第二十七話 二枚で完成する未来
雨が降り始めたのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
細い雨だった。音はほとんどない。ただ空気の輪郭だけが柔らかくなる。病院の窓ガラスに水の筋がゆっくり伸び、外の景色を縦に歪ませていた。
灯は三階の待機スペースの端に座っている。
人の流れから少し離れた椅子。
壁際。背後が取れる位置。
スケッチパッドは閉じたまま膝の上に置いてあった。開かないように、無意識に指で押さえている。
救出された男は安定したと聞いた。意識も戻りつつある。だが事情聴取はまだ先だ。医師が止めている。
それでいい、と灯は思う。
いま言葉を聞くと、“未来の枝”が増えすぎる。
対象の情報が増えるほど、描かれる未来は具体化する。具体化は精度を上げるが、同時に固定力も増す。
窓の外を見ないようにしていた。
あの観測者がまたいる気がしたからだ。
見れば、認識が深くなる。
認識が深くなれば、描画圧が上がる。
だが、描画圧は視線とは無関係に来ることもある。
胸の奥で、空気が重くなった。
「……同時圧」
小さく呟いた。
これは対象由来ではない。
観測者由来の圧だ。
同種能力者が描いているときに発生する、位相の重なり。
手が自然にパッドを開いていた。
ペン先が紙に触れた瞬間、
廊下の音が霧の向こうへ退く。
線が走る。
今回は動きが速い。
迷いがない。
人物の後ろ姿。
廊下を歩いている男。
救出された失踪者だ。
点滴スタンドを押している。
歩行訓練中。
視点はやや上。監視カメラ角度。
足元に細い影。
床に置かれたバッグ。
誰のものでもない位置。
さらに描き込まれる。
バッグのファスナーが半分開いている。
中に四角い塊。
金属。
配線。
灯の背中に冷たいものが走った。
危険物だ。
だが次の瞬間、線が止まる――はずが、続いた。
自分の線ではない筆圧で。
薄い補助線が追加される。
俯瞰導線。
逃走経路。
遮蔽物配置。
人物ではなく、動線が描き足される。
「……来た」
もう一人の描画だ。
現実側では、東堂が同時刻に別室で倉庫資料を見ていた。
彼の机の上にも、一枚の紙が置かれていた。
それは匿名投函の構造スケッチ。
病院フロアの配置図。
三階廊下。
点滴導線。
監視カメラ死角。
そして赤丸。
バッグの位置。
東堂は無線を取った。
「三階廊下、バッグ確認しろ。持ち主確認優先」
灯の絵には続きが出ていた。
人物が振り向く。
バッグの位置を見る。
その瞬間の表情。
驚きではない。
認識。
知っている顔だ。
つまり――仕掛けたのは関係者。
線がさらに追加される。
ガラス面の反射。
廊下端の窓。
外側に立つ人影。
同じ姿勢。
スケッチブックを持っている。
観測者。
こちらを見ていない。
未来を見ている。
音が戻った。
廊下のざわめきが急に近くなる。
無線の声が走る。
『バッグ発見。中身確認中』
灯は絵を見下ろした。
人物未来だけでは、危険物の正体までは出なかった。
だが構造線が加わったことで、意味が確定した。
二枚で一つの未来。
「……合成されてる」
東堂が来た。
「何が見えた」
灯はページを見せずに説明した。人物の動き、バッグ、反射、窓外の観測者。
東堂は短く息を吐いた。
「同時に来ているな」
「はい」
「接触は」
「まだ」
灯は首を振る。
「いま話すと、観測が固定されます」
「なら並行観測のまま進める」
窓の外を見ると、雨は少し強くなっていた。
街路樹の葉が揺れている。
その向こう側、ガラスの反射の中に、一瞬だけ線が見えた。
紙に走るペンの反射線。
彼も、いま描いた。
同じ未来を。
違う単位で。




