第二十五話 線の重なり
救急車のライトは、冷蔵倉庫の壁を青白くなめていた。
回転灯の光は断続的で、影を何度も作り直す。灰色の壁、番号の塗装、錆びた蝶番――すべてが点滅するたびに別の質感を持つように見えた。
担架が運び出される。
毛布に包まれた男の顔は青白く、唇の色が薄い。それでも胸は上下している。酸素マスクが曇り、呼吸の存在を証明していた。
灯は距離を保ったまま、その様子を見ていた。
対象を近距離で強く認識すると、描画圧が再発する。助かった直後の未来は不安定で、次の分岐が出やすい。
「近づかないで正解だ」
東堂が横に立った。声は低いが、緊張が解けている。
「意識は?」
「ある。会話はまだ無理だが、反応はある」
それだけで十分だった。
灯は小さく息を吐いた。
「タイマー、ありましたか」
「あった。二時間制御。あと三十分で温度が下がり切る設定だった」
絵と一致する。
未来はまだ固定されていなかった。
だから間に合った。
「君の絵がなければ見落としていた区画だ」
「……私だけじゃありません」
灯は言った。
「補助線がありました」
「補助線?」
「構造線です。視線導線のガイド。私の描き方じゃない」
東堂は一瞬だけ視線を細めた。
「混線か」
「いいえ。混ざったんです」
偶然ではない重なり方だった。
事情聴取は救急搬送のあと、別室で行われた。
倉庫管理会社の仮設事務所。金属机と折りたたみ椅子、壁掛け時計、蛍光灯。温度だけが妙に一定で、空気に倉庫特有の乾きがある。
灯は端の席に座り、スケッチパッドを閉じたまま両手で押さえていた。開くと、また未来が出る気がした。
「状況をもう一度整理する」
東堂が机に倉庫配置図を広げる。
「失踪から三週間。監禁は少なくとも二日前まで第一地下区画。そこから冷却区画へ移送」
「はい」
「問題はここだ」
彼は一点を指した。
「移送ルートが防犯カメラに映っていない」
灯は図面を見る。確かに導線が切れている。通常なら必ずどこかのカメラに引っかかる経路だ。
「死角があるんですか」
「ない。設計上は」
その言い方が引っかかった。
「設計上?」
「カメラは後付けだ。元の設計には監視想定がない」
設計。
その言葉に、灯の頭の中で何かが繋がった。
「……構造未来」
「何だ」
「もう一人の描き手は、設計単位で未来を見ている」
「人物ではなく」
「配置で」
だから死角が先に分かる。
人物未来は“誰がどう動くか”。
構造未来は“どこで何が起き得るか”。
単位が違う。
灯はパッドをゆっくり開いた。
さきほどの救出前の絵。冷却区画。保冷ケース。手。タイマー。
「ここです」
彼女は指で線をなぞった。
「この床の反射ライン。私は質感として描いた。でもこの補助線――」
斜めに入った薄い直線を示す。
「これは設計視線です」
「どう違う」
「観察線じゃない。測定線です」
灯は自分の別のスケッチを取り出した。過去の描画。人物未来の例。
「私の線は、対象に吸い寄せられる」
実際に比べると分かる。灯の線は重心が人物に寄る。中心が呼吸している。
「でもこの線は、空間に基準を作っている」
人間ではなく、構造を中心に据えた線だ。
東堂は腕を組んだ。
「つまり」
「同じ対象を、同時に観測した」
「君と、そいつが」
「はい」
その瞬間、灯の手の奥がまた熱を持った。
対象は、救出された男。
近距離では見ていないのに、意識が繋がった感覚がある。
「……来ます」
「描くか」
「はい」
東堂は机の上の紙を寄せ、ペンを置いた。動きに迷いがない。もう止めようとしない。
線が走る。
今度は病室だ。
カーテンの仕切り。点滴スタンド。モニターの波形。
ベッドに横たわる男。
目が開いている。
その視線の先――
窓。
窓の外に、人影。
顔は描かれない。
だが立ち方が分かる。
距離を測る立ち方。
観察者。
さらに線が追加される。
窓ガラスに映る反射像。
手に持っているのは――
スケッチブック。
灯の呼吸が止まった。
最後に余白へ短い線が走る。
文字。
【先に見た】
灯はペンを離した。
「……見られています」
東堂が低く言う。
「誰に」
「もう一人の描き手に」
窓の外にいたのは、
未来を“人物ではなく事象で描く”側の人間。
灯は確信した。
まだ会っていないのに、
絵の中で先に視線が交差している。




