。彼は淡いピンクの唇を尖らせて、わたしを見下ろす。見下ろしてはいるが、わたしが立つと目線はほとんど一緒だ。かわいい。彼を密かなアイドルにしている一部の女子の気持ちがわかる。

「龍野さん、あれ、使ってる?」

「ん? あれって?」

 藤田君が急にもじもじした様子で尋ねたので、わたしはきょとんとして彼を見上げた。彼はわたしの前にいるわたしの友人の由希をちらりと見て、言いにくそうにつぶやいた。

「おれがあげたバッグ……」

「へえ、あれ藤田君があげたんだ!」

 由希が素っ頓狂な声で叫んだので、周囲がくるりとこちらを向いた。藤田君は真っ赤になりながら「しーっ」と人差し指を立てている。周りの生徒はすぐに元に戻って会話や課題を始めた。わたしも由希も目立つ生徒ではないので彼らの関心を集めることは滅多にない。藤田君だって、一部のかわいいもの好きの女子に愛されてはいるものの、結局は文化系男子である。クラスの大部分に常に注目されて大騒ぎする、体育系男子とは違う。

 周囲の目がなくなっても、藤田君は真っ赤なままだった。下を向き、黙っている。由希もわたしも、彼の顔をのぞき込み、お互いに顔を見合わせる。

「藤田君、どうしたの?」

 わたしは訊く。由希は黙っている。やがて彼は口を開いた。

「あの、龍野さんに話があるんだ。放課後、化学室の裏に来てほしい」

 化学室の裏? どうしてそんなところに?

 わたしがぽかんとしていると、藤田君は真っ赤な顔のまま、自分の席に向かって歩いていった。

「馬鹿だねー、千草。ああいうときは『うん、絶対行く!』って目を輝かせるべきでしょ?」

 由希が言い、耳の横で二つ結びにした黒髪を揺らしながら隣の席についた。もうすぐホームルームが始まるのである。わたしはしばらく意味がわからなかったが、ホームルームの最中ずっと考えていてやっと気づいた。そうか。藤田君はわたしに愛の告白をするつもりなのだ。縁遠くて気づかなかった。わたしはぼんやりと先生の唇の動きを眺めながら、胸がどきどきするのをとめられなくなった。


     *


「あ、龍野さん」

 放課後、化学室の裏に向かってぎこちない動きで歩いていたら、志村君がわたしに声をかけた。相変わらず美しい顔だ。拝みたくなる。今日は一日藤田君のことを考えていたので彼に話しかけるという予定は延期になってしまった。そもそも地味なわたしにこんなにきらきらした志村君が話しかけてきたこと自体奇跡だったのだ。わたしは志村君と仲良くなろうなどと目論んではいけなかったのである。けれど、彼のほうから話しかけてきた。わたしは奇跡を二乗してその確率を計算したくなってしまった。

「今からどこに行くの?」

「化学室の裏……」

「化学室の裏? どうして?」

「藤田君に呼び出されたんだ」

「ふうん。あいつが」

「志村君は今から部活でしょ?」

「うん。へえ、あいつがねえ」

 志村君はむやみに藤田君のことを気にしている。わたしは早く藤田君のところに行きたくてたまらない。今日は一日、かわいい藤田君に告白され、顔を赤らめてうなずく自分を想像していたのだ。そのあとのことは想像していないが、楽しみでたまらない。告白されるなんて初めてだからだ。

「志村君、わたし急いでるから行くね」

 わたしがそわそわしながら言うと、志村君は微笑みながら送り出してくれた。わたしは心臓に手足が生えた生物のように、心臓の音に支配されそうになりながら歩いた。ちらりと振り返る。志村君は携帯電話をいじっていた。

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