第二十九話 面で描く者
雨は弱くなっていた。
病院の玄関前の舗道にはまだ水が残っているが、街灯の輪郭ははっきりしている。雲が薄くなり、空の明るさがわずかに戻っていた。
灯は屋根の張り出しの下で立ち止まっていた。
帰るべきだと頭では分かっている。だが足が動かない。さきほどの青年の気配が、まだ空気のどこかに残っている気がした。
描き手同士は、去ったあとでも圧が残る。
線の余熱のようなものだ。
「追わないのか」
後ろから東堂が言った。
「追えば会えます。でも、それは違います」
「違う?」
「観測の順番が」
東堂は小さく息を吐いた。
「君たちの理屈は、まだ半分しか分からん」
「半分で十分です」
灯は少し笑った。
「残り半分は、描写で説明します」
そのとき、足音が戻ってきた。
さきほどの青年だった。
自動ドアを入らず、ガラス越しにこちらを見ている。距離は保ったまま。近づきすぎない位置取り。
逃げない。
踏み込まない。
均衡の距離。
灯は視線だけを向けた。
顔の細部は見ない。対象認識を深めないためだ。輪郭と姿勢だけで十分だった。
「少しだけ話せますか」
青年が言った。
声は静かで、抑揚が少ない。感情の波が観測に影響しないよう調整された声だ、と灯は直感した。
「内容によります」
「未来の扱い方について」
東堂が横で腕を組んだまま言う。
「名前は」
青年は一拍置いてから答えた。
「神代景です」
灯は心の中で反芻した。
音の印象が、線の印象と一致している。
角があり、無駄がない。
「私は不知火灯です」
「知っています」
「でしょうね」
互いにそれ以上の自己紹介はしない。
経歴は観測には不要だ。
「あなたの描き方は、面ですね」
灯が言う。
「あなたは点です」
景は即答した。
「人物を中心に置く」
「あなたは構造を中心に置く」
「そうです」
会話は短いが、意味は深い。
観測単位の違い。
「人物未来は近距離精度が高い」
景が続ける。
「ただし、感情誤差が乗る」
「認めます」
灯はあっさり言った。
「構造未来は遠距離精度が高い」
「ただし、局所情報が抜ける」
「認めます」
対立ではない。
仕様確認だった。
「同時に描けば、誤差が減ります」
景が言った。
「理論上は」
灯は答える。
「ですが、観測共有は固定力を上げる」
「だから最小共有にする」
そこまで計算している。
「どうやって」
「重ねない」
景は言った。
「並べる」
その瞬間、灯の胸の奥に描画圧が立ち上がった。
対象は、救出された男。
まだ分岐が残っている。
「……来ます」
「私もです」
景は迷わずスケッチブックを開いた。
東堂は何も言わない。止めない。
二人が同時に描き始める。
灯の線は人物から入る。
病室。
ベッド。
起き上がろうとする男。
点滴ライン。
手元の抜去動作。
警告音。
次に看護師の動き。
慌てて支える姿勢。
一方、景の紙には病室配置図が現れる。
ベッド位置。
モニター位置。
ケーブル導線。
赤い円。
絡まり点。
転倒危険位置。
灯の絵には続きが出る。
足がもつれる。
転倒角度。
頭部打撃。
景の図には修正線が入る。
ケーブル位置変更。
支点移動。
安全導線。
線が止まる。
灯が言う。
「頭部を打ちます」
景が言う。
「ケーブルを右にずらせば回避できます」
東堂が無線を入れた。
処置が変わる。
未来が外れた。
「並べればいい」
景が静かに言う。
「重ねずに」
灯は頷いた。
「それなら、未来は減らない」
二人の間に、奇妙な静けさがあった。
敵でも味方でもない。
観測単位の違う、同業者。




