第十五話:今日(4)
地震か?
そう思い、近くにいた腹違いの幼い妹の手を握り無言で抱き寄せた。
本当に地震か?揺れ方が地震と何か違う気がする。立っていられないほどでもないが、歩こうとするとバランスを崩し転んでしまいそうになる。
いったい何が起きた?
そう思案していると、怖がるようにすがり付いていた妹が空に指差した。
その指差す方へ視線を送る。
――なんだあれは。
空に亀裂が走り、その合間からはおびただしい量の雷が火花を散らしていた。
積乱雲とも雨雲とも似つかない、この分厚い黒い雲が辺りを包み太陽の光を遮断している。突然の夜の来訪に、人々は恐れを感じる前に唖然としていた。
「…にいちゃん…ゴロゴロなる…こわい…」
妹のその言葉を合図に、空にたまっていた雷が一斉に地上に降り注がれた。
そのけたたましい轟音。
視力が奪われるほどの光。
そして何より、それに乗じて起こったパニック。
辺りは恐怖に駆られた群集による混乱が辺りを覆っていた。
一斉に、近くにある建物へ駆け込もうとし、揺れの影響もあって転倒者が相次ぎけが人が続出。建物に逃げ込むことが出来ても、その建物に雷が直撃するとまた一斉にその場から走り逃げようとする。
そんな混乱の中、まだ幼稚園の制服を着た妹を抱いたままよろけながらも確かな足取りでまだ建って新しいビルとビルの間の隙間を選んで、そこへ逃げ込んだ。
妹を下ろすと、この状況をどうするべきかと思案していた。
怖いのだろう。妹は上着のすそを握って離さない。
「ったく…どいつもこいつもパニクリやがって…」
どうしたもんかと、また空を見上げた。
底の知れない量の雷。揺れ。古い建物の崩壊の音。人々の悲鳴、怒声。
ふぅと自然とため息が漏れた。
この調子では、揺れや雷が収まったところで自分達の住むボロアパートは潰れていることだろう。
「にいちゃん…あれ…」
妹の見る先には、逃げ惑う群集とは明らかに違う行動を取っている女。いや、老女だろうか。黒のフードから見え隠れする表情は老女そのものだが、動きはまるでアスリートのようだった。
右往左往する群集をその身軽さで避けつつ、この揺れに一度も転ぶことなくスラスラと走る。何を気にしているのだろう。息も絶え絶えに辺りをきょろきょろと見回してもいる。よく見れば水晶玉のようなものを左手に持っている。
再び妹がすそを引っ張り、老女を指差した。
それに合わせて視線を下へ移すと、老女の歩く軌跡に点々と残る赤い斑点。よく見れば水晶を持つその手も赤で染まっている。
と、老女がこちらを見た気がした。
老女は水晶を覗くようにした後、ためらうことなく兄妹の方へ確かな足取りで近づいてきた。
妹を後ろへ隠そうとしたが、妹は足に抱きついて離れようとはしない。
どうにかこうにか引っぺがそうとするが、妹も頑として離そうとはしたかった。
そうこうしてる内に、老女は兄妹と手も握れるほど近づいていた。
口を開こうとする前に、老女が先に言葉を発した。
「大阪夜白で間違いないな?」
ハイともイイエとも言う前に老女は話を勝手に進める。
「この際もうお前しかいない…頼む…助けてやってくれ…!!」
老女は勢い余って両腕にしがみついてきた。
両腕に老女の付着する。まだ生暖かいその血液に眉間にしわを寄せた。その感触は、思い出したくないものを思い出させた。
「勝手なことを言っているのは重々承知の上だ…だが…もう頼めるのはお前しかいないんだ…頼む…むこうへ行って…出来るだけ皆が助かるように…手助けしてやってくれ…私は…私たちでは…とても太刀打ちできなかった…だから…頼む…シア様に…シア様に伝えてくれ…!」
老女は肩で息をしながらもはっきりと言い放った。
「間違いなく…イシズが動いていた…と…リリスも…それだけじゃない…こちらへきていたもの…皆死んだと…」
老女は懐から、何か石のような物を取り出し無理やり持たせた。
「その石を思いっきり地面に叩きつけろ…そうすればむこうへ行ける…っ…はぁ……それから…これを…」
老女はためらうことなく自分の目を繰り抜き、自分の目の前にいる特徴のあるグレーの髪をした男の額にそれを当てた。
男は老女のその行動にぎょっとし、更に唐突に襲いかかってきた額の激痛に地面に片膝をついた。
そんな兄を心配そうに妹が顔を覗き込む。
そんな兄妹にはお構い無しに老女は話を続ける。
「…いいな…間違ってもイシズには捕まるな…シア様のところへ行き、その額の目を届けるんだ…頼む……すまない…もう…お前しか頼めるものが…いな――」
老女の声が不自然に途切れた。
それと同時に自分の顔に生暖かいもが降りかかったのを感じた。
この生暖かいものには、覚えがあった。嫌でも思い出させるこの感触。そして色。
額の激痛に呻きながらも老女の方へ目を向けた。
あるはずの老女の頭がそこには無かった。
あったのは、首から下のみ。
首からは未だ滝のような量の朱が流れ落ちていた。
傷口は生々しく、だがまるでギロチンにでもかけられたかのように水平に切られていた。
男はそんな状況を目の当たりにしながらも、悲鳴を上げることは無かった。
男は、それ以上の凄惨な光景を見たことがあったのだ。あの時に比べれば首が無いくらいどうってことはなかった。男は痛む額を押さえながら目線をあげた。
男の目の前には、老女の首を持った子供が立っていた。
見た目は可愛らしい男の子だが、その目が男の子の男の子たるそのあどけない雰囲気を打ち消してあまるほどだった。
体中からあふれんばかりの殺気。
有無を言わせないその圧倒的な圧迫感。
到底子供とは思えない。
「ったく…危ない危ない。こいつに逃げられたら、僕が怒られるんだから。でも困ったな〜。こいつ、何も喋らないんだもん」
そう言うと、持っていた老女の首を自分の顔の横へ、まだ血が滴るその首を支え、あまりにも現実離れしすぎたその光景。
だが、男は淡々とその男の子を見上げていた。
この男の子から自分に向けられた殺気も、過去に一度経験している。
この男の子を見ていると、あの時のことが鮮明に思い出される。
床に倒れた母と、実の妹と。
そして――
「こいつから〜何聞いた?」
男ははっとした。
少年から発せられる瞬間的に上がる殺気。
――言わなきゃ殺される――
瞬間的にそう感じた。
だが、恐怖のせいだろうか。口が全く言うことをきかない。
そもそも、完璧に自分とは関係の無いことだ。言ってしまえば、老女に勝手に何かの事件に巻き込まれたと言っていいだろう。喋ってしまえばいい。
だが、何故だろう。
この男の子には、喋る気が起きなかった。
となれば選択肢は三つ。
一つ、このまま喋らず目の前の男の子に殺される
二つ、無謀だが、逃げるだけ逃げてみる
そして三つ目は――
「ねぇ?僕の話聞こえてる?こいつからー何を聞いたって言ってるんだよっ」
男の子はイライラとしながら、持っていた細い剣のようなものを少年の首に当てた。
「僕ねぇ…実はすごい急いでるんだよ。入り口はすぐ閉じちゃうんだよね。喋らないなら殺すよ?素直に喋るなら生かしといてあげるからさー、早く教えろよー」
その時、激しい揺れが襲った。
今までの揺ら揺らとしたものとは桁違いのその揺れに、男の子がバランスを崩した。
その時。
老女から無理やり持たされた石。
それを妹が兄から奪い、老女の言われた通り力のある限り地面に叩きつけたのだ。
地面に叩きつけると、擦り寄るように兄に抱きついた。
男の子は持っていた老女の頭から手を離し、持っていた剣を兄妹に向かって振り下ろした。
その剣は確かに兄妹を真っ二つに斬った。
だが、その影は幻影のようにユラユラと揺れ、その場から二人の姿が消えてしまった。
「…くっそ…また怒られる…オウリ…怖いんだよなぁ…」
男の子はがっくりと肩を落とすと、たった今自分が切り捨てた老女の死体に見向きもせず、千空や真夜の通う高校へ向かって走り出した。