聖女と魔獣——敵国の女帝を癒やしたら復讐できました
聖女エリシア・ブランシェは野戦施療院で必死に兵士たちの治癒と、死者の鎮魂に努めていた。
兵士たちの士気は高かった。重傷を負った兵士たちも、傷が癒やされるとエリシアに大げさなほど感謝し、直ちに戦場へ帰って行った。エリシアには彼らが何のために戦っているのかは理解できず、ただ無事を祈って送り出すだけだった。
運ばれてきた遺体の中に、婚約者の聖騎士ユリウスのものがあったことに気づいてはいたが、向き合えず、あえて忙しくして、少しでも忘れていたかった。
「エリシア様、申し上げにくいのですが、ユリウス様の遺体はいかがしましょう」
神官の一人がエリシアに尋ねた。
「どこか人目につかないところに運んでいただけませんか? 腐らないように、先ほど『保護』の魔法は施しましたから」
エリシアはできる限り落ち着いて答えたつもりだったが、その声は震えていた。
「承知いたしました……」
そう答えながら、神官は去ろうとしなかった。
「まだ何か?」
「……もしお辛いようでしたら、私のほうで鎮魂いたしましょうか?」
神官が遠慮がちにそう申し出た。
「だめ!」
エリシアが怒鳴りつけた。
今まで聖女が怒鳴るところを見たことがない神官は狼狽えた。
「し、失礼いたしましたっ。では鎮魂はせずに『保護』して運んでおきますので……」
神官はエリシアの前からそそくさと去っていった。
鎮魂は、最期に死者の魂を落ち着かせ、冥界に送るためのものだ。
それを自分以外の他者にやらせるなどエリシアには考えられなかった。
日に日に、負傷者も、死者の数が減ってきていることにエリシアは気づいていた。
——戦争は終わりに近づいている。
エリシアは複雑な気持ちだった。
すでに多くの命が失われた。ようやく戦争が終わるのはよいのだが、おそらく王国は敗れるだろう。
そして、そのときまでにはユリウスの遺体に向き合わなければならない。
※
ヴァレンティア王国は、ブリットモア帝国の同盟国であるはずだった。
エリシアに政治はわからなかったが、帝国は一方的に同盟を破棄し、王国への侵攻を始めた。
世界統一を目指す帝国が、地政学的に王国を抑えようとしているとエリシアは聞いた。
王国は抵抗を決め、あらゆる武力が動員された。聖教会に所属する聖教会騎士団も例外ではなく、聖騎士ユリウス・シュヴァルツガルドも出征することとなった。
幼い頃から聖教会で孤児としてともに育ったエリシアとユリウスは、自然と恋人となり、将来を約束していた。
二人の育ったヴァレンティア王国は心優しいフリードリヒ国王のもと、貧しいながらも穏やかな国で、エリシアは自分が聖女として、王国の人々から愛されていることを強く感じていた。エリシアもそれに応えるべく、病や怪我に苦しむ人を一生懸命に助けた。
人々は一介の聖騎士にすぎないユリウスとの婚約も温かく祝福してくれていた。
「戦争が終わったら結婚しよう」
そう言って寂しそうに微笑んだユリウスの顔を、エリシアは忘れられなかった。
それはお互いが生きて再会するための約束だったはずだ。
しかし今思えば——ユリウスは、あの穏やかだった王国が無謀な戦争に挑む理由を知っていて、自分が死ぬことも覚悟していたのではないかと、エリシアは思う。
帝国と王国には大きな国力と戦力の差があり、そもそも勝算があったのか、エリシアは知らない。
それでも王国は屈するという選択肢を取らなかった。エリシアの知る国王フリードリヒは決して争いを好むような人物ではなかったので、エリシアはその決断が信じられなかった。
「聖女だからと言って無理をせんようにな。皆もつまらん病気で教会に押しかけるなよ」
謁見するたびにそんなことを言って、優しく笑う国王は、エリシアにとっては祖父のような存在だった。
それでも戦争が始まった以上、戦争の中でエリシアができることは、傷ついた兵士を治癒することだけだった。
※
そして王国は敗れた。
野戦施療院に、帝国の将兵がやってきたことでエリシアは敗戦を知った。
「聖女エリシア・ブランシェだな?」
見たこともない、帝国の将軍らしき者が、エリシアの姿を認めて言った。
「……そうです」
エリシアは答えた。これから自分がどうなるのかはわからなかったが、愛する王国が敗れ、それ以上に愛したユリウスが戦死した今、自分がどうなろうとどうでもよいことのように思えた。
ただ一つだけ……
「まだ鎮魂できていない遺体があるのですが……」
エリシアは言った。
「何体だ?」
「はい?」
「鎮魂できていない死体は何体いる?」
「一人です」
「一体くらい放っておいても問題ない」
「ですが……帝国でも死者の鎮魂は義務のはずではないのですか?」
「いいから来い。戦場にはもっと多数の死体が残っているんだ。やるならそちらを手伝ってもらおう」
ユリウスの鎮魂を許されなかったことは悲しむべきことのはずだったが、エリシアはなぜか安堵している自分に気づいて驚いた。
エリシアには、ユリウスの魂を冥界に送る覚悟ができていなかったのだと知った。それをしてしまったら、本当にすべてが終わってしまう気がしていたのだ。
幸い遺体は「保護」されている。いずれまた、気持ちの整理ができたら会いに行こう、とエリシアは考えた。
遺体がそのままでいてくれる保証はないが……
「わかりました。私にも戦場に捨て置かれた遺体の鎮魂をさせてください」
そうしてエリシアは、戦場に出向いた。
王国兵士たちに死体が多く転がっていた。その中には見知った顔も多くあった。
エリシアの冥府への安らかな旅路を願い、鎮魂の祈りを捧げた。
温かい風が、何度もエリシアを撫でるのを感じた。死者の魂がエリシアへの感謝を告げるものだということをエリシアは知っていた。
※
エリシアは帝国の捕虜となった。
帝都までの道を馬車に揺られ、エリシアは見知らぬ土地の風景を眺めていた。その間も、エリシアは鎮魂せずに置いてきてしまったユリウスのことをずっと想っていた。
帝都は華やかだった。王国の王都とは比べものにならないほど多くの人や店が大通りにひしめいていた。
実際にそれを目にすると、王国との国力の差は歴然としていることを改めて思い知らされた。国王がそれを知りながら、なぜあのような愚かな戦争をしてしまったのか、エリシアのその疑問はより深くなり、国王に恨みすら覚えてきた。
皇宮に着くと、エリシアは馬車を降ろされ、中に連れられた。
腕には縄をくくりつけられ、衛兵に引っ張られた。まるで飼い犬にでもなったみたいだ、とエリシアは思った。
中の様子はヴァレンティア王国の小さく簡素な王城と異なり、広大な空間と豪奢な内装で、それがエリシアを落ち着かない気分にした。
奥に進むと大広間に、玉座に座る女性がいた。
豪華なドレスに多くの宝飾品を身につけたその女性が、エリシアにはどこか不機嫌なように見えた。
「聖女エリシアだな?」
——ああ、この人に私の王国は破壊され、ユリウスは殺されてしまったのだ。
エリシアは感じたことのない怒りと吐き気を感じた。この女には数多の死者の怨念がまとわりついている。
「聖女エリシアか、と聞いておるのだ」
エリシアは頷いた。
「我がこの国の女帝イザベラであるぞ」
エリシアは黙ってイザベラを睨んだ。
「まあよい。我は長年、病に苦しめられている。おまえに治せるか?」
「わかりません」
「わからぬはずはない。おまえには見えているのだろう。我を蝕むものが。この地上でおまえ以上に治癒の能力が高い者は存在しないはずだ」
「それは病ではありません。『呪い』です。あなたはよほど業の深い人生を歩まれていらっしゃるようです」
「『呪い』か……。浄化できるか?」
「したくありません。あなたはその業を負って生きていくべきです」
「ほう、断るか」
イザベラは残忍な笑みを見せた。
「……王国の民を皆殺しにされてもよいと言うのか?」
エリシアは耳を疑った。
「民を殺したら、王国を占拠した意味がないではないですか」
するとイザベラは声を上げて笑った。
「あんな貧しい王国も民どもも興味があるはずもなかろう。我が欲しかったのは聖女エリシア、おまえだけだ」
「……どういうことですか?」
エリシアの脳裏に考えたくもない考えがよぎった。
「知りたければ教えてやるが、まず我の呪いを浄化しろ。すべての話はそれからだ」
エリシアは躊躇いながらも、詠唱を始めた。生き残った王国民たちを人質に取られて断れるはずもなかった。
「浄化」
イザベラの周囲が淡いオレンジの光に包まれた。エリシアは魔力を注ぎ続けた。
やがてイザベラを囲んでいた瘴気が薄れ、霧散した。
瘴気が消える瞬間、エリシアは冷たく鋭い風が吹くのを感じた。自分がその「呪い」に非難されているかのようだった。
「ははは、すばらしい。嘘のように体が軽くなったぞ。この聖女の力が我のものとなったことが、なお喜ばしい」
エリシアは高笑いする上機嫌な女帝を睨みつけた。悔しさでどうにかなりそうだった。
「さて、では種明かしをしてやろう。
そもそも我は平和的に、聖女エリシアを帝国に差し出すよう王国に申し出たのだ。兼ねてより依頼は出していたのだが、あの頑固な国王が頑として拒否してな。聖女のいる王国と対立してはいかんと言い継がれ、先の皇帝の同盟を尊重していたのだが、そうも言っておれなくなった。あまりに不調が続いてな。どうだ、呪いが浄化されなければ我は死んでいたのではないか?」
エリシアは答えなかった。自分が仇の命まで救ってしまったことを認めたくなかった。
「まあ、よい。それで、聖女を渡さなければ、同盟を破棄することを告げたわけだ。しかしそれでも愚かな国王は聖女を渡すことを拒んだ」
エリシアは戦争の原因が自分であることをはっきりと告げられ、頭が熱くなった。
「なぜそんな愚かなことを……」
「おまえもそう思うであろう? 我が、聖女を奴隷にしたいと伝えただけなのだ。聖女は皇帝の血脈の天敵だと言われ続けての、ならば奴隷にせざるをえまい。だが、あの穏やかなじじいが急に激昂しおったのだ。国王だけでなく、側近たちまでもな。そんなことをすれば我が破滅するぞ、などと身のほど知らずにも脅してきおった。……やつらは帝国を侮っているとしか思えなかった。むろん、やつらは王都に至った帝国軍が捕らえ、八つ裂きにしてやったぞ」
エリシアの頬に涙が流れた。数多の王国兵の遺体を目にし、婚約者の遺体を目にしてなお、痛む心を押し殺して気丈に耐えてきたエリシアだが、もう限界だった。
エリシアにとってはあまりに辛い事実だった。
ただ「聖女」というだけの自分のような何でもない娘のために、自分に不遇な思いをさせまいというためだけに、国王も兵士たちも強大な帝国に挑むことを躊躇わず、死んでいったのだ。
「やつらが抵抗しようがしまいが、おまえは奴隷になるというのにな。王国は狂人の国のようだ。滅んでもいたしかたあるまい」
悔しさと悲しみと、何も気づけなかった自らの情けなさに、エリシアは打ちひしがれていた。
「また体調が優れなくなれば呼んでやる。便利なペットができたものだ」
イザベラが衛兵に指示を出すと、衛兵がエリシアの腕を引いた。
その場を去ろうとすると、イザベラが背後から声をかけてきた。
「念のため言っておくが、自死も許さんぞ。王国民の命が我の手にあることを忘れるなよ」
女帝イザベラは心からおかしいかのように、大きな声を上げてエリシアを笑った。
エリシアはそれ以上、何かを考えることをやめた。
※
エリシアは皇宮の地下の独房に入れられた。
独房の鉄格子の前には一人の牢番の男が見張っていたが、エリシア自身には逃げる手段も気力もなかった。
狭い独房で何をするでもなく、エリシアはじっとしていた。しかし、そうしていると自然と涙が溢れてきた。
どうせこうなるのであれば、王国は最初から自分を差し出すべきだった。そうすれば誰も死なずに済んだのだ。
しかし、エリシアは王国の人々が決してそんな判断はできないだろうということも知っていた。
「聖女様……」
ふと牢番の男がエリシアに向いて話しかけてきた。
エリシアは顔を上げた。
「このようなことになって……申し訳ありません。僕たちも命令には逆らえないので……」
牢番の男の言葉にエリシアは戸惑い、何を言い返すべきかわからなかった。
「こんなこと言っても困りますよね、不躾にすみません。実は以前、あなたにお会いしたことがあるのです」
エリシアは思い返したが、その牢番の男の顔を思い出すことができなかった。帝国から王国まで治療に来る患者も少なくなかったので、すべての患者の顔までは覚えていなかったのだ。
「二年ほど前、母が重い病に倒れました。帝都の医師は手の施しようがない、もって一年程度だろうと……ただ、『聖女の奇跡でもない限りは』と口にしたんです。僕たちはその言葉を頼りに、ヴァレンティア王国へ向かいました」
牢番は一呼吸置き、話を続けた。
「正直、怖かった。異国の者で、金もなくて……門で追い返されると思っていました。でも王都には誰も僕らを拒む者がいなかった。道を尋ねれば、見知らぬ老婆が教会まで一緒に歩いてくれて、施療院では、母の顔色に気づいた人たちが順番を譲ってくれた」
「……」
「そして、聖女様は躊躇なく母を癒やしてくださいました。あれほどの病が、たった一度で……母は今も元気です。僕は治療費として持っていたものを全部差し出そうとしましたが、聖女様も教会も受け取らなかった。『わざわざ遠くから来てくれたのに、そんなお金は受け取れない』と」
男は唇を噛んだ。
「母は、あなたと王国を『奇跡』だと言います。僕も……あの日から、感謝を忘れたことはありません」
そこで牢番は話を終えたようだった。あの王国であれば、どこの誰であれ、困っている者に手を差し伸べるのは当たり前だった。
「そう……」
「ですから、今回の戦争は僕にとって、いえ、僕だけではなく、王国を友人と思っていた多くの人が悲しく思っています。僕にとっては恩を仇で返すようなものでした」
エリシアの胸中は複雑だった。戦争を仕掛けたのは女帝イザベラだとしても、帝国の民たちには戦争の責任がないと考えるのは簡単なことではなかった。
「今も、僕はあなたをこの独房に閉じ込めている張本人です。言い訳のしようもありません。
ただ、もし何かできることがあれば仰ってください。必要なものもできる限り用意いたします」
——王国の人々の優しさが、こんなところでも私を救おうとしてくれようとしている……
エリシアは王国を恋しく想い、涙を流した。
「あなたのお名前を教えていただけませんでしょうか」
「僕は、ルカと言います」
「ルカさん……では一つお願いできますでしょうか?」
※
牢番ルカは非番の時間を使って、「聖女の使い」を果たすことにした。
使いを果たした程度で、聖女と王国への恩を返し、非道への償いになるとは思ってはいなかったが、少しでもその返済をしたいという一心だった。
王国への道はぼんやりと覚えていたが、聖女の言っていた戦地の「施療院」の場所は簡単には見つからなかった。
村は焼け、道標になりそうなものも失われていた。それでもルカは、聖女の言葉を頼りに進んだ。聖女の「加護」のおかげで、魔物に遭遇しにくいのだけが、救いだった。
進んでいくうちに、ルカは違和感を覚えていた。地上に倒れていた兵士たちが、槍や剣での刺し傷や切り傷ではない類いの傷を負っていたのだ。まるで猛獣の爪で削られ、食いちぎられたような……
そして兵装からして、王国軍だけでなく、帝国軍の死体の数も多く、中には兵士の装備をしていない者——おそらく戦場を荒らしていた野盗の死体もあった。
それは、戦争の後に生み出された死も混じっているということだ。
ルカは戦慄した。エリシアは「加護」でも強力な魔物や猛獣まで退けることはできないはずだ。
そして今、ルカは邪悪な何者かの視線を受けていた。
それはルカにゆっくりと近づいてきた。王国兵も帝国兵も野盗も見境なく攻撃するその存在が……
それは——人の形をしていた。
だが、人ではない。
皮膚は黒く硬質で、ところどころに古傷のような裂け目が刻まれている。その裂け目からは血ではなく、霧のような瘴気がゆっくり漏れ出ていた。
腰から下は獣の足のように太く、岩のような筋肉が隆起し、足先は蹄のようだった。肩や腕もやはり筋肉が大きく隆起し、腕の先の手指には鋭い爪が生えていた。
人の輪郭が残っているのに、顔は獣のそれで、額からは二本のねじれた黒角が生えていた。
その胸元には、鎧の残片が貼り付いていた。その胸当てには、ルカにも見覚えのある紋章が刻印されていた——王国の聖教会の紋章。傷がつき、かすれていたが、間違いなかった。
ルカは確信した。それは、エリシアがルカに依頼し、探していた聖騎士ユリウスの死体——何らかの理由で鎮魂がされず、魔物化してしまったのだ。
エリシアは遺体が損壊されないよう「保護」し、隠蔽するように言われていた。しかし魔物化してしまった以上、それは不可能だった。
エリシアには申し訳なく思いながら、ルカは死を覚悟した。王国の騎士の魔物が自分を殺すことで、帝国への復讐心を少しでも満たすことができるのであれば、少しだけでも恩を返せるか、とそんなことを考えていた。
魔物となったユリウスは、ルカの前まで来ると腕を振り上げた。ルカは目を閉じた。
「エリシア様、役目を果たせず申し訳ございませんでした……」
「……」
——痛みが来ない。
ルカは目を開けた。
ユリウスはまだそこで立っていた。赤い獣の目でルカをじっと見ていた。
「連れて行けと言うのか……?」
魔物は黙ってルカを見つめ続けていた。
※
エリシアは独房から出され、再び皇宮の広間で女帝イザベラの前に立っていた。
イザベラは以前見た時以上に不機嫌そうにしていた。
「また体調が優れなくなってな。以前よりもひどいのだ。『浄化』と『治癒』をせよ」
イザベラが不躾に指示をした。
しかし——エリシアはおぞましいものを目にしていた。
幾重にも重なった複雑な呪いの鎖……明らかに人為的な呪いだ。しかも呪いを施しているのは一人や二人ではない。
「浄化」
エリシアは浄化の魔法をイザベラに施した。
呪いの鎖が一つ解ける……しかし……その直後に再び鎖が繋がれた。
「何だ。一瞬体が軽くなったが、またもとに戻ったぞ。まじめにやらんか。
王国民の命を軽く見ているのではあるまいな」
「あなたはどれだけの恨みを買っているのですか……」
「何を言っておるのだ? 滅ぼしたのはおまえの王国だけではないのだ。帝国の女帝ともなれば多少の恨みは避けられんわ」
「そんなものじゃありません。その呪いは『多少』なんてものじゃないんです。どれだけの悪行をしたらこんなことになるの……」
「うるさいわ」
そう言いながらイザベラは笑った。まるでその恨みの大きさを誇らしく思うかのように。
「先の時も簡単に浄化したではないか。今回も同じようにやるだけであろう」
エリシアは先日浄化した呪いを思い返し、あることに思い当たった。
「私にとっては呪いでしかなかったのですが……私が浄化したのは、あなたを守る加護だったのではないでしょうか……」
「どういうことだ?」
「私の想像でしかありませんが……帝国の皇帝とは業の深い存在なんでしょうね……。おそらく呪いから守るために呪術のようなもので代々の皇帝は守られてきたのでしょう。その中でも特に悪行が過ぎたあなたは極端に重い呪いを受けて、加護もそれに耐えきれず、あなたの身体に影響を及ぼしていたのではないでしょうか」
エリシアはため息をついた。
「王国との同盟は、聖女がその加護を『浄化』するのを防ぐために、聖女を遠ざけるためにあったのではないでしょうか? それを破棄した上、王国を滅ぼすなどという愚行を犯したことで、あなたにかかる呪いはさらに重くなったことでしょう。あなたの呪いは業を喰らう類の呪いです。
私が加護を『浄化』したときに、一度はまとわりついていた呪いも持ち去られたようですが……今はもうあなたを守る加護はありません」
「天敵の聖女……我の加護は聖女に『浄化』される性質のものだったというのか……」
「……私はやっと、王国が帝国との戦争に挑まざるを得なかった理由がわかりました。聖女は王国の支柱であり、王国が私を愛していてくれて、守ろうとしてくれたことも自覚しております。たとえ戦争を避けようと私を差し出しても、強欲なあなたは聖女を永遠に手元に置くために、王国を滅ぼそうとするだろうことも知っていたのです」
「ははは、そうか。我に戦争を避ける意思がないことを見抜かれていたか」
「でもそれだけではない……」
エリシアはイザベラを見つめ、その眼差しが少しだけ優しくなった。
「帝国を、あなたをも守ろうとしたのです。聖女が皇帝の血脈の者に近づくことで、あなたにもよからぬことが起こることをわかっていて、心優しい王国の人々は、あなたさえ助けようとしていたのです。それなのにあなたは聞く耳を持たず戦争を仕掛けた……勝ち目がなくとも、王国は必死で戦って私を守る以外の選択肢を持たなかったのです」
「戯言を……」
「そう思うのなら、試しに王国の民を……いえ、私を殺してみたらいかがですか? 私の言ったことが本当かわかりますよ。あなたの破滅を早めるだけのことです。あなたはあなたを守る加護を自ら捨ててしまったのです」
「……やってくれたな……貴様」
エリシアが鼻で笑う。
「あなたがご自分でやらせたことではないですか」
「聖女ならばどうにかしてみせよ!」
イザベラが充血した目をエリシアに向けて叫んだ。
「私の手に負えるものではございません」
「役に立たん聖女など殺してくれよう。剣を貸せ!」
イザベラは護衛の兵から剣を奪い取り、エリシアに迫った。
エリシアは天を仰いだ。
——図らずも、私は帝国に、この女帝に復讐を果たしたのだ。少しは王国の皆の弔いになっただろうか……
ルカには悪いことをした。どうせ死ぬのであれば、ユリウスの遺体を隠す必要もなかった。
目を閉じ、死が訪れるのを待った。
そのとき、広間の扉が開く音が響いた。
目を開いて前を見ると、剣を手にしたイザベラは充血した目を見開き、エリシアの背後を凝視していた。
エリシアは後ろを振り返った。
そこに、人型の、獣のような顔の魔物が立っていた。
「なぜ魔物がこの城に侵入しておるのだ……。ここは帝国の皇宮なのだぞ。貴様らも役立たずか!」
そう叫んでイザベラは剣を奪い取った護衛兵を斬りつけた。
呪いのためか、興奮のためか、イザベラの呼吸が激しくなり、その場に崩れ落ちた。
周囲の兵士たちは誰もイザベラに手を差し出さなかった。足がすくんだというだけではない。兵士たちにはイザベラを助けようという意志が働かないようだった。
魔物はエリシアに向かって走り出した。
エリシアはまた目を閉じた。
——帝国に殺されるはずが、魔物に殺されるなんて奇妙な運命だわ。せっかくなら帝国を滅ぼしてくれないかしら。私の命ならいくらでも差し出すから……
そのとき、エリシアの足が地面から浮き上がった。
エリシアは驚いて目を開くと、魔物はエリシアの体を抱え、広間の出口に走り出していた。
広間を出ると、皇宮の廊下には倒れた兵士がそこかしこに転がっていた。
魔物は構わず廊下を疾走し、瞬く間に外に出た。
エリシアは久しぶりに陽の光を浴びた気がした。魔物に抱えられたまま、清々しい気分になっていた。
エリシアにはその魔物が何者か、すでにわかっていた。
※
「私があなたの魂を鎮めなかったせいね……あなたが魔物になってしまうかもしれないと私はわかっていながら、どうしてもあなたを冥府に送り出すことができなかった……。本当にごめんなさい……」
エリシアは魔物の——ユリウスの胸当ての紋章に手を触れた。
ユリウスはエリシアを赤い目で見つめていた。その瞳の中に、人間であった時の知性が残っているのをエリシアは認めることができた。
「不思議なものね……。魔物が少しでも理性を残すなんて……。私の『保護』にそんな効果があったのかしら。あるいは私の未練が、あなたの魂にくびきをつけたのか……」
エリシアは愛おしそうにユリウスの獣の顔の頬に触れた。
「戦争が終わったら結婚しようって言ってくれていたわよね……。王国の教会で結婚式を挙げましょう。皆驚くでしょうね。魔物と結婚する聖女なんて」
エリシアが微笑むと、ユリウスもかすかに笑顔を見せたように思えた。
「私もあなたと一緒に地獄に落ちるわ」
そう言って、エリシアは魔物に口づけをした。
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