第八話 接触
インターホンの音は、短く、しかし正確だった。
二度目。
迷いがない。
灯は、ドアの前で立ち止まった。
スケッチブックを胸に抱えたまま、呼吸を整える。
逃げるという選択肢は、すでに消えている。
逃げ場のない未来ほど、はっきりしたものはない。
「……どなたですか」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
『先ほどの宅配です』
同じ言い方。
同じ高さの声。
灯は、ドアを少しだけ開けた。
チェーンは外さない。
男は、二十代後半に見えた。
作業着は清潔で、靴も揃っている。
不審な点はない。
不審であること以外は。
「不知火 灯さんで、お間違いないですね」
名前を呼ばれた瞬間、灯の胸の奥が、静かに凍った。
「……違います」
反射的に言っていた。
否定は、いつも少し遅れる。
「そうですか」
男は、あっさり引いた。
それが、かえって異様だった。
「では、こちらは宛先不明ということで」
彼は、荷物を持ち上げる仕草をした。
だが、去らない。
「展示は、お好きですか」
その言葉が出た瞬間、
灯は、確信した。
——この人だ。
「……何の話ですか」
「未来の話です」
男は、穏やかに言った。
「あなたの絵は、素晴らしい。
ただ、散らばりすぎている」
灯は、チェーン越しに男を見た。
彼の目には、期待があった。
尊敬とも、欲望ともつかない、澄んだ光。
「整理すれば、役に立つ」
男は、そう言った。
「誰の、役に」
「社会の、です」
答えは即答だった。
「未然に防げる事件。
無駄な犠牲。
不確実性」
灯は、スケッチブックを抱き直した。
「あなたは、未来を当てているんじゃない。
照らしている」
男は、言葉を選ぶように続けた。
「照らされたものは、人に見られる。
見られたものは、意味を持つ」
その理屈は、危険なほど正確だった。
「だから、展示が必要なんです」
「……誰が、展示するんですか」
男は、少しだけ笑った。
「私たちが」
複数形。
それだけで、十分だった。
「協力してください」
男は、穏やかに言った。
「あなたは描く。
私たちは並べる。
社会は、救われる」
灯は、首を振った。
「それは、支配です」
「管理です」
即座に返ってくる訂正。
「不確実な未来より、
予測可能な悲劇の方が、まだ優しい」
その言葉に、灯は一歩下がった。
——この人は、悪意で動いていない。
だから、止めにくい。
「答えは、今でなくていい」
男は、ドアの前から下がった。
「ただ、あなたはもう、
一人で描けない」
去り際に、彼は一枚のカードを床に置いた。
白いカード。
黒い文字。
EXHIBITION / NEXT
住所と、日時。
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
灯は、その場に座り込んだ。
息が、遅れて戻ってくる。
スマートフォンが鳴った。
『東堂です』
灯は、すぐに出た。
「来ました」
『……誰が』
「展示をする人です」
短い沈黙。
『無事ですか』
「今は」
『場所と特徴を教えてください』
灯は、床に落ちたカードを見た。
「行けば、全部分かります」
『行くつもりですか』
灯は、少しだけ考えた。
行かなければ、描かれる。
行けば、選べるかもしれない。
「……見に行くだけです」
『一人では行かせません』
東堂の声は、低く、はっきりしていた。
通話を切ったあと、灯はスケッチブックを開いた。
新しいページ。
描かれたのは、
白い部屋。
並べられた絵。
その中央に、空白。
空白の前に立つ、自分。
灯は、鉛筆を置いた。
——まだ、描かれていない。
その事実が、
わずかな救いだった。




