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第二十八話 視線の交点

 雨は夜に入っても止まなかった。


 病院の正面玄関はガラス張りで、外の街灯が滲んで見える。床のタイルには濡れた靴跡が点々と続き、清掃員がモップでそれをゆっくり追いかけていた。


 三階の騒ぎは収まっている。危険物は模造だった。爆発性はない。ただの金属塊と配線の組み合わせ――脅しと誘導のための“見せかけ”。


 だが意図は明確だった。


 未来をずらすための配置。


 灯は一階ロビーの端に立ち、外を見ていた。

 ガラスに自分の顔が薄く映っている。


 胸の奥の圧は、まだ消えていない。


 同時描画のあとに残る、余震のような感覚。


 誰かが同じ対象を、同じ時間帯に観測している。

 それだけで空気の層が一枚増える。


「帰らないのか」


 東堂が隣に立った。


「もう少し」


「何を待ってる」


「交点です」


「交点?」


「観測の」


 東堂はそれ以上聞かなかった。理解できない言葉は、そのまま置く人間だ。


 自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んだ。


 一人の青年が入ってくる。


 傘は持っていない。コートの肩が少し濡れている。歩き方は速くも遅くもない。周囲を見ているようで、誰も見ていない視線。


 距離を測る人間の歩き方だった。


 灯は視線を合わせないようにした。


 顔を見れば、対象認識が成立する。


 だが分かる。


 空気の圧が一致している。


 同種だ。


 青年は受付にも寄らず、壁際の椅子に座った。ポケットから小型のスケッチブックを出し、開く。迷いなくペンを持つ。


 描き始めた。


 ここで。


「……大胆ですね」


 灯は小さく言った。


「知り合いか」


「まだです」


 描画圧が同時に上がる。


 灯の手も自然にパッドを開いていた。


「ここで描くのか」


 東堂が言う。


「はい。合わせてきています」


「何を」


「観測タイミングを」


 線が走る。


 灯の絵は人物から始まる。


 ロビー中央。

 床の反射。

 歩いてくる看護師。


 その足元。


 濡れたタイル。


 滑り。


 転倒の瞬間。


 トレイが飛ぶ。

 薬剤が散る。


 点滴パック。


 液体。


 線が止まる。


 同時刻、青年のスケッチブックには別の絵が描かれていた。


 ロビー俯瞰図。


 入口から受付までの導線。

 濡れた床の範囲。

 清掃動線の空白。


 赤い斜線。


 滑走方向。


 人物なし。


 灯は顔を上げた。


 青年も同時に視線を上げていた。


 初めて、目が合う。


 表情は穏やかだった。

 敵意はない。驚きもない。


 ただ確認の視線。


 “やはり君か”という目だった。


 言葉は交わさない。


 だが彼は、自分のスケッチブックを少しだけ傾けた。


 見せる意図ではない。

 確認させる意図。


 構造線。


 導線図。


 灯は自分の絵を少しだけ見せた。


 人物転倒の瞬間。


 青年はわずかに頷いた。


 評価ではない。整合確認の頷き。


 東堂が無線を入れ、清掃員の動線を変えた。

 濡れた区画を封鎖する。


 数分後、転倒は起きなかった。


 未来が外れた。


 青年はスケッチブックを閉じ、立ち上がった。

 そのまま出口へ向かう。


 すれ違いざま、小さく言った。


「人物未来は、近いが揺れる」


 声は落ち着いていた。


 灯は答える。


「構造未来は、遠いが冷たい」


 青年はわずかに笑った。


「適切だ」


 それだけ言って、雨の中へ出ていった。


 東堂が言う。


「名前は」


「まだ聞かない方がいいです」


「なぜ」


「名前は対象認識を固定します」


 灯はガラスの向こうを見る。


「次は、未来の中で会います」

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