8月17~18日梅雨ちゃん飼育日誌12・見送りと不在
寝てる間、記憶がないってある?
十七日から十八日…… 激アツ晴れ(梅雨ちゃん帰宅日)
「あれ? 賀川さん」
私の声に気付いていない様なので、もう一度、
「賀川さん、…………いや、時貞さん」
そう呼んでみます。彼は振り返ったものの、無表情で私から目線を外します。でも懲りずに私は声を掛けます。
「いつ戻ったんですか? おかえりなさい」
「は?」
逸れた筈の視線が戻ってきて、呆気に取られたような顔を彼はしています。カーテンは閉められているけれど明るいのです。
私はやっと気づきました。
そうです、私、無断で賀川さんお部屋に入って朝まで寝ていたのでした。それはそれはぐっすりと。久しぶりにまともに寝たような気がします。ただ、毎晩の事ながら、良い夢は見ていなかった気がします。最後は暖かく、救われた感覚がしたので、目覚めは良く……そんな事考えている暇はなく、私は慌てて言い訳をします。
「私、昨日、その荷物を開けて見ていたら、梅雨ちゃん寝出しちゃって、見てるうちに私、ココで寝ちゃったんです。ごめんなさい」
そう言い切った所で、賀川さんがどこか赤い顔をしているのに気付きます。
「……もしかして、今、キスしたの覚えてない?」
「き?」
「おおおお、覚えていないなら良いから。気にしないで」
今、何をしたと彼は私に言いましたか?
いやいや、もう彼はそんな事をしないと言ったから聞き違い……そう思って私は幾つか聞きたかった事を口にし、先生からの贈り物を仕分けして渡すと、梅雨ちゃんと部屋を出ました。
今度は梅雨ちゃんは素直に出てくれました。良かったです。
それに今日はとても気分が良い気がします。そしてとってもお腹が空きました。
「おはようございます。葉子さん」
「おはよう。ユキさん。ほら食べて、今日は少しは顔色が良いわね」
味噌汁に白いご飯、焼き茄子に鰹節が踊っている所に醤油を垂らして。もやしのおひたしや卵焼き、とても美味しかったです。
でも食べ終わるとまだ疲れを感じたので、お風呂に入って、ハイネックの服を探しますが、カーキの渋めのしかありません。
「明日までにさっきの黒いワンピ乾くかな?」
首を隠せる服をもっと買わないとダメです。この傷は浅いのに治る気配を見せません。
困ったな、そう思いながら部屋に戻ると梅雨ちゃんとゴロゴロします。
その時に何の前触れもなく、ふと、
「大人をからかうな」
そう賀川さんが言った事を思い出しました。
吐息が触れ合える距離で放たれた言葉。
「え? 私、賀川さんに手を回してた? えっと」
頭の中でぼんやりした記憶を必死で手繰り寄せます。
怖い夢を見たのです。たぶん夢じゃなくて、どこかそれは恐ろしいほどの現実で。血まみれになる手、生暖かい感触、男女の笑い声。重なる私の笑い。
やめて、やめて。
そしたら聞き慣れた声で、『起きて、君の居場所はそこじゃないよ』って。
それに必死に縋って、抱き付いて、その後、私…………何を……
「わ、私、賀川さんに……じ、自分からキ、きすしちゃった?」
柔らかく、優しく唇を割って、歯列をなぞられた感覚…………繋がる感覚、押さえながらも彼は私に返してくれた……あれは彼からではなく、私から……
このまま、君と……
か、彼が頭の中で考えた事なのか、私が考えた事なのか、もう恥ずかしい妄想が襲ってきて、側に居た梅雨ちゃんを掴まえてぐっと抱きしめます。
う、うなぁっ!
「ご、ごめんなさい」
梅雨ちゃんの声で正気に戻ります。でも私は彼女を持ち上げて、
「私、賀川さんと、き、キスしてた?」
暫し間が開いて、
うなーーーーぁっ
と、一際長く梅雨ちゃんは鳴きました。
「え? 『母さんと父さんと一緒ーーーーっ』って、ど、どういう意味?」
ひらりと腕から降りた梅雨ちゃんは窓辺で外を眺め始めます。
「ああ、梅雨ちゃんが早く『一緒』に居たいんだね。明日にはお迎え来るからね」
そう声を掛けると梅雨ちゃんは一瞬首を傾げて、なあ、と鳴くのでした。
一晩あけて。
賀川さんは昨日の夕方からまた仕事に出て、帰ってこないままです。
とっても茹だるような暑い日。洗濯物は良く乾きましたが、配送は大変でしょう。その上、残業で遅くなると連絡が入りました。
「えっと、爪とぎも入れて……忘れ物はないかしら? こんな事なら賀川君に昨日のうちから、チェックしてもらえばよかったわ。ま、いいわ、忘れ物があれば彼に届けさせればいいわね。運送屋だもの」
葉子さんは梅雨ちゃんの帰り支度をはじめています。私はそれをお手伝いします。体がだるいですが、昨日と今日は食べられたので、少しだけ体力が回復しました。
「で、ユキさん。賀川君とはどうなの?」
「え?」
「やっぱり好きな人の寝床っていいわよね。本人居なくても」
「え、あ、そんな……梅雨ちゃんがあの部屋でしか寝てくれなくって」
「黙ってるから大丈夫よ」
「そんなつもりじゃなくってっ」
梅雨ちゃんが寝てくれなかったのです、私の部屋では。だから二日続けて賀川さんの部屋で寝ただけ、彼は居なかったし。間違って、キスしちゃうなんて事もあったけど。
『間違えてないでしょう?』
葉子さんは喋ってないのに、誰かの声がした気がします。誰かって言うか、私の、声?
「賀川さんの事好きなのね、若いっていいわ」
葉子さんの意味ありげな視線と笑いを遮るように、玄関で呼び鈴が鳴らされます。
先生達の到着です。
葉子さんがまずお出迎えします。
その後ろから私は梅雨ちゃんを抱きかかえ、黒いワンピを揺らしながら付いて行きます。ワンピの襟で傷口が隠れているかは確認しました。気付いたら司先生、大騒ぎしそうだもの。私の事より、自分のお腹の中の子に愛情かけてもらわないとね。
とってもとっても嬉しそうな梅雨ちゃん。
「来たか、来たか」
タカおじ様がそう言って私の後ろに続き、更にお兄様達までついて来ます。
「うちの梅雨がお世話になりました」
まずそう言って清水先生が頭を下げると、司先生もそれに従います。
続けて、お二人が明日籍を入れる事、司先生のお腹に双子の赤ちゃんが居る事。
素敵な報告をすると、すっごい歓声と拍手が起こったのですが、それに紛れてお兄様達は前に頂いたお酒をせびっていますよ?
梅雨ちゃんの迷惑料ということで、清水先生から差し出された一升瓶。
「太っ腹な清水先生と梅原先生の前途に! そしてお腹の双子に乾杯!!」
割れんばかりの大喝采で持ち去られたそれは、きっと賀川さんの口に入る事はないでしょうね。
清水先生にタカおじ様が小声で、
「あの『海江田の奇跡』は地元販売限定じゃなきゃ、卸して欲しい小料理屋があるんだが……そんな大きな口じゃないが、酒を易く扱わねぇ店だ」
「うろなにこれが置いてある店があるのは良いですね。その件についてはまたゆっくり。後、俺も話があるんですが、抜田先生、不動産を扱ってましたよね……」
などと、お互い何か交渉していました。
その隙に、お兄様達が奥でお祝いを名目に酒盛りしてますけど。タカおじ様に見つからないうちにお開きにするよう葉子さんが目配せしています。
そうしながらもソツなく、先生二人を座らせ、お茶を出してます。
「ユキ、手紙、ありがとうな。あの押し花は大切なモノだろうに」
「良いんです。双子ちゃんの話を聞いた時に、生まれるのが春とイメージしたら一面に咲き誇る花が思い浮かんだので」
「確かに。梅に、桃に、桜にと次々といろんな花が咲く良い季節だ」
「司先生の目を通してですが、双子ちゃんに『そんないい時期に生まれるんだよ、この花が咲いていたうろなの地に迷わずに生まれて来るんだよ』って、きっと伝わると思って」
「ユキは優しいな」
そう言って笑う司先生の顔が嬉しいけれど、私はそんなに優しくはありません。
友達を傷つけ、何も私にしていないヒトを死なせて。
振るった太刀の赤い軌跡に笑いしか沸かない私。
抗えなかったのは私が悪いのでしょう。
あれでも必至で。
それでも成果がないのなら、何もやっていないのと同じ。
どうして体を奪われたのかわからないし、もしまた同じように……
「ユキ、大丈夫か? 絵の執筆で長い間森に篭っていたんだから、無理するなよ。」
「だ、大丈夫ですよ、司先生。」
だめだめ。
心配なんかさせちゃダメ。笑ってないと。
「そういえば賀川がいないのは、残念だな。今回は随分梅雨が世話になったみたいだし、直接礼を言いたかったんだが……」
必至に自分を取り繕おうとしていた所に、賀川さんの名前が出てきて、自分からしてしまったキスを思い出します。それで自分が何を言っているかわからない状態になり、俯きます。
梅雨ちゃんは今まで私の手元で何だかきょろきょろしていましたが、私を見上げます。梅雨ちゃんが見上げている私の顔は間違いなく顔が赤くなってます。
「何だ、ユキ、熱でもあるのか?」
「いえ。いえ。いえ。はうぅ」
「おかしなヤツだな」
梅雨ちゃん抱っこのまま突っ伏した私。
突然、私の白髪で出来た簾が下りて梅雨ちゃん驚いたようでしたが、でも楽しそうに猫パンチをはじめます。司先生は様子に微笑ながら、ゆっくり私を撫でてくれます。
「落ち着いたか? ユキ」
「ごめんなさい。私、迷惑をかけてばかり」
「大丈夫だ。ココにはユキが言う所の迷惑を、迷惑とは思わない人がたくさんいるのを忘れるな」
「はい」
「じゃあ、そろそろ失礼するかな?」
葉子さんがそっと間に入って来て、
「まだまだとお引止めしたいけれど、先生明日もお忙しいんでしょう? 記念すべき入籍日になるといいわね」
「ありがとうございます」
「今度、母子手帳カバーと母子手帳入れを縫っておいてあげるわ」
「ぼ、母子手帳入れ?」
「双子ちゃんなら二冊もあるのよ? それに生まれてきたら、普通に保険証、乳幼児医療証に始まって、いろんな病院の受診カード、予防接種の用紙とか、お薬手帳とかも。大変なのよ。それが二人、更に自分のまで管理するの。幼稚園くらいまではまとめておく方が良いのよ」
司先生とそうなんだーっと思いながら聞きます。
「カバーにカードとかは入る様にして、二冊まとめて入れる袋を縫っておくから。二~三年前に近所の子のカバーを縫ったけど、デザインが変わっているといけないからサイズがわかったら知らせてちょうだい?」
「はい。じゃあまた」
帰りの気配を察して清水先生が、私の手から梅雨ちゃんをキャリーバックに入れようとします。途端、梅雨ちゃんが思い出したようにソワソワキョロキョロ始めます。
「お、おい、梅雨、どこに行くんだ!?」
立ち去った梅雨ちゃんが縁側に置いていた、彼女専用の座蒲団……元賀川さんのシャツに懐いて鳴き出したのです。本当に梅雨ちゃん、賀川さん、気に入ったんだ、初めて清水先生のお部屋であった時は、すごく警戒していたのに。
そんなハプニングがありましたが、座蒲団と一緒に連れ帰る事で解決しました。
こうして梅雨ちゃんは賀川さんの知らない所で、前田家から去って行ったのでした。
梅雨ちゃん、ありがとうございました。
今回で飼育日誌はおしまいになります。
梅雨ちゃんが懐いてくれてよかったし、賀川も優しい気持ちで過去を見つめられたように思います。
また来て下さい。
YL様、何かありましたらお知らせください。