第四話 信じるという危険
警察署の廊下は、昼でも夜でも同じ匂いがした。
紙と消毒液と、少し古い空気。
東堂恒一は、自動販売機の前で缶コーヒーを買い、プルタブを引いた。
甘い。
だが、眠気は引かなかった。
——止められなかった。
それが、頭の中で何度も繰り返されていた。
不知火灯の言った通り、場所は合っていた。
時間帯も、動線も。
それでも、結果は“重傷”。
救えたと言えるのかどうか、判断がつかない。
「考えすぎだ」
背後から声がした。
三嶋恒一郎だった。
手には紙コップ。中身はブラック。
「未来予測なんて、当たったり外れたりするもんだ。
たまたま合っただけで、信じる理由にはならん」
「……信じてはいません」
東堂はそう答えたが、自分の声に確信がなかった。
「なら、距離を取れ」
三嶋は、はっきりと言った。
「彼女の情報を基準に動き始めたら、捜査は歪む。
それに——」
一拍置く。
「彼女自身が、事件に引き寄せられている可能性もある」
疑え、という意味だ。
東堂は否定しなかった。
否定できなかった。
その頃、灯は自室で、スケッチブックを閉じたまま座っていた。
描きたい衝動は、なかった。
その代わり、描いてしまう恐怖が、ずっと胸の底に沈んでいる。
東堂に伝えたことで、未来は少しだけ変わった。
死は免れた。
だが、誰かは傷ついた。
——私が、口を出したから。
スマートフォンが鳴る。
『不知火さん』
東堂だった。
「……はい」
『今、少しだけ会えますか』
迷いは、なかった。
断っても、何も解決しない。
二人は、駅前の小さな喫茶店で向かい合った。
午後の客は少なく、話し声は目立たない。
「改めて言います」
東堂は、カップを持ったまま言った。
「あなたの情報は、危険です」
灯は、黙って聞いている。
「でも、無視できない」
その言葉に、灯は顔を上げた。
「だから、提案があります」
東堂は、慎重に言葉を選んだ。
「あなたが描いたものを、
全部は教えないでほしい」
「……?」
「重要そうな部分だけでいい。
解釈は、こちらでやる」
灯は、ゆっくり首を振った。
「それが、一番危ない」
「なぜですか」
「あなたが、信じ始めているから」
東堂は、返事を詰まらせた。
「絵は、事実じゃありません。
見る人の期待に、引き寄せられます」
灯は、自分でも驚くほど、はっきりと言った。
「信じれば、信じるほど、
未来はその形に近づく」
東堂は、目を伏せた。
「それでも……誰かを助けられるなら」
「助けたつもりで、壊すこともある」
灯の声は、低かった。
沈黙が落ちる。
「じゃあ、どうすればいい」
東堂が、ほとんど独り言のように言った。
灯は、しばらく考えた。
「……私を、道具にしないでください」
「それは——」
「一緒に見るなら、
疑いながら見てください」
東堂は、ゆっくりと頷いた。
「約束はできません」
「分かっています」
それでいい。
約束は、未来を固定する。
別れ際、東堂は一度だけ振り返った。
「不知火さん」
「はい」
「あなたは……怖くないんですか」
灯は、少し考えた。
「怖いです」
そして、正直に付け加えた。
「でも、見てしまうより、
信じられる方が、もっと怖い」
東堂は、その言葉を持ち帰るように、黙って去った。
灯は一人、喫茶店を出た。
夕方の光が、街を均等に照らしている。
その光の中で、灯はふと思った。
——もし、次に描かれるのが、
私自身だったら。
それでも、私は見るのだろうか。
答えは、まだなかった。




