第二十四話 冷たい区画
港の外れにある冷蔵倉庫群は、街の音から切り離されたような場所だった。
海に近いのに潮の匂いが薄い。代わりに金属と油と古い断熱材の匂いがする。建物はどれも無愛想な灰色の箱で、窓がほとんどない。外壁には番号だけが大きく書かれている。
灯は車を降りた瞬間、空気の違いを感じた。
音が吸われている。
普通の倉庫は反響がある。ここは違う。壁が音を殺している。断熱構造のせいだと頭では分かっても、感覚は落ち着かなかった。
「ここから先は入らなくていい」
東堂が言う。
彼は現場用の手袋をはめながら、倉庫群の配置図をタブレットで確認していた。
「対象を近距離で認識すると、描画圧が強くなります」
「外で十分だ」
「見えなくても描くことはあります」
「それでも外だ」
言い方は穏やかだが、決定事項の声だった。
灯は小さくうなずき、建物から少し離れた位置に立った。風が抜ける場所を選ぶ。閉鎖空間に近いほど、能力は濃く出る傾向がある。
視界の端に、倉庫の並びが入る。
番号の並び。搬入口の高さ。シャッターの傷。
それだけで、胸の奥がざわついた。
――近い。
理由は分からないが、近いと分かる。
対象との距離ではなく、“未来との距離”だ。
東堂たちは三手に分かれて動き始めた。正面確認、裏手確認、地下導線のチェック。無線の声が断片的に入る。
灯は壁にもたれず、足を止めずに立っていた。固定姿勢はよくない。描画圧が一点に集まる。
手が、空気の中で線をなぞる。
「……来る」
低く呟いた。
頭の奥に構図が浮かぶ。
さきほど描いた“空の地下室”ではない。別の場所だ。
紙が必要になる。
だが今回は、自分から出した。
鞄から小さなスケッチパッドを取り出す。持ち歩かないと決めていたが、もう意味はなかった。描く未来からは逃げられない。
膝の上に置く。
「描きます」
近くにいた捜査員が無線で東堂に伝える。
すぐ返答が来た。
『無理に止めるな。そのまま描かせろ』
ペン先が紙に触れる。
周囲の音が一段遠くなる。冷却ファンの低音が水中のように沈む。
線が走る。
今回は俯瞰ではない。
低い視点。床すれすれのカメラ位置だ。
手前に金属の格子。
排水溝のカバー。
床は濡れている。水ではない。
光沢の鈍い液体。
冷却水。
奥に長方形の箱が並んでいる。
コンテナではない。保冷ケース。
そのうち一つだけ、蓋が半開きだ。
ケースの縁に手がかかっている。
人間の手だ。
指先が白い。冷えている。
さらに描き込まれる。
腕。肩。
引き上げようとしている途中の姿勢。
顔はまだ見えない。
だが体格は一致する。
背景に数字が描かれた。
【−3】
マイナス三。
温度。
線が止まった。
灯は息を吐いた。
指先が冷たい。
「冷却区画です」
無線に向かって言う。
「排水溝のある床。保冷ケース。温度マイナス三度」
『位置は』
「地下。通常倉庫ではありません」
少しの沈黙のあと、東堂の声。
『第三列の地下冷却ラインがある。未使用区画だ』
足音が増えた。無線のやり取りが速くなる。
灯はページを見下ろしたまま動かなかった。
まだ終わっていない。
絵には続きがある。
「……追加で来ます」
再びペンが動く。
今度は別角度。
ケースの反対側。
人物の顔が半分見える。
目は閉じている。
だが口元がわずかに動いている線。
呼吸。
生きている。
ケースの外側に、小さな機器。
デジタル表示。
02:17。
タイマーだ。
「時間制御があります」
『どういうタイプだ』
「保冷管理用のタイマー。二時間単位」
『急ぐ』
灯が顔を上げたとき、倉庫の奥でシャッター音が響いた。金属が擦れる長い音。誰かが開けた。
描いた未来が、現実と接続し始めている。
だが、違和感が残る。
この絵は、自分の線だけではない気がした。
構図の取り方が一部だけ異様に正確だ。
まるで設計図の線が混じっているような部分がある。
灯はページの端を見た。
自分が書いた覚えのない補助線が一本ある。
薄い直線。
視線導線。
「……重なってる」
誰かの観測と。
数分後、無線が切り替わった。
『発見した。生存。低体温だが意識あり』
灯はゆっくり目を閉じた。
胸の奥の圧が抜ける。
助かった未来。
それでも安心は半分しかない。
この未来を、自分だけが描いたとは思えなかった。
同じ対象を、別の描き手も追っている。
人物ではなく、構造から。




