波子だけの海景色
「お母さんいってらっしゃい。なみ、いい子して待ってるね。」
急遽仕事に出かけることになった母親を、波子は笑顔で見送ると、一目散に自分の部屋へと走り出した。短い廊下も今は長く思えて鬱陶しい。たった十畳のリビングは、控えめに脱ぎ捨てられた母の服や、取り外されただけの状態の洗濯物、本やガラクタで酷く散らかっていたが、一、二、三っとなんのその、華麗に飛び越えてみせた。
部屋に入って、学習机の袖机の前に飛びつくように座ると、やっとのこと大きく一呼吸した。三段ある引き出しの一番上だけ鍵をかけられる仕様で、大切なものは全てそこにしまい込むことにしていた。かちゃりと引き出しの鍵を開けて、秘密の箱をそっと取り出し中身を絨毯に散らした。カーテンから差し込む温かい光に照らされて、貝殻がキラキラと音を立てながら広がる。
この瞬間は自分だけのもので、母には見せたくなかった。貝殻たちは勝浦の海を映し出す。ゆっくりと遠ざかっていた記憶。海辺に佇む一つのブランコ。海に向かって足を大きく伸ばす。そこには自由があった。背中を優しく押してくれる大きい手。母と自分をいつまでも守ってくれる。
しばらく海を眺めるように貝に触れていた。そして貝殻を一つずつ丁寧に箱に戻し、また鍵をかけた。母が案外すぐに帰ってくると、波子はまた無邪気に玄関へ駆け出した。




