第二十三話 起きていない光景
その夜、灯は自分に約束していた。
今日これ以上は描かない。
事故を回避できたなら、それで十分だ。
描くほどに未来は固まる。
共有すればなおさらだ。
机の上から紙類を片づけ、ペンをキッチンの引き出しへ押し込む。スケッチブックは引き出しの奥――あの位置に戻した。戻す動作が、まるで危険物の取扱いのように慎重になるのが嫌だったが、雑に扱うこともできなかった。
窓の外は、港の夜に移っている。
街灯は少なく、海面の反射も薄い。聞こえるのは遠いエンジン音と、波が岸壁に触れる低い音だけだ。
静けさは、考えを増幅する。
掲示板の失踪者の輪郭が、ふと浮かぶ。
顎の線。眉間の間隔。髪の癖。
「だめ」
声に出しても消えない。
対象を意識した時点で、回路は開きかける。
灯は手を膝の上で組み、指先を押さえつけた。紙を探す癖が出ないように。描く環境は排除した。理屈では安全だ。なのに不安だけが残る。
眠りに落ちたのは、深夜を回った頃だった。
目が覚めたとき、部屋は薄明るかった。
カーテンの隙間から灰色の朝が差し込んでいる。
灯は寝返りを打とうとして、右手が硬いことに気づいた。
何かを握っている。
鉛筆。
そして、机の上に開かれたスケッチブック。
昨夜、奥にしまったはずのものが、開かれている。
ページの端に黒鉛の粉が散り、手の側面が汚れていた。
「……無意識描画」
最悪の形だ。
描くべきか、描かないべきかを選ぶ余地がない。
起きたあとに“結果”だけが残る。
灯はゆっくりページを見下ろした。
そこに描かれていたのは、事故ではなかった。
室内――だが、生活の室内ではない。
コンクリートの壁。角が欠け、表面に小さな剥離がある。
床は荒い。土埃の粒が鉛筆の陰影で表現されている。
天井に細い蛍光灯が一本。
半分だけ点灯し、残りは消えている。光はまっすぐ落ち、影が硬い。
窓はない。
外光が一切入っていない。
地下だ、と直感する。
そして人物。
床に座り込んだ男が、壁にもたれている。
頭が横に傾き、首筋に影が落ちている。
両手は前に置かれているが、拘束具は描かれていない。
奇妙なのは表情だった。
苦しんでいない。
恐怖もない。
ただ、目を閉じている。
眠っているように見える。
灯は鉛筆の線を追い、さらに細部に気づく。
男の足元に、四角い凹み。
床に残る圧痕。
箱を置いていた跡だ。
そして壁の隅に、小さな数字。
汚れのように紛れているが、明らかに“書かれた”数字。
【2】
灯の喉が乾いた。
「……二日?」
未来まで二日なのか。
それとも二日前の光景なのか。
答えは絵の中にない。
一場面だけだからだ。
だが、ひとつだけ確信できることがある。
――生きている。
死亡未来ではない。
だから助けられる。
灯は震える指で携帯を掴んだ。
『灯?』
東堂はすぐ出た。声に眠気はない。すでに動いている人間の声だ。
「描きました」
『何が出た』
「事故じゃありません。室内です。地下。失踪者が……生きてます」
短い沈黙が入った。
『未来か?』
「分かりません。けど、いま“いる”絵です」
『絵を説明してくれ』
灯は構図を言語化する。壁の欠け方、蛍光灯、床の荒さ、箱の圧痕。自分が絵を見て感じた“空気”まで、可能な限り正確に。
『倉庫系の地下だな』
「根拠は?」
『蛍光灯の取り付け方と壁の剥離が、古い物流施設に近い』
東堂の声には確信が混じっていた。
灯はそれを頼りたくなかったが、否定もできない。
「数字があるんです。2」
『二日以内か、二日前か……』
「絵が更新されるかもしれません」
『なら現場へ行く』
「私は近づきません」
『分かってる。外にいろ』
午前、東堂の車で港側の倉庫群へ向かった。
潮の匂いが強くなる。道路脇にはコンテナが並び、建物はどれも無表情な四角い箱だ。人が少ない。だからこそ、何かが起きても目撃されにくい。
灯は車を降り、倉庫の入口から距離を取った。
風が強く、耳の奥が冷える。
東堂が建物の周囲を見て回り、数分後に戻ってくる。
「地下はあった」
その言葉に、灯は一瞬だけ目を閉じた。
「人は」
「いない。だが……痕跡はある」
「いつまで」
「二日前まで使われてる」
数字の意味が、片方に寄った。
【2】は“二日前”。
灯の背筋が冷えた。
絵が示したのは“未来”ではなく、“時差のある現在”だった。
「移動しています」
「だろうな」
東堂は頷いた。
そのとき、また手の奥が熱を帯びた。
紙を探す衝動。
描画圧。
対象は、失踪者。
意識が繋がった瞬間、線が要求される。
灯は自分の手を見た。
逃げられない。
「……描きます」
東堂は黙ってメモ帳を差し出した。
鉛筆が紙に触れた瞬間、倉庫群の雑音が遠ざかった。
線が走る。
同じ室内の構図。
だが人物はいない。
床の圧痕が増えている。四角が二つ。
箱が二つ運び込まれた跡。
壁の隅――小さな金具。
丸いフック。搬出用。
そして画面の右端に、強い斜線。
扉の縁だ。
扉の向こう側は黒いが、床だけが僅かに明るい。
外へ繋がっている。
さらに、その床に矢印が描かれる。
灯の意思ではなく、線が矢印の形を取る。
出口方向。
搬出。
線が止まった。
灯は息を吸った。
「……移送されました」
東堂の目が細くなる。
「方向は」
灯は矢印を見た。
方位は曖昧だが、構造上の特徴がある。扉の向き、壁の欠け、蛍光灯の位置。
「港側。冷蔵倉庫群の方向です」
東堂は即座に無線を入れた。
灯はメモ帳を閉じ、胸の奥で呟く。
まだ固定はしていない。
これは“追いつける未来”だ。
そして同時に――もう一人の描き手も、これを見ている可能性がある。
同じ対象を、違う絵で。




