第十七話 東堂の血
その絵は、描いた覚えがなかった。
だからこそ、灯はそれを見つけた瞬間、息を止めた。
カフェの閉店後、レジ下の棚を整理していたとき、
紙が一枚、落ちた。
白いコピー用紙。
鉛筆の線。
——東堂恒一。
横顔。
受話器を持つ手。
指の付け根から、赤。
灯は、紙を拾い上げた。
描いていない。
少なくとも、意図しては。
胸の奥が、冷たくなる。
——描かないと決めても、
完全には、止まらない。
電話が鳴った。
『東堂です』
声は、いつも通りだった。
「……今、どこですか」
『署です。
展示側の件で、
少し動きがありました』
灯は、紙を見つめたまま言った。
「……怪我、していませんか」
わずかな沈黙。
『どうして、そう思うんですか』
灯は、目を閉じた。
「答えてください」
『……小さな切り傷です。
資料で指を』
一致している。
完全ではないが、方向が合っている。
「東堂さん」
『はい』
「……今日は、
誰とも会わないでください」
電話の向こうで、
東堂が小さく息を吸う。
『不知火さん』
声が、低くなる。
『あなた、
また描いてしまいましたね』
否定は、できなかった。
「私は……
見せていません」
『それが、問題なんです』
東堂は、静かに言った。
『描かれた未来は、
必ずしも展示されなくても、
誰かに“届く”』
灯は、歯を食いしばった。
「展示側が……?」
『内部から、
情報が漏れています』
東堂の言葉は、重かった。
『あなたの絵が、
誰かの期待と結びついた』
——信じた人間が、いる。
「……私が、
消えます」
灯は、はっきり言った。
『それは——』
「もう、象徴になれません」
電話を切る前に、
灯は最後に言った。
「あなたは、
助かります」
それは、祈りではなかった。
選択だった。
電話が切れたあと、
灯は紙を、丁寧に折った。
破らない。
燃やさない。
——誰にも、見せない。
その夜、灯は町を出た。
始発前の電車。
名前のない席。
海の匂いが、遠ざかる。
未来は、
また、分岐した。




