第二十六話 窓際の観測者
病院の廊下は、音が均一だった。
足音も、ストレッチャーの車輪も、遠くのナースコールも、すべて同じ厚さの空気に包まれている。反響はあるが尖っていない。壁材が音を丸めている。
灯は受付から少し離れた椅子に座っていた。
直接病室には入らない。
対象との距離は保つ。
救出された男は三階の処置室にいると聞いた。低体温と脱水。命に別状はない。だが事情聴取ができる状態ではないらしい。
それでいい、と灯は思った。
いま言葉を聞くと、描画圧が強くなる。
“対象の未来”は、情報が増えるほど鮮明になる。
窓の外は曇り空だった。
ガラスに街路樹がぼんやり映っている。
視界の中に、違和感が混じった。
反射像の中に、動かない縦線がある。
人影だ。
外の歩道。
街路樹の横に立っている。
距離を取った立ち方。
壁にもたれず、足を止めすぎず、視線だけを固定している姿勢。
観測者の姿勢だった。
灯は視線を外した。
対象認識を深めないために。
だが、もう遅いと分かる。
空気の密度が変わる。
描画圧。
相手が“対象”ではなく“同種”のとき、圧は別の質を持つ。未来の圧ではなく、観測の圧だ。
膝の上のスケッチパッドに手が伸びる。
「……ここで来るんですね」
小さく呟いた。
ペンが紙に触れる。
廊下の音が遠くなる。
蛍光灯の唸りだけが細く残る。
線が走る。
最初に描かれたのは、窓枠だった。
内側から見た構図。
ガラスの反射面。
二重像。
手前に室内。
奥に外。
外側の人物は、顔が描かれない。
だが姿勢が正確だ。
肩幅、重心、腕の位置。
片手が胸の高さにある。
何かを支えている。
長方形。
スケッチブック。
もう片方の手は動いている途中線で止まっている。
描写動作。
描いている。
さらに異様なのは、背景だった。
人物の背後に、街路の立体線が描き込まれている。
建物の角度、道路勾配、歩道の幅。
まるで設計透視図のように。
灯は理解した。
これは人物未来の絵ではない。
事象未来の絵を描く人間の姿だ。
線が止まる。
現実の音が戻る。
廊下のカート音。足音。遠い会話。
灯は顔を上げずに言った。
「外にいます」
近くに立っていた東堂が小さく反応する。
「誰が」
「描いている人」
「見たのか」
「絵で先に」
東堂は窓へは近づかなかった。代わりに反対側の壁の監視モニターを見た。外部カメラの映像が小さく映っている。
「……いるな」
声は低かった。
「接触するか」
「まだです」
灯は首を振る。
「いま話すと、未来が固定されます」
「どういう意味だ」
「観測者同士が情報を共有すると、分岐が減る」
東堂は少し考えたあと、短く言った。
「今日は見送る」
そのとき、再びペンが動いた。
灯の意思ではない。
追記線。
同じ窓構図。
だが今度はガラス面に文字がある。
内側からではない。
外側から書かれている。
【人物未来は局所誤差が大きい】
灯は思わず息を漏らした。
「……直接言えばいいのに」
「何だ」
「感想です」
だが悪意は感じない。
観測評価だ。
東堂が言う。
「君とそいつは、見ている単位が違う」
「はい」
「君は“人”を描く」
「彼は“現象”を描く」
言葉にされると、はっきりした。
点と面。
断片と全体。
感情と構造。
窓の外を見ると、もう人影はいなかった。
だが灯は分かる。
離れただけだ。
観測を終えただけだ。
同じ対象を追っている。
同じ未来を。
違う絵で。




