回想中です。
夢、現の中にいます。
「ゆきちゃん!」
母が、土間から叫んで、私を呼びます。
私は想像を馳せ、春の海を描いていたキャンパスから離れ、アトリエとして使っていた部屋から出ました。
汚れてはいたけれど、まだジャージは真っ赤に染まってはいません。何故ならこれはあの冬の前、そう一年と少し前の記憶だからです。
卒業式の日、三月の中ほどからこの「うろな町の北にある森」で生活を始め、最大の敵(虫)に対抗すべくハーブの精製液を母と作ったり、飲める水場を教えてもらったり……世の中はゴールデンウィークなるモノがちょうど終わって、五月病が蔓延する頃でしたから。
「なあに?」
刺激のない生活、いや、サバイバル化した生活はある意味刺激的でしたが、ちょうど五月病のシーズン。私もそれにかかっていて、返事はテンション低だったと思われます。
町へ降りる事は許されず、着替えも満足にないのですよ? 普通の中学生をやっていた私は何故か意外に適応していましたが、ちょっと溜息が出ました。
それにだいたい母が叫んで飛び出していくと、沢山キノコがあった、とか、畑で芽が出てた、とか、そんな報告なので、今回もそんな感じかと思いました。
ですが、母はいつものトレーナー姿ではなく、スーツを着ており、綺麗に化粧をしていました。街に降りるつもりなのでしょうか? でも私の記憶の中で母がパンプスを履いて、小奇麗にしているのを見たのは初めてで、そして最後でした。
いつも街の工場などで働いている母でしたから、化粧をしている母を見た事がありません。常にざっくりとしたトレーナやシャツを好み、それでも整った輪郭に隠しようがない首筋のラインが美しくて、自慢の母。中学を卒業した娘がいるとは、贔屓目に見てもちょっと見えないと思います。
色をさした彼女の整った唇。短く切った髪を僅かに乱して、うなじに汗で張り付いたりしているのは、とても扇情的で何だか別の世界から来た他人の様でした。
「ど、どうしたの?」
「今から出かけるけれど。きっと迎えに来るから。ここで待っていて」
意味が解りません。
子供の時から点々と引っ越しをしていた記憶があり、長くて三年間くらいしか同じ所にいた記憶がありません。性に合っていたのか、それを苦痛とは思いませんでした。携帯を捨てられた時は何でって思った事もあったけど、それほど思い入れのあった人はいなかったので。
だから、点々と暮らす……この森生活もその一環だと思っていました。
「これは通帳と印鑑。ここのガス、電気の支払いは無駄をしなければ長く持つから大丈夫。この家を貴女を産んだ時から維持させておいてよかったわ」
「なに?」
「街に降りる時間は短めにね? 不自由だろうけどユキ……」
「何言っているの?」
「幸せにおなりなさい」
「意味わかんないよ」
母は今まで言ってた事を忘れた様に、笑うと、
「今、油は何描いているの?」
「う、海よ?」
「うろなの海も綺麗なのよ。東の方にあってね、夏は人がいっぱい来るの」
「ふうん」
「もう一描きしてくる? 雑誌の締め切り近いんでしょう?」
「明日には賀川さんが取りに来てくれるけど」
「そう、じゃあ母さん、お夕飯は作っておくわ」
「何よ、母さん、遅いエープリルフール? もうゴールデンウィークも終わったのよ? 森で過ごしているから日付わかんなくなっちゃった? 今度カレンダー作るね」
余りにも今さっきとは違う話に、私がそういうと、いつもとは違う感じの、でも母が笑ったのを覚えています。
キノコ達が怒ったように出してー食べてーっという声で薄目を開けました。一晩床に転がって、もうお昼過ぎと言う感じでした。
「のど、かわいたねぇ」
母は食事を作った後、書置きを残してどこかへ行きました。私は数えるほどの回数だけ、髪を染めて買い出しに行ったけれど、街の人は殆ど私を知らないでしょう。
森を散歩中に遠目に私を見て、『幽霊っ』っと叫ばれたことは数度あるけれど。
『一年して戻らなかったら、自分で生きる術を見つけなさい』
細い、整った母の字を思い出しながら、薄目を開けると、とても暑くてたまりません。
小さな換気窓から見える森の樹が気持ちよさそうに揺れています。少し曇っているようですが、雨は降る気配が無いよう、木陰のこの家がこんなに暑いわけがないのにそう感じるのは、私が熱を出しているからに違いありません。
「具合が良くなったら、絶対買い物に行きたいなぁ……」
呟いた途端、変な咳が出て、胸からぜろぜろと音がします。初めて本能的に、何かヤバいかもしれない、私はそう思いました。
転がっていた携帯に手を伸ばし、一縷の望みで母にかけてみますが、繋がりません。
「だよね…………そ、うだ、昨日かけた役場ならリダイヤルで……」
優しそうな役場の職員さんの声を思い出しました。あの人ならもしかすると森に捜しに来てくれるかもしれません。
でも……私は母の為に作った、でも一度も母が使う事がなかった手書きのカレンダーを見て、絶望します。
「役場は土曜、あいてない、明日も日曜、あいてない」
その上、ぴーーーーーーっと変な予告音がしたかと思ったら、画面から光が失われました。
「じゅ、じゅうでんきれた」
もう余りの事に漢字変換が出来ないほどの衝撃でした。
使う事はないと、携帯の充電表示なんてまともに見てなかったし。充電器はアトリエで、そこまで這う元気はないです。
床をトコトコ歩く元気そうな小さい蟻。
このまま死んだら、この爪ほどもない最大の敵に徐々に食べられてしまうのでしょう。
「ソレは最大の屈辱だわ……」
そんな事を思いながら私は涙目になって、歪んだ視界をゆっくり閉じました。
血、みる前に、このまま終わる? ワケはないです。
次回、目線変わります。