第九話 観測者
展示会の会場は、湾岸に近い倉庫街の一角にあった。
再開発から取り残されたエリアで、夜になると人通りはほとんどない。
カードに記されていた住所は、その中でもさらに奥まった場所だった。
灯は、車の中でフロントガラス越しに建物を見つめていた。
倉庫。
窓は少なく、外壁は塗り直された形跡がある。
古いのに、新しい。
「ここです」
助手席で言うと、ハンドルを握る東堂恒一が小さく頷いた。
「警戒はします。ですが——」
「分かっています」
灯は、彼の言葉の先を遮った。
「証拠がなければ、踏み込めない」
東堂は否定しなかった。
今日はあくまで“確認”だ。
公式な捜査ではない。
二人は建物の前で車を降りた。
外灯は少なく、足元は影に沈んでいる。
入口のドアは、開いていた。
——招かれている。
その事実が、灯の背中を冷やした。
中に入ると、空気が変わった。
倉庫特有の湿り気に、微かな薬品の匂いが混じっている。
「……画材の匂いだ」
灯が呟く。
照明は最低限。
通路の先に、白い光が集まっている。
展示室だった。
白いパネルが等間隔に並び、その一枚一枚に、絵が貼られている。
額縁はなく、紙のまま。
だが、配置は正確で、迷いがない。
灯は、一歩、前に出た。
そこにあったのは、見覚えのある構図だった。
路地。
壁。
灯り。
——私の絵。
正確には、私が描いた“未来”を、誰かが描き直したもの。
「時系列で並んでいます」
背後から声がした。
例の男だった。
宅配を名乗った、観測者。
「最初の事件から、最新の未然まで」
東堂が、一歩前に出る。
「これは、犯罪の予告か」
「いいえ」
男は即答した。
「記録です」
「誰の」
「社会の」
灯は、視線を壁から離せなかった。
絵は、少しずつ変化している。
同じ事件を、複数の角度から描いたものもある。
「あなたは、未来を一点で捉える」
男は、穏やかに続けた。
「私たちは、面で捉える」
壁の中央。
大きなパネルに、まだ何も貼られていない。
「次は、ここです」
男は、灯を見た。
「あなたの協力で、完成する」
灯は、ゆっくり首を振った。
「完成した未来は、
もう変えられない」
「変えないから、いい」
男は言った。
「混乱より、固定を」
その言葉に、東堂が鋭く反応した。
「固定された未来は、誰の利益になる」
「全体の」
「誰が決める」
「私たちが」
迷いのない答えだった。
灯は、そのやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。
——この人たちは、未来を恐れていない。
恐れているのは、不確実性だ。
展示室の奥で、灯は一枚の絵の前に立ち止まった。
それは、まだ起きていないはずの場面。
白い部屋。
中央に立つ女。
背中だけ。
——私。
「これは……」
「予測です」
男は、静かに言った。
「あなたが、選ぶ未来」
灯は、胸の奥で、何かが静かに切り替わるのを感じた。
ここで拒めば、
この人たちは別の方法で未来を集める。
ここで従えば、
未来は整理され、並べられ、意味を与えられる。
どちらも、正しくない。
「一つ、条件があります」
灯は、言った。
男は、興味深そうに眉を上げる。
「この展示には、
私の絵を一切使わないでください」
空気が、止まった。
「私が描いた未来は、
私が管理します」
男は、数秒、黙っていた。
やがて、微笑んだ。
「……交渉ですね」
「拒否です」
灯は、はっきりと言った。
「あなたたちは、
未来を見せたいだけ」
男の目が、わずかに細くなる。
「あなたは、未来を壊そうとしている」
灯は、静かに答えた。
「いいえ」
白いパネルを見つめながら。
「私は、
未来を、点けないだけです」
その瞬間、展示室の照明が、一斉に落ちた。
暗闇。
非常灯の赤い光だけが、壁を染める。
「——東堂さん」
「いる」
短い返事。
闇の中で、誰かが動く気配。
展示は、終わった。
観測は、続く。
そして、灯は知った。
自分はもう、
観る側ではいられない。




