第十九話 介入
灯は、名前を捨てた。
手続きをしたわけではない。
紙の上から消しただけだ。
履歴書を書かない仕事を選び、
名乗らなくても済む場所に身を置く。
それだけで、世界はずいぶん静かになる。
小さな町。
駅から徒歩十分。
築年数の分からないアパート。
灯は、そこで暮らし始めた。
朝は同じ時間に起き、
昼は同じ道を歩き、
夜は何もしない。
スケッチブックは、
段ボールの底にしまったままだ。
描かない。
見せない。
語らない。
それが、最後の介入だった。
——未来に、介入しないという介入。
その頃、都心では、展示に関する話題が急速に消えていた。
新しい正義は、
次の話題に取って代わられる。
未然に防げた事件も、
防げなかった事件も、
ニュースの寿命は同じだ。
東堂恒一は、署の窓から街を見下ろしていた。
展示側は、消えた。
だが、思想までは消えない。
それでも、
“核”がなければ、
広がらない。
不知火灯という核は、
もう、そこにいなかった。
「……勝った、か」
三嶋恒一郎が、隣で言った。
「いいや」
東堂は、首を振った。
「負けなかった、だけです」
三嶋は、小さく笑った。
「それで十分だ」
数週間後、
東堂の元に、一通の封筒が届いた。
差出人は、なし。
中には、紙が一枚だけ。
白紙。
——何も、描かれていない。
東堂は、その紙を見て、
なぜか、深く息を吐いた。
生きている。
それだけで、いい。
一方、灯は、町の子ども向けの絵教室で、
紙と色鉛筆を配っていた。
「好きなもの、描いていいよ」
未来の話は、しない。
子どもたちは、
魚や電車や、
意味のない線を描く。
誰も、未来を当てようとしない。
灯は、それを眺めながら、
胸の奥が、静かであることに気づいた。
——来ない。
それは、
力を失ったからではない。
選ばなかったからだ。
夕方、教室を閉めたあと、
灯は一人、川沿いを歩いた。
水面に、街灯が映る。
光は、そこにある。
だが、誰もそれを
意味に変えようとしない。
灯は、立ち止まり、
ポケットから小さな紙を取り出した。
真っ白な紙。
描こうと思えば、描ける。
だが、描かない。
その選択が、
世界を少しだけ、自由にしている。
灯は、紙を折り、
ポケットに戻した。
未来は、
今日も、未定だ。




