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第七話 視線

 灯は、カーテンを閉めたまま、朝を迎えた。


 外が明るくなっていることは、空気の温度で分かる。

 光を入れたくなかった。

 理由は単純で、説明できない。


 ——見られている。


 その感覚だけが、皮膚の内側に残っていた。


 前日の匿名メッセージは、それきり途絶えている。

 だが、沈黙は安心を意味しなかった。

 むしろ、距離を詰める前の静けさに近い。


 灯は、コーヒーを淹れようとして、やめた。

 手が、わずかに震えている。


 代わりに、スケッチブックを手に取った。

 開かない。

 それが、今の彼女の選択だった。


 玄関のポストに、紙が一枚差し込まれていたのは、昼過ぎだった。


 チラシではない。

 封筒でもない。


 白い紙に、短い文章だけが印刷されている。


『見せなければ、意味がない』


 署名はない。

 だが、誰の言葉かは分かった。


 灯は、紙を折り、ポケットに入れた。

 すぐに捨てなかったのは、捨てたところで、この言葉が消えないと知っているからだ。


 スマートフォンが鳴る。


『東堂です。今、大丈夫ですか』


 声は、いつもより張り詰めていた。


「……はい」


『あなたの周囲で、何か変わったことは』


 灯は、少し迷ってから答えた。


「直接的には、何も」


『“直接的じゃない”ことが起きているなら、それは変化です』


 その言い方に、灯は小さく息を吐いた。


「メッセージが来ました」


『内容は』


「……展示、という言葉が出てきました」


 通話の向こうで、東堂が椅子を引く音がした。


『こちらでも動きがあります』


 東堂は言った。


『古い廃ビルで、不審な出入りが確認されました。

 深夜、決まった時間にだけ』


「展示室……」


『確定ではありません』


 東堂はすぐに付け加えた。


『ただ、あなたの絵に出てきた構図と、建物の間取りが一致します』


 灯は、無意識にスケッチブックの方を見た。

 閉じたままなのに、そこに答えがあるような気がした。


「東堂さん」


「はい」


「私は……もう描かない方がいいと思います」


 少しの沈黙。


『それは、あなたが決めることです』


 彼は、そう言った。


『ただ、描かないことで、

 誰かが描き続けるなら——』


 言葉が途切れる。


 灯は、その先を理解した。


「……止められない」


『止めるかどうかも、選択です』


 通話が切れたあと、灯は部屋の中央に立った。


 白い壁。

 何も貼られていないはずの空間。


 ——違う。


 よく見ると、壁の一部が、わずかに色を変えている。

 日焼けではない。

 何かを剥がした跡。


 灯は、そこに近づいた。


 かつて、ここに絵が貼られていた。

 そんな記憶はない。


 それでも、確信があった。


 ここは、展示の予行演習だ。


 灯は、スケッチブックを開いた。


 開くつもりはなかった。

 だが、指が勝手に動いた。


 鉛筆が、紙に触れる。


 描かれたのは、

 暗い室内。

 並べられた絵。

 その中に、見覚えのある一枚。


 ——最初に描いた、駅の男。


 そして、その絵を見つめる、後ろ姿。


 人物の手には、赤いシールのようなものが貼られている。


 番号。

 整理番号。


 灯は、ぞっとした。


 未来は、

 分類され、保管され、使われる。


 スケッチブックを閉じた瞬間、

 インターホンが鳴った。


 心臓が跳ねる。


「……どなたですか」


『宅配です』


 普通の声。

 普通すぎる。


 灯は、ドアスコープを覗いた。


 そこにいたのは、若い男だった。

 作業着。

 無表情。


 目が合った、その瞬間。


 胸の奥が、静かになった。


 ——来る。


 灯は、スケッチブックを胸に抱えた。


 次に描かれるのは、

 この男の未来か。

 それとも、自分自身か。


 インターホンが、もう一度鳴る。


 逃げ場は、もうなかった。

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